第十話

 始関と話を終えた久賀が捜査会議に顔を出し、進捗状況を確認して引き上げると、五時を過ぎていた。刑事部屋の入り口に近付くにつれ、嫌な予感が頭をよぎる。部屋に入ると、やはりそこには二時間前に見た光景があった。
 雅季がパソコンの画面を見つめ、横に広げられたノートは白紙のまま、その上にはボールペンが転がっている。
 雅季は久賀を徹底無視していた。
 久賀が始関に雅季の早退を告げたとき、彼の口の端に感心と揶揄の混合した笑みが浮かんだのが、今腑に落ちた。始関はこれを予測していたのだ。
 久賀はその場で雅季を観察した。彼女は久賀の視線を意識しながら、静かにマウスを動かしている。この頑さは、検事と警察の確執から来ているのか。それとも、久賀丞已という男に屈したくない意地のようなものなのか。どちらかといえば、そのほうがいい。それは相手が自分を組織でなく個人として意識している証拠なのだから。
 もう一度始関のところに戻り、内線一本かけてもらおうか。ふとそう思ったが、悔しい気がしてそれは却下した。第一ラウンドは自分の負けだ。
 久賀は一歩進み出た。
「まだいたんですか?」
「切りが着いた帰ります」
「それはどれくらいかかるんです?」
 雅季はディスプレイに視線を留めたまま「さあ」と答えた。
「さっき、私が言ったことが理解出来なかったんですか?」
 久賀は努めて穏やかに言った。
「今日はもう、なにも出てきません」
「久賀さんのおっしゃったことはわかりました。でも、決断するのは私です」
 突然、腹の底から怒りが込み上げた。自分でもなぜかわからない。その理由を考えるより前に身体が動いていた。久賀が二歩で雅季の隣へ行き、パソコンの電源ボタンを長押しすると、雅季は弾かれたように顔を上げた。
「なにするんですか!」
「あとは私が片付けます。帰って休んで下さい。身体を休めないと頭だって働かない。いいですか、捜査はあなた一人でしているんじゃない!」
「寝ながら三人目の犠牲者が出るのを待てと?」
 雅季の声は静かだったが、怒りが小さな身体から滲み出ていた。
「それなら、三人目の犠牲者になるのはあなたですね」
 久賀は深く息を吸って気を鎮めた。違う、こんなことを言いたいんじゃない。
「今日、ここであなたが同じ資料を何十回と繰り返し見て、何が出てきましたか?」
 久賀は白紙のページを指した。雅季は唇を噛んだ。
「我々だって、人間です。限界があります。そんな疲れた頭じゃなにもひらめきません。何も見えてきません。ミスを、間違った判断をして犯人を見逃すことだってあると思います。そして、それこそが犯人の思うツボだと思いませんか?」
 雅季は肘掛けに手を置き、挑戦的に胸を反らした。
「すべての刑事が、久賀さんの思い通りにはなるとは限りませんから」
「では、始関さんに頼みます」
 雅季は肘掛けの上で拳を握った。直後、立ち上がってロッカーからBREEの革バッグを出すと、乱暴に机上のものを中に入れ始めた。
「ちなみに篠塚さんの今夜の予定は?」
 雅季は手を止めて顎を上げた。
「強制送還で自由な時間が出来たので、妹は旅行で一週間留守ですし、お惣菜でも買ってテレビの前で食べてから、じんちゃんと遊んでご指示通り、早く寝ます」
「じんちゃん?」
「リクガメです」
 カメと何をして遊ぶのか。一瞬興味が湧いたが、それは本題じゃないと思い直す。
「家で仕事するつもりでしょう」
「それは、ないです」
 よく、これで刑事をやっていられるな。落ち着きなく視線を泳がせる雅季を前に、久賀はある意味感心した。
「顔に書いてありますよ。今入れたの、報告書ですよね。持ち出し禁止の」
 雅季は大きな目をさらに見開いた。
「どうして久賀さんは私の自由にさせてくれないんです? 仕事をして何が悪いんですか?」
「どう、仕事するかです。今入れた書類を全て引き出しに閉まって、鍵を私にください」
 久賀が決然と言い放つと、雅季はしばし思案していたが、諦めたように手を動かし始めた。書類を出したバッグに塩大福の袋を机の鍵と一緒に入れた。
「いいでしょう。では、私も駅まで一緒に行きますよ。ついでに食事もどうですか」
「え!? それ本気じゃないですよね!?」
「本気ですよ。これは今後の捜査を円滑にするプロセスのひとつだと、検事としての見解です」
「そんなの、おかしいです」
 雅季の怒りが当惑に一変した。
「久賀さんは、もっとましなことをするべきです。それこそ、晴美ちゃんと一緒に……」
「彼女は予定があるようです」
 雅季の手持ちの弾は尽きた。第二ラウンドはもらった。久賀は同僚に対して丁寧に訊ねた。
「篠塚さんの返事は? イエスですか、それとも、イエス?」

 * *

 永瀬に標本を見せられた直後、アパートのチャイムが鳴った。恵里佳だった。永瀬は何事もなかったかのように布を戻して棚を隠し、それからピザを注文して、テレビゲームでカーレースをしたり、ネットで彼等の集いのホームページを見たりして、それなりに楽しい夜を過ごした。
 晴美は長居せずに、九時前には恵里佳と一緒に帰宅した。従兄弟はまだ帰ってなかった。
 しかし、今日永瀬に誘われたのは、晴美一人だった。時間通り、五時にアパートを訪ねると、ドアを開けた永瀬は満面の笑みを見せた。途端に晴美の脈が速まる。
「来てくれたんだ。上がってよ」
 玄関に一歩踏み入れた晴美は、そこに黒いエナメルの厚底ブーツを見つけて、息を止めた。
「あ、もう来たの」
 顔を上げると、奥の部屋に永瀬の妹、早紀の横顔が見えた。ゲームの機械音とコントローラーをかちゃかちゃ鳴らす音が聞こえる。
「早紀、早く帰れよ」
 クローゼットに晴美のブルゾンを仕舞い、代わりに永瀬は黒のコートをベッドに置いた。早紀は部屋に入って来た晴美を下から一瞥し、ゲームをそのままに立ち上がってコートに腕を通した。晴美の身長は一六三センチだが、その鼻の辺りに早紀の頭はあった。
「別に歩に言われなくても帰るわよ。ここにいたって邪魔者だし。ま、あたしも新作で忙しいしね」
 早紀は黒いハンドバッグを掴むとアパートを出ていった。
「彼女は近所に住んでるんだけど、たまにああやってふらっと来るんだ」
「あたし、嫌われてるみたい」
 永瀬は白い歯を見せた。
「早紀は誰のことも好きじゃないよ。むしろ人を憎んでる。全人類消えてなくなればいいと心底思ってるよ。実際そう言ってるしね」
「それは、集会で?」
「昔から。まあ、気にすること無いから」
 座ってて、とベッドを指され、晴美の鼓動はさらに高鳴った。彼はすでにキッチンでお茶を作っている。
「どうぞ。熱いから気をつけて」
 晴美は受け取ったカップにふうと息を吹きかけ、舐めた。甘い香りに気持ちが解ける。
「これ、何のお茶? 美味しい」
「ルイボスティー、キャラメルフレーバー」
 永瀬はラップトップを起動させて音楽を選び、晴美の隣に座った。顔を直視出来ず、晴美は黙ってお茶を飲んだ。
「あ……、もしかしてこれ、お酒入ってる?」
「うん。ラムをほんの少し。もしかしてお酒弱い? 無理に飲まなくていいよ。今日はとくに冷えたから、温まると思って」
 そっか。気を遣ってくれたんだ。久賀の『禁酒禁煙』の言葉がふと浮かぶ。でも、こんなの飲酒のうちに入らないよね。それじゃあ、ティラミスだって食べられないもん。
「ううん。美味しい」
 気のせいか、確かに身体がぽかぽかする。頬も、ぼうっと熱い。隣の永瀬との間隔は、物理的には友達のそれだが、すでに彼の体温が伝わってくるようだ。沈黙を、音楽が埋めている。おもむろに永瀬が半分ほど飲んだ自分のカップをテーブルに置いた。
「今日、晴美ちゃんが来てくれて嬉しいよ。ここに来ること、従兄弟に言ってないの?」
 晴美を窺う彼の眼に期待と不安がちらついた。月曜に、晴美が従兄(じょうくん)の家に住んでいることを恵里佳は彼に暴露していた。そして、検事ということも。
「ううん」
「従兄、晴美ちゃんに興味ないんだ」
「忙しいだけなの」
 ふうん、と永瀬は鼻を鳴らす。
「でも、晴美ちゃんって、寂しいんじゃないかな、っていうのが、僕の第一印象」
 晴美は思わず永瀬を見つめた。彼は、ちゃんと見ていた。自分のことを。
 前髪の隙間の、奥二重の涼しげな目、薄い唇、細い顎。端正な永瀬の表情には、つかみ所が無い。今も彼が何を考えているのかわからない。でも、そこが永瀬の魅力なのかもしれない。
 だから、そんな彼が晴美に会えて嬉しいと言い、自分のことを聞きたがっている態度に、晴美は胸をときめかせた。
「そういえば、どうして従兄弟と一緒に住んでるの?」
 晴美は永瀬に両親の離婚のことから、最近母親に恋人が出来た話を告白した。それから、久賀にも話していないことを付け加えた。
「パパが去年再婚して。相手の人に十二歳の娘がいて」
「ああ、パパ取られちゃって思った」
「うーん、なんだろう。そうは思いたくはないんだけど……」
 晴美は茶を飲もうとして、カップはすでに空だったことに気付き、またテーブルに戻した。
「それで、今、母親は晴美ちゃんより彼氏に夢中」
 そっか。そういうことなんだ……パパと別れた直後『女同士頑張ろうね』なんて言ってたのに。
「あたし、親離れ出来てないのかな……もう高校生なのに」
 鼻の奥がツンと痛む。
「そんなことない。晴美ちゃんだって、お母さんを今まで支えて来たんだろ? それなのに、裏切るなんてひどいと思う」
 永瀬がそっと肩を抱き寄せた。その途端、ぶわっと涙が溢れて来た。慌ててセーターの袖で涙を拭う。
「ご、ごめんね」
「大丈夫。それじゃあ辛いはずだよ」
 温かい手が頭を撫でる。ダム決壊。晴美は嗚咽を漏らした。
「落ち着いた?」
「うん、ホントにごめん……びっくりしたよね。いきなりマジ泣きして」
 永瀬の腕の中で、晴美は彼に渡されたティッシュで涙を拭いた。
「大事なのは、今、晴美ちゃんが少しでも楽になったかどうかだよ」
 晴美は頷いた。彼が言うまでもなく、今まで誰にも打ち明けられなかったこと全てを吐き出し、気持ちがすっきりしていた。
 永瀬の腕はまだ晴美の肩を抱いている。永瀬が顔を覗き見たとき、晴美は思わず顔を逸らした。やっぱり、泣いた顔は恥ずかしい。
 彼の手が晴美から外され、やや身体を離した。肩を抱いていた反対の手が晴美の頬に触れた。そっと顔を上げさせられ、視線が交わった。
「僕、晴美のこと、いいなと思ってた……」
 囁いた直後、唇が重なっていた。晴美は始め、それが何か分からなかった。柔らかくて温かいもの。それが唇に優しく押し付けられ、軽く吸われた。いつの間にか身体に腕が回されて、体重をかけられるとベッドに押し倒されていた。
 嫌じゃなかった。ただ、心臓が胸を突き破りそうなほど、高鳴っている。永瀬の身体の重みで、苦しい。
 息を吸おうと薄く開いた唇の間から、彼の舌が入って来た。荒い呼吸が混じり合う。永瀬も、自分と同じ気持ちだ。そう確信すると、永瀬の濡れた舌を受け止めていた。
 キスをしながら服の上から身体をまさぐっていた彼の手が、セーターを捲ってTシャツの裾から入って来た。ブラの上から胸を撫でられる。そっと、もどかしいくらいゆっくり手は動いている。元カレの、一直線に目的に辿り着こうとする性急なそれと全く違った。永瀬は、身体のどこを、どうやって触れればいいかわかっている。反応を、見ている。
 首筋を吸われた。くすぐったさと同時に、頭が甘く痺れる。ブラが押上げられ、胸が手に包まれた。そのとき、太腿に押し付けられる強張りが、晴美を一瞬我に返らせた。視界の端に本棚が目に入ると、その布の裏の光景が脳裏によぎった。
「あ……」
 晴美は両手で永瀬の肩を少し押し返すと、彼は再びキスをして来た。今度は一変してかなり性急で、思わず相手の身体を本気で押し退けた。
「ちょ、ちょっと、まって……」
 永瀬は覆い被さったまま、晴美を見下ろした。目元が紅潮し、肩で息をしている。
「まだ……」
 永瀬が晴美から完全に離れた。晴美も座りなおし、衣服の乱れを直した。向かいに座っていた永瀬が晴美の膝の辺りを見ながら、「ごめん」と呟いた。
「僕じゃ、嫌だった?」
「そ、そうじゃないの」
 晴美が慌てて言うと、永瀬が顔を上げた。その完全に打ちのめされたような風情に、晴美の胸が痛んだ。
「ちょっと、まだ、早いと思って……」
 相手の表情が少しほころぶ。
「そうだよね。ごめん、余裕無くて。なんか、泣いてる晴美ちゃんにすごくぐっときて……本当に、ごめん」
「大丈夫……。ちょっと、驚いただけ」
 正座をし、ぺこりと頭を下げた永瀬を可愛いと思った。恐怖はもうどこにもない。
「え、全然謝らなくていいし! そうだ、なんか食べようよ。またピザでもとろうか」
 ぱっと上げた相手の目が輝く。
「いいね。あ、そうだ。昨日のカレーでよかったらまだあるけど。すぐに米炊けるし。時間まだ大丈夫?」
「うん。食べたい」
「じゃあ、すぐ支度する」
 カレーを食べた後、ベッドに並んで座り、DVDを一本一緒に観た。その間はずっと手を繋いでいた。バス停まで送ってくれた永瀬と、誰もいないそこでもう一度だけキスをした。そして、金曜日の会合で会おうと約束した。

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