第十四話

 柴山と多岐川が帰った後、久賀は新鮮な空気を吸いたいと雅季に告げ、警察署の裏口から外に出た。通りに面した正面玄関にも駐車スペースはあるが、裏の駐車場はその倍以上の広さで、パトカーが三台待機していた。やけに派手な赤い外車は始関のだ。裏口を出てすぐに、スタンド灰皿がある。緑のフェンスで囲われた向こうは、民家が並び、夕方の空は透明感のある藤色だ。
 久賀は、隣で腕を組んで体を小さくしている雅季を見下ろした。
「寒いでしょう。先に戻っていてください」
 雅季は首を横に振った。空気は冷たかったが、久賀は不思議と寒いと思わなかった。柴山の話を聞き、頭が上気せているからかもしれない。彼の証言で犯人の動機はわかった。『感情を手に入れる』。ふざけた理由だ。だが、柴山には容疑者に関しての肝心な記録が一切ない。そして、次の犠牲者――おそらく『憂鬱』な人物――はこの世に溢れかえっている。
「篠塚さんは、何を考えているんですか?」
 目線を落とすと、目が合った。夕日で煌めく上目遣いに、こんな時でもぐっとくる。
「もし、柴山勝茂を起訴して有罪判決が出たとしても、果たしてそれまで彼は……」
 そうだ。柴山の病気がどれだけ進行しているかはわからない。だがあの様子では、そして、医者としての彼の言葉なら、本当に長くはない気がする。
「残念ですよね」
 彼が罪を償えないことか、それまでに命が尽きることか。久賀は答えたものの、自分でもわからなかった。
「でも、久賀さん、柴山を起訴するつもりはないでしょう」
 久賀は長い溜め息で答えた。雅季もそれで十分だったようだ。
「起訴するにも、証拠が不十分ですから」
 雅季がバレッタを取った。
「前に、久賀さんが、始関さんが私を特別扱いするのはなぜか、と訊いた時『始関さんに借りがある』って答えましたよね」
 雅季が首を傾げるように、久賀を見上げる。さらりと髪が顔にかかった。
「私が捜査会議以外、本部に顔を出さないでスタンドプレーを許すとか、普通ありえないですよね。でも、私まだ、ダメなんです。ああやって、大勢の男性と一緒にいるのが」
 久賀は息をのんだ。
「警察官になったのは、私みたいな被害者がこれ以上でないように、という願いもあったんですけど、他にも、警察だから安心できると思って。単純ですよね。でも、あれから二十年以上経っているのに、昔ほどではないですが電車とか、バスも人混みも未だに苦手です。本当に、怖いです。それを、始関さんはわかってくれているので」
 情けない、って自覚はあるんです。と、ため息交じりに雅季はこぼした。
「久賀さん、人は生まれたときには、悪意なんてないじゃないですか。いつ、どの瞬間に人は悪魔になってしまうんでしょう。彼ら自身の中に、それを止める天使はいないんでしょうか」
「実は、悪魔の存在の方が容易に想像出来ますよね」
 雅季は髪を耳に掛け、ちらりと久賀を見た。その唇の端に、皮肉な笑みが刻まれた。
「悪魔とか天使とか、何言ってるんだって思いますよね。でも、刑事をやっていると、人は人為的なものではない何かに常に翻弄されているのではないかと、ふと思うんです。なぜここで犯行を踏みとどまらなかったのかって。それはやっぱり、悪魔の囁きのせいじゃないかって」
 雅季はそこで区切り、髪を元のようにまとめた。
「でも、結局、警察の世界には白か黒か、それしかないですから。現実はそう簡単に割り切れるものじゃないと思っても」
「ええ、そうですね」
 こんな時、雅季に気の利いた言葉の一つ掛けられない、不甲斐ない自分に呆れる。
「すみません、寒い中こんな話。普段は根古里さんにもしないんですけど」
 雅季は「いきましょう」と鉄製のノブを回した。
「私も篠塚さんを特別扱いしたいと思っています。情けなくていいじゃないですか」
 不意に、久賀の口から素直に言葉が出た。こんなときだが、こんなときこそ、気持ちを伝えたかった。弾かれたように振り向いた雅季の顔は、紅潮していた。久賀はその反応に唖然とした。
 これは、もしかしたらまだ……。
 そのとき、雅季のポケットでスマホが鳴った。
「篠塚です。はい。ご苦労様です。え……。あ、すみません。掛け直してもいいですか。ええ。すぐに……」
「どうしました」
「科捜研です。三人の写真のことで」
 雅季の声が弾んでいる。
「確実に、犯人に近づいています」
 
 科捜研との電話の後、二人は急いで柴山勝茂の調書をまとめ、夜の捜査会議に臨んだ。
「三件の事件の犯人像について繋がる材料が出てきました」
 雅季が発言した、柴山の過去と犯人の繋がりに捜査員たちは衝撃を受け、動揺を禁じ得なかった。
「こちらの写真ですが。この写真はデジタルカメラで撮影され、犯人本人によって現像された
ものと報告がありました。そして、現像したプリンターですが、家電量販店などで手に入る家庭用プリンターではなく、プロ用のラボ機が使われた可能性があります」
 雅季は科捜研から戻って来た写真を、ホワイトボードに並べた。
「じゃあ、犯人はプロのカメラマン?」
 腕を組んで聞いていた始関が片手を上げる。
「断定は出来ませんが、カメラマン、もしくは趣味でもカメラや写真に知識があり、機材も揃えている人物かと。言われてみると、ただのスナップ写真とは違う気がしませんか」
「そうだね。なんか、光の具合とか? ぱっと目を惹くよね」
 会議室の捜査員も改めて写真に目を向ける。
「それで、今後の捜査はどうしたらいい? 篠塚くん」
 始関は写真の貼られたホワイトボードの前にいる雅季に訊いた。始関は指揮デスクに着かず、なぜか他の刑事に混じって久賀の隣にいたのだが、久賀は思わずその横顔を凝視した。なんだ、この人は。一課長が巡査部長に指示を仰ぐなんて、完全に常軌を逸している。
 雅季も困惑の表情を露わにしつつ、答えた。
「この辺り一帯のフォトスタジオ、または検索でヒットするフリーランスのカメラマンなどを直に当たってください。三件の発見現場の位置関係も含め……」
 雅季が壁の地図を示しながら指示を出している間、始関が久賀に肩を寄せて囁いた。
「篠塚くんてさ、こうやってたまに崖から落とすと、ちゃんと這い上ってくる」
「『獅子の子落とし』ですか。篠塚さんは獅子の子にしても可愛過ぎると思いますけど」
 久賀は口を滑らせたことに気がつき、始関に顔を向けた。始関は片肘に顎を預けて久賀をじっと見詰め、にやりと口角を上げる。
「だよねえ。僕もそう思う。だから、まあ、いろいろ頑張ろうよ」
 班に分かれた捜査員たちがパソコンに向かうと、始関は「ご苦労さん」と雅季を労い、颯爽と会議室を後にした。
 その後、久賀と雅季がリストアップした担当地区内のフォトスタジオを数件、一人のフリーカメラマンを当たったが、収穫は無し。その頃にはすでに七時半を回っていた。
「今日は一度戻りましょうか。誰かがすでに発見しているかもしれませんし」
「もう一件だけ、行かせてください。ここからそんなに遠くありませんから」
 路肩に止めた車内で肉まんを頬張りながらリストを見ていた雅季は、食べ終わるとペットボトルの水を飲み、久賀の返事を待たずにインプレッサのギアを入れた。
「どのスタジオですか」
「フリーです。長谷川啓子(はせがわ けいこ)
 久賀もウーロン茶の蓋を閉め、リストを受け取るとスマホの光で名前を探し、連絡を入れた。

  *

「散らかっていますけど、どうぞ」
 雅季の身分証をちらっと見ただけで、長谷川はすぐに二人を部屋に通した。若くはないが、溌剌とした女性というのが第一印象だった。ダンガリーシャツに、焦げ茶のカーゴパンツ。
「お話ってなんでしょうか。あ、何か飲みます? すみません、さっき起きたばかりなので」
 久賀は壁の時計に横目をやった。八時五分前。
「いえ、お時間は取らせません」
 そこは二十畳ほどの洋室で、部屋の真ん中に作業台があり、その上には機材やフィルム、引き延ばされた写真やカメラの周辺機器が雑然と載っていた。部屋の隅にはレフ板や、機材が置いてある。興味深そうに部屋を見渡す二人の視線に気がついたのか、
「ここで主に作業して、下がスタジオになっているんです。ここは両親の持ち物で、改築したんです。向こうがキッチンと洗面所なんですけど、暗室になっています」
 長谷川は作業場の一角を忙しなく片付けながら説明した。
「仕事はずっとお一人で?」
「そうですよ。家賃がないんでなんとかやっていけてます」
「実は、今日伺ったのは……」雅季が問題の三枚の写真を出し、台の空いた場所に並べた。
「この中で心当たりのある人物はいますか。殺人事件の被害者です」
 長谷川は露骨に顔をしかめたあと、首を横に振った。
「この事件についてはご存知ですか?」
「いいえ、詳しくは。珍しい連続殺人事件、というくらい」
 長谷川は写真の一枚を手に取った。
「やっぱり、知らない人です」
「その写真自体で何か気づいたことはありますか? 技術的なものとか、例えば色彩ですとか、プロの目から見て」
「そうですね。警察の方が撮ったのなら、その方プロになれますよ。ああ……、だからですか」
 私のところに来たの、と皮肉めいた微笑を口の端に刻んだ。容疑者と疑われていたとわかり、心証を害したのだろう。
「そうです。実は私たちはこの写真を撮った人物がプロカメラマンではないかと」
 長谷川はしばらく写真を見つめた後、「技術は完璧。でも、感情が死んでいる」
 まあ、死体ですから。と久賀は胸中で呟く。
「私の個人的な意見ですよ、」と長谷川は前置きし、「被写体が死体でも、そこに撮る側の感情をある程度写真に出すことは出来るんです。例えば、風景を撮るにも、被写体には感情がないじゃないですか。湖とか花とか。でも、自分はこの『哀愁』を出したいとか、『朗らかさ』を出したいとか思うと自然とアングルや光を探しています。そうやって表現するのが楽しいんです。見る側が共感してくれればもっと嬉しいですけど。でも、この写真は本当に無機質かな。ある意味すごいと思いますけど」
 長谷川は前髪を搔き上げた。
「事件には関係ないですね」
「いえ、参考にさせていただきます」
 雅季が写真を片付けている横で、久賀は質問を続けた。
「仕事仲間とか、そういった人たちと連絡はとっていますか」
「いいえ。個展の招待状とか来ますけど。たまに雑誌とかで『面白いの撮ってるな』って思うくらいで。連絡し合うことはあまりないです」
「そうですか」
 久賀が雅季を見ると、相手は顎を引いた。
「ありがとうございました。お時間を取らせてしまってすみません」
「いえいえ、大してお役に立てませんで」
 長谷川は先に立って玄関に向かう。そして、ノブに手をかけたところで「あ」と、二人に向き直った。
玉置悟(たまき さとる)さんのところにも行きました?」
「玉置悟さん……いいえ」
 リストにはない名前だった。
「カメラマンですか? 住まいはこの辺りですか?」
「彼のスタジオは街外れですけど、ここからそう遠くないですよ」
「インターネットで調べましたが、その名前は初めて聞きます」
「ああ、玉置さんはいつも匿名です。プロダクトデザイナーで、そちらでは割と知られていましたね。昔、個展に行った時に、彼と話したことがあるんですけど……なにか」
「なにか?」
 雅季が先を促した。
「難しい人かな、って思いました。何考えているかわからないというか。一見、人当たりは良さそうなんですけど、私が彼と普通に話している時に、写真で少し批評っぽいことを言ったら、とても機嫌を害したようで。それから一言も口をききませんでしたし」
「長谷川さんは、玉置さんがこの三人の写真を撮ったと思われますか」
 雅季が畳み掛けると、長谷川は「うーん」と、唸った。
「『はい』とは言いにくいですよね」
 苦笑する長谷川に、久賀は頷いた。慎重になるのは当然だ。犯人と断定するようなものだ。
「どうでしょう、本当にわからないです。すみません」 
「いえ、助かりました。もし、他に思い当たることが出てきましたら、連絡をください」
 雅季は名刺を渡した。
 車を鳴海東署に向けて走らせる雅季に久賀は言った。
「玉置悟に接触する前に、彼の身辺調査をしておいた方がいいですね」
「これからですか? 帰らなくていいんですか?」
「今寝ても夢の中で玉置を追いかけそうな気がします」
 雅季は一呼吸おいて答えた。
「私もです」
 

 
 あたしと彼の関係はなんなんだろう。
 永瀬と体を交えた後、家に帰って来てからずっと晴美の頭にはその疑問が渦巻いていた。
 最初のキスから永瀬は早すぎなかった? もしかして、ヤりたかっただけ? どうして、あたしはあのとき簡単に許したの? 彼はあたしに拒む隙を与えないように、早くしたの? それとも、怖くないように?
 疑念と怒りと微かな希望が晴美をがんじがらめにし、息が詰まりそうだった。体を許した相手に、どうしてこんなネガティブな気持ちを持つのか。それは永瀬がまだ晴美に一度も『好きだ』と口にしていないことがずっと心に引っかかっていたからだった。
 彼は同情してくれた。可愛いと褒めてくれた。でも、肝心の『好きだ』はまだ聞いていない。
 それでも晴美は永瀬を信じたかった。今夜、それを確かめよう。今夜の集会で。電話やラインではなくて、直接会って話したい。
 土曜日に集会があると恵里佳から聞いていた。どうやら、メンバーの一人のバンドマンが、別荘を開放してパーティーを開くらしい。もしかしたら、それは早紀がCDのジャケットを担当したインディーズバンドかもしれない。
 恵里佳には永瀬とのことを話していた。でも、晴美が思ったほど恵里佳はこの話に食いつかなかった。この恵里佳も、不思議な存在だった。晴美が永瀬の相談をすると、興味なさそうな顔をしつつ、細かいところまで訊いてくるし、一度、ファーストフード店で恵里佳がトイレに行った時に、テーブルに起きっぱなしだった彼女のスマホが光り、つい見てしまったディスプレイには永瀬のラインメッセージが浮かんでいた。『集会来る?』業務連絡だとその時は思ったが、晴美には集会のグル―プメッセージは来ても、彼からは一度もなかった。確実に来ると思っているからだろうか。
 恵里佳は会場準備のため一足先に行っていたので、晴美は八時過ぎに家を出た。会場の最寄りでバスを降り、そこから山に向かって舗装された一車線の道路を歩いた。
 緩い上り坂になっている。右手には山の側面をモルタルで固めた斜面が続く。外灯に沿って歩く。わりと贅沢な一戸建ての住宅が点在している。
 十分ほど歩いて目的の家に着いた。ロッジ風の家だ。音楽が微かに聞こえて来ると晴美はほっとした。門に続く私道に、固まった雪に乗り上げるようにして車が数台停まっていた。
 玄関のドアには鍵はかかっておらず、開けると音楽と笑い声が流れて来た。黒いタイルを敷かれた広い玄関に、靴が所狭しと散乱している。晴美はあとで自分の靴がわかるように、上げ底の下駄箱の下に押し込んだ。廊下の壁にフックがあり、空いている場所にマフラーとアーミーブルゾンを掛けた。
「おじゃまします」
 奥に向かって、一応声を掛けて上がる。永瀬……いや、ラミルはどこだろう。
 入って左手に広いリビングがあった。毛足の長いグレーの絨毯が敷き詰められた二十畳ほどのダイニングと繋がったリビングには暖炉があり、シャンデリア風の照明がつられ、大画面のテレビ、猫足のサイドボードなどがあり、高級感に溢れていた。窓はすべてカーテンで閉ざされていて、淡いオレンジ色の間接照明が室内を仄かに照らしている。
 室内の中央に置かれた大型のソファに、男女交えて十人ほどが語り合っていた。リビングテーブルの席でも、何人かグラスを傾けている。壁際に立ったまま談笑している者もいた。この前のライブハウスよりも、全体的に年齢層が高い印象だった。やはり、皆上から下まで黒い服を着ている。その中に恵里佳もラミルもいなかった。
 ベランダの窓に面して二脚並んだ肘掛け椅子に座った早紀――ラミア――を見つけた。彼女はワイングラスを片手に、隣の男性と顔を寄せ合い、話していた。
「あ、来たんだ」
 晴美が近付くとラミアの顔からすっと笑いが消える。
「こんばんは」
 隣の男性が晴美に笑いかけた。短い髪を立て、さっぱりと耳を出している。部屋が薄暗いせいか、顔の血色は良くない。年齢は四十代にも見えたが、子供のようなあどけない表情に、もっと若くも見えた。黒いハイネックにブラックジーンズでスマートだ。晴美は軽く会釈し、早紀に向いた。
「なが……ラミルはどこ?」
 ラミアは薄く笑った。赤い口紅が濡れたように光る。
「探さない方が、いいんじゃない。どうしてもっていうんなら、これ飲んだら教えてあげる」
 ラミアはワイングラスを上げた。
 馬鹿にしてる。そう思うと同時に、早紀の差し出したグラスをひったくり、ワインの残りを一気にあおった。喉に苦い後味。空になったグラスを突き返した。
「へーえ、面白い。少しは根性あるんだ。なら、大丈夫かも。ラミルなら地下にいるかな。ホームシアターに」
 リビングを出て、廊下で人とすれ違いながら、奥の階段を下りた。
 左手がガラスのドアで、中を見るとホームジムらしい。それに面した白いドアは、きちんと閉められておらず、微かに音楽が洩れていた。ドアの隙間に、顔を押し付けるようにして内部を覗き込む。
 室内は暗いが、ときおり閃光が走る。音楽は、晴美も知っているロックバンドのヒット曲だった。上映されているのは過去のPVか。その光を頼りに目を凝らすと、目の前にソファの側面が見えた。人が座っている。白い光に照らされた横顔は、間違いなく永瀬だった。入っていこうとノブに手をかけるが、不意に、暗闇に慣れた目は、背もたれに頭を預けた永瀬の全身を捕らえた。彼は口を薄く開けている。肘掛けに手を置き、長い脚を投げ出している。そのラミルの足下の薄闇の中に、蠢く気配があった。人影が跪いていた。もう一人、いる。喉に石の塊が詰まったように呼吸が苦しくなった。見ちゃいけない。もう一人の自分が、回れ右をしろと頭の後ろで叫ぶ。急に音楽が止んだ。「ああ、」と永瀬が喉を鳴らすのが聞こえた。それは微かな声だったが、はっきり耳の中で聞こえた。
「いいよ、恵里佳ちゃん」
 晴美はあまりのショックに、憤りを忘れていた。胸を高鳴らせながら二人の姿から目を離すことが出来なかった。目の奥が熱くなり、手足が痺れたように動かない。頭がぐらぐらする。永瀬の手が、前後に動く恵里佳の黒髪に置かれた。光を吸って艶めく黒髪はインクのようで、手はそれをゆっくりと掻き混ぜている。
 ふと、永瀬が晴美の方を見た。目が合った。彼は慌てる様子もなく、薄く笑う。気配を読んだのか、脚の間で動いていた頭も上がり、顔がこちらに巡らされる。――恵里佳。
「晴美ちゃんも、来る?」
 永瀬が手を伸ばしたとき、晴美は我に返った。階段を駆け上がり、ブルゾンを着ると他の靴を蹴散らして外に飛び出した。バス停まで後ろを一度も振り向かずに走り、そこでやっと息を吐いた。ぜいぜいと肩を揺らして呼吸を繰り返す。冷たい空気が肺に流れ込み、焼けるように痛い。さっき飲んだワインのせいか、頬が熱い。
 スマホを見ると九時四十分だった。次の最終バスまで二十五分。手の中のスマホが震える。一瞬、永瀬かと思ったが、ラインのメッセージは従兄弟からだった。〈遅くなる〉、それだけだった。画面の文字が急に歪んだ。冷たい頬に温い涙が伝い落ちる。
 晴美は、ブルゾンの袖で涙を拭いながら坂道を下り、交通量の多い十字路で空車のタクシーを捕まえた。従兄弟の部屋を告げる代わりに、「この近くで飲めるところ知りませんか?」と訊いていた。 
 『あっぱれ横丁』と掲げられた看板の下で降ろされた。
 呆然とその場に佇み、赤提灯や、けばけばしい街灯が灯る狭い通りを見渡していると、一件の店の引き戸からトレンチコートの前をだらしなく開けたスーツ姿の男が三人出て来た。そのうちの一人が「次、ギャル。ギャルがいるとこ、行こう!」と騒いでいる。
 それを見ると、晴美の昂っていた気持ちが一気に冷めていった。
 あたし、ここで何してるんだろう。とにかく帰ろう。
 そう思ったとき、突然、強い手が肩を叩いた。肩越しに振り向いた晴美は、相手を見た途端、息をのんだ。

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