プロローグ

 駅の改札を出たとたん、冷たく湿った風が顔に吹き付けると、久賀丞已くが じょういは思わず左手で、トレンチコートの襟を寄せた。顔をそこに埋めるように、歩き出す。ここ数日で積もった雪は融けてアスファルトの道に水たまりを作っていた。タクシー乗り場を横目で流し、そのまま過ぎる。
 商店街はほとんどの店がシャッターを下ろしていた。風営法にひっかかる店など、この街にはないだろう。深夜営業のカフェや居酒屋、コンビニに寄ることもなく久賀は家路を急いだ。
 商店街を過ぎて橋を渡り、閑素な住宅街を十分も歩けばマンションに着く。異変に気付いたのは商店街を抜けた辺りだった。
 ――付けられている?
 外灯が転々と並ぶ道には人気は全くない。だが、微かに後ろから軽い足音が聞こえる。試しに歩速を緩めてみた。相手の距離は縮む気配はない。やはり一定の間隔を保っている。
 久賀は外灯の光が届かない暗がりで、マンションの手前で小道を素早く右に折れ、ブロック塀に身を潜めた。その直後、さっと影が通り過ぎていった。
 外灯に一瞬照らされた後ろ姿は、カーキ色のブルゾンに黒のリュックサック。成人男性にしては小柄だ。不審人物は久賀が隠れているとも知らずに目の前を足早に素通りし、マンションに入っていく。
 ――住んでいる場所さえ把握されている。
 嫌な予感に背中がこわばるのを感じた。ポケットの中にスマートフォンがあることを確認し、息をひとつ吐くと、ゆっくりとマンションへ近付いて行った。
 磨き抜かれたエントランスのガラス戸を開けると、エレベーターの前に立っていた不審者が驚いたように振り向いた。ブルゾンの下に着た黒いパーカーのフードに顔半分が隠れ、男女の判別もままならない。ただ、細身のブラックジーンズとドクター・マーチンのブーツから若者らしいことはわかった。久賀は相手と自分の体格差を一瞬でスキャンし、安堵した。
「こんばんは」
 久賀は努めて優しく声をかけた。
「……こんばんは」
 少女だ。久賀がゆっくり近付くと、相手はこちらに身体を向けた。黄色い光の下で、フードの影がより濃くなる。
「若い女の子がこんな夜遅くまで歩いていたら家の人が心配するよ。もう十時過ぎている」
 我ながら、説教臭いなと久賀は言ってから気付いた。自分の緊張が緩んだせいだと思った。
「家の人が心配なんかしてくれないから、ここに来てるんじゃない」
 久賀は耳を疑う。声に覚えがある。ずっと昔に聞いたような。脈が速くなる。
 ――嫌な予感が……。
 少女はフードに手をかけた。
 ――それを取るな……。久賀が口を開く前に、フードを頭から取った相手は、にっこりと久賀を見上げた。
「久しぶり、じょうくん。あれ? ずいぶん見ないうちに、また背伸びた?」
 ――それはこっちのセリフだ……。
 久賀はまだ自分が見ている「物」を信じられず、相手を凝視したまま思った。
 
 寝室で、黒のVネックセーターとグレージーンズに着替えた久賀は、マグカップ二つにほうじ茶を入れ、リビングのソファでくつろぐ「客人」に渡した。
 目の前に座っている少女は関野晴美せきの はるみ、十八歳。母の妹、伯母の娘――つまり従姉妹。
 久賀はローテーブルを挟んで絨毯の上で胡座をかいた。
「ありがと。外、すっごく寒いよね。東京と全然違って家が密集してないから山からの風スースー吹くね。丞くん知ってるよね、うちも東京のはずれだけどさ、この時間でももうちょっと賑わってるよ? こっちは店が開いてないんだもん。待ち伏せ、超、辛かった。あ、カフェにいたんだけど。三時間いてコーヒー三杯頼んでさ、あとジャーマンドッグ。お客が私と、中年カップル一組だったんだよ。信じられる!? あ、お腹はすいてないからおかまいなく。丞くん、ご飯まだなら勝手にどうぞ」
「いや、済ませて来た……あのさ、」
 相手が息継ぎをしている短い隙にかろうじて答えたが、二節目に入る前にそれは阻まれた。
「それにしても丞くん、いい部屋に住んでるね。広いし、キッチン別で二部屋? まず入ってちゃんと廊下があるってすごいよね。あたしさ、前に大学生の彼氏がいたんだけど、そのアパートって入ってすぐに廊下っていうか、簡易キッチンとユニットバスに挟まれた空間があって、その奥のドアを開けるとせっまい一部屋なんだよ。ていうか、超カオスだったから、もう異世界って感じ。ドアの向こうは別世界。ね、田舎だから家賃安いの? 検事って儲かるの? でも公務員だよね?」
「ストップ」
 久賀は手を上げて、一向に閉じる様子のない相手の口を封じた。晴美は一瞬目を瞬いたが、彼の手の向こうから再び喋り出す。 
「ていうか、いつからロン毛にしてるの? いつから会ってないっけ。丞くん、今年二十九だよね。ロン毛の検事ってありなの? まあ、悔しいほど似合ってるからいいけどさ。でも、リムレスのメガネはなんかいやらしいなあ。相変わらずテライケメンだよね。女の子ブイブイ言わせてるんでしょ。あー、でも田舎だからそれも限られるのかなあ。ねえ、なんで横浜からこっちに移っちゃったの? 出会いあるの? あれ、今、彼女いたっけ」
 ――出会いなら、ある。そもそも、彼女に会うためにここに来たのだから。ずっと探していた、あの人に。
 部屋に響いていた声が消えた。あの人の姿だけが視界に浮かぶ。胸の辺りがじわりと熱くなる。この熱を、いつまでも感じていたい――。しかし、それを手に包もうとしたとたん、それは次第に冷め、消えてしまう。
 テレビのミュートから徐々にボリュームが上がるように、声が聞こえてくる。ぱくぱくと口を動かす晴美が現れる。
 久賀は人の話も聞かずに機関銃のように喋りまくる客人を前に、頭痛の気配を感じて髪をまとめているゴムを取った。聴覚のスイッチを完全にオフにし、とりあえず熱い茶を啜って心を落ち着かせて相手のデータを記憶から引っ張り出す。
 三年前に彼女の両親が離婚したというのをなんとなく母親から聞いていた。ああ、だから今は関野じゃない。川崎かわさき晴美だ。最後に会ったのはたしか六年前の祖父の葬式だ。久賀の母と伯母は良く似ているが、久賀と晴美も子供の頃、一緒に外を歩けばよくきょうだいと間違えられた。
 顔は細面、目は切れ長で高い鼻の鼻梁も真っすぐ通っている。ただ、久賀の唇が薄く神経質な印象を与えるのに対し、晴美のそれはふっくらと厚みがあって、また口も大きかった。良く喋るのもわかる気がする。
 髪型はショートで、明るい。スリムジーンズの似合う体型で、女らしいというよりは中性的だ。
 晴美がマグカップに口をつけたタイミングで、すかさず久賀は切り出した。さすがに茶を飲みながらは話せまい。
「なんでうちに来たの? わざわざこんなど田舎まで? 綾子伯母さんからなにも聞いてないけど」
 マグカップの上で目が丸くなる。ごくりと喉を鳴らして晴美は茶を飲むと、「ひどーい」と頬を膨らませた。
「久々に会って最初の言葉がそれえ?」
「晴美が何の説明もしないから聞いてるんでしょうが。余計なことをべらべらべらべらと。まずこっちの質問に答えろ。終電があるうちに」
 新幹線の終電って何時だったか、と一瞬久賀の頭に不安がよぎった。だが、夜中に少女一人放り出すのも無責任かと思い直す。
「え、あたし、帰らないよ」
「面白い冗談だな」
「検事さん相手に冗談言ってもしょうがないでしょ? はい、それでは久賀丞已検事、尋問を始めてください。一晩中語る自信あるよ」
「いや、できれば手短に頼む」
 カップをテーブルに置いた晴美は、ソファの上で背筋を伸ばした。久賀もテーブルの上に両手を重ねて相手を見据えた。
「連絡もなしに、ここに来た理由は」
「丞くんの携帯の番号、知らなかったから。丞くん、去年引っ越したでしょ? だから、ここの電話番号も知らないし連絡のしようがなかったから。住所は年賀状見てググった」
 久賀は頷いた。
「ここに来たのは、まあ、話せば長くなるけど……あの、本当にここに泊まらせてもらっちゃだめ? 超嫉妬深い彼女とかいる?」
 晴美が身を乗り出す。今までと打って変わって逼迫した従姉妹の様子に久賀は「だめだ」という言葉を飲み込み、代わりに溜め息を吐いた。 
「彼女はいないけど。わかった。とりあえず今日はもう遅いから泊まっていい。ただ、伯母さんには連絡しておいて」
「あ、大丈夫。もうちゃんと許可もらってある。ていうか、その方があの人にとって都合いいんだよね。そうだ、家賃を振り込んでおくから口座教えてって」
「は?」
「丞くん、もう耳が遠くなったの? ちょっとの間、ここにいさせてくださいってこと。彼女いないなら、大丈夫だよね。いやあ、よかったよかった」
 久賀は思わずマグカップの取っ手を握った。もうすっかり冷めてしまったのが残念だ。いや、冷たい方が相手に火傷を負わせる心配はない。
「丞くん、お茶まだ入ってる? あたし疲れちゃったから寝るけど、入れなおして来てあげるよ。お世話になるんだからね、それくらいさせてください。あ、寝る場所このソファで十分だから。大きいし座り心地抜群だし……いたっ!」
 ごろん、とソファの上で身体を伸ばした晴美の脚に、久賀が指鉄砲で飛ばした髪ゴムが命中した。
「痛いじゃない! そんな子供みたいなこと……」
「子供はどっちだ。まず俺にわかるようにちゃんと話してもらおうか。納得しないうちは絶対に寝かせないからな」
「やん、『寝かせない』とか丞くん、それヤバいから。一応、あたし年頃の娘だし」
 ――そんなことを言えるのが子供なんだよ。
 久賀は長い息を吐くと、立ち上がってバスルームに行った。話を聞く前に頭痛薬を飲んでおこうと思った。

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