第十二話

 翌日、雅季の休日は返上された。
 管轄内で発見された三人目の犠牲者を知らせる電話に叩き起こされると、雅季は睡眠不足で、ぼうっとした頭に熱いシャワーで気合を入れた。仕事にプライベートを持ち込まない。鉄則だ。
『被害者、高沢健(たかさわ けん)。五十七歳、株式会社トップ・ライフ代表。社員研修やコーチングなどのいわゆるコンサルタントが主である。
 昨夜未明、遺体はバス停で発見された。屋根のあるバス停の木のベンチに座った死体の右手には黄色いバラの造花、革のハーフコートのポケットに高沢の経営する会社の新聞広告の切り抜きが入っていた。バス停は新興住宅エリアと製鉄工場を繋ぐ路線の終点で、普段から夜十時以降はほとんど通りはない。殺害の手口は安田里穂と同様。意識の無い状態で絞殺されている。体内からも同じ薬物が検出された。遺体は殺害された後、遺棄されたもよう。今回も心臓が摘出されている。報告は以上』
 雅季は今聞いて来たばかりの捜査会議の内容を頭で反芻しながら、遺体の写真を眺めた。死体の顔に苦しんだ様子はない。一見すると泥酔し、眠ってしまった中年男性の写真だ。次に、広告の写真を手に取った。生前の、スーツで決め込んだ高沢が社屋前で数人の社員に囲まれている。
『意識改革の歓び。人生はもっと豊かになる』
「このキャッチコピー、引っかかりますよね」
 会議室から刑事部屋に一緒に戻って来た青鞍が、資料を精査する雅季に言った。
「ええ。青鞍さんもやはり意味があると思いますか」
「だって、その他に三人の犠牲者を繋ぐものが何も出て無いんですよ。篠塚さんも会議で発言した通り、『愛』『憎悪』はメッセージと考えた方が犯人の行動に意味が出てくる気がします。それで、今回の……」
「快楽? 歓び?」
 コーヒーのカップを両手に、入って来た久賀が継いだ。
「青鞍さん、一課の佐々木さんが探していましたよ。家宅捜索でしょう?」
「あ、もう戻って来たんだ。佐々木警部ってトイレに入ると長いから。じゃ、行ってきます」
「お願いします」
 雅季は再び資料を見ながらコーヒーを呑んだ。久賀の顔が直視出来ない。久賀が話しかけてくる前に、雅季は口を開いた。
「マル害の奥さんは二年前にガンで亡くなっていますし、そうすると高沢に関する聴取も難しいかもしれませんね」
 昨日の話題を避けるために、今日一日はこんなふうに彼にずっと話を振り続けることになるはずだ。久賀は今、どんな顔をしているのだろう。
「安田里穂と手口が同様、まず犯人は同一犯とみて間違いは無いでしょう」
 久賀の口調は普段と変わらない。
「単独犯であれば」
「そうでした」
 沈黙が重い。そう思うのは自分だけだろうか。紙を捲る音が響く。
「三人のマル害の年齢にも違いがありますし。せめて一つでも共通項が見つかれば捜査はかなり前進すると思うのですが」
「そうですね。それと……」
 そのとき電話が鳴り、雅季の言葉を遮った。内線だ。
「篠塚です。えっ。N県……。すぐに向かいます。戻りは遅くなるかも……ええ。お願いします」
 メモしながら雅季は腕時計に目をやった。十時。受話器を置き、久賀の机にメモを滑らせた。
 濃紺のネクタイが視界に入る。
「始関さんでした。捜査本部に情報が寄せられたそうです。ある弁護士が事件の有力な手がかりになりそうな物証があると。ただ、それ以上は警察に直接話したいとのことです」
 事件の概要は許容の範囲で新聞やニュースで報道されている。
「どこの弁護士です?」
「わかりません。名前は多岐川良治(たきがわ りょうじ)。この住所に行けば会えると、ただそれだけです。老人介護施設になっていますね」
 雅季は久賀からメモを取り戻し、上着のポケットに入れた。
「私も一緒に行ってはだめですか」
 既に支度をした雅季は、ロッカーを閉めかけた手を一瞬止めた後、久賀にコートを渡した。
 きっと、事件に繋がるものがある。ここで、何かが動く。動かなければいけない。道は空いていた。高速にのってN県に入れば、あとはナビに任せてスムーズに着くはずだ。
 雅季は一言も喋らなければ、助手席を一瞥もせずに車を走らせた。鳴海東署を出てから十分ほどして、久賀が深く息を吸う音が聞こえると、ハンドルを握る手に力を込めた。
「話したいことがあります」
 久賀の先手。
「何ですか」
「昨夜のことです」
 雅季は唇を噛んだ。久賀があの行為について追求しないと、なぜ思ったのだろう。久賀は検事だ。決してことをうやむやにしない。それをうっかり忘れ、彼が同伴するのを許した自分を呪った。
「何かありましたっけ」
 久賀の視線が左肩に刺さる。一呼吸置き「特に意味はありません」と返した。何かあった事実は、認めた。
「酔っていたんです。酔えば、誰でもおかしな行動をとるものです。久賀さんがこだわることは何もありません。あ、もしかして」
「もしかして、なんです?」 
「きゅうりの味、したんじゃないかって……そしたら、ごめんなさい」
 一瞬、車内の張り詰めた空気が緩んだ気がした。そういうことは肌で感じるものだ。とくに、神経を久賀に集中させている今は。
「しましたよ。きゅうりの味」
「え」
「だから、今朝から夢中できゅうりばかり食べています。この鞄にも一本、入っていますよ」
 雅季の視線と久賀のそれが一瞬合った。とたんに、久賀の告白と、昨夜の自分の行為が脳裏に再現され、心が乱れる。
「そんな……本当ですか?」
「うそです。もしそうなら、私は今頃、市内中のきゅうりを買い占めているでしょう」
「え、はぁ……」
 見られている。それを意識するとみるみる頬が熱くなる。
「とにかく、あのことに、特別なものは何もないです」 
 きっぱりと言い、アクセルを踏み込んだ。それからしばらく静かだった久賀は、山間の道に入ると沈黙を破った。市内に比べてまだ雪がだいぶ残っている。
「篠塚さんがそう思っているなら、私の方もそれでいいです」
 久賀自身納得させるかのような平淡な口調だった。
「それでは、我々はこのままで大丈夫ですよね」
「ええ、それで何か都合の悪いことでも?」
『このままで』。それは、久賀が自分のことを『諦めない』と宣言した状態だろうか。それとも、全て白紙に戻した刑事と検事の関係の『このまま』だろうか。
 自分で言ったにも拘らず、自分の気持ちがわからなかった。
 でも、今はそんなことの為に使う頭はない。容量はない。
 一時間後、二人は住所にある介護施設の玄関に立っていた。二階建てのちょっとした別荘のような外観で、ラベンダー色の絨毯の敷かれたロビーも介護施設というよりもリゾートの宿泊施設の趣だ。雅季が受付のカウンターで身分証を見せて多岐川の名を告げると、制服を来た女性職員が電話の受話器を上げた。相手と来訪の予定を確認したあと、年配の女性職員は二人を、ドアに『談話室1』とドアにプレートのついた個室に案内した。中には黒革の応接セットがあった。彼女が退室の際、お茶がいいかコーヒーがいいか訊いたが、二人は丁寧に断った。
「お待たせしましたか」
 すぐに多岐川良治が入って来た。A4の茶封筒を手にしている。五十代前半の几帳面そうな男性で、中肉中背、紺のスーツに焦げ茶のチョッキを着ていた。名刺を交換する。
「お忙しいところ、遠いところまですみません」
 腰掛けると、多岐川が小さく舌打ちをした。
「もしかして、お茶も出していないんですか?」
「いえ、我々が辞退したんです」雅季はあわてて言った。「ところで、捜査本部の方に連絡をしていただいたというのは……」
「ええ、こちらなんですが……」
 多岐川は茶封筒をテーブルに置いた。雅季はバッグからラテックスの手袋を出し、久賀にも渡す。中から取り出した三枚の写真を見て、雅季は息をのんだ。
 それぞれの写真は安田里穂、小島彰三、高沢健を殺害した後に撮影したものだった。日付は入ってい無いが、すべて、死体を遺棄した現場で撮られていた。
「実は、その裏なんですがね」
 雅季は安田里穂の写真を裏返す。目に飛び込んで来たのは黒いペンで書かれた『愛』の文字。小島の写真には『憎しみ』、高沢は『歓喜』。
 どの字もお世辞にも綺麗とは言えず、怨念や執念の類が伝わる力強い筆跡だった。さらに封筒の中にレポート用紙が一枚入っていて、『愛』『憎しみ』『歓喜』『憂鬱』『希望』『疑念』『信頼』『嫉妬』の文字が並んでいた。写真の裏面にあった文字はいずれも二重線で消されている。リストから抹消されたという意味か。
「写真は、どこにあったんですか?」
「封筒と中身の写真は、私の依頼人宛です。私の事務所ではなく、この施設に直接」
 久賀が封筒を調べている。全国どこでも手に入る普通の事務用の茶封筒だ。切手、消印、差出人の名前はもちろん、宛先、宛名も無い。犯人がここまで来て施設のポストに投函したのは瞭然だった。
「依頼人、と言いますと?」
「私はこの施設で生活をする柴山勝茂(しばやま かつしげ)さんのご依頼で、書類の事務手続きなどのお世話をしています。週に一度は施設に来館し、私が手紙を開封して柴山さんの指示を受けます。ですから、柴山さんへの手紙などは全て私のところに来るはずなのですが、たまに、こうして施設の方にも届くことがあります。今日も何通か来ていたそのなかに、これがあったものですから」
「では、いつこの封筒が投函されたか確実な日にちはわからないと」
 ええ、と多岐川は顎を引いた。
「ここの職員やヘルパーさんで不審人物を見たとか、そういう話は」
「それも訊きました。しかし、ここ数日で怪しい人物を見たという人は誰も」
「あなたは、柴山さんのお仕事をされてどれくらいですか」
「去年からです」
「この写真を柴山さんに送ってくるような人物に心当たりは?」
「全くありません」
「これは柴山さんに見せましたか?」
 まさか、と多岐川は目を見開いた。
「こんな物を見せても何の意味がないじゃないですか。これ、最近騒がれている物騒な事件ですよね。柴山さんは新聞も読まれるしご存知でしょう。でも、関係のない人にこんな写真を見せて不安にさせるなんて、そんな軽率なことは私はしません」
 雅季が横目で久賀を窺うと、眉間に皺が刻まれていた。久賀は写真を元どおりに仕舞う。
「柴山さんにお話を伺いたいのですが」
 雅季が封筒を受け取りながら訊いた。
「それは構いませんが……柴山さんは、施設に来てから、誰ともお会いしたがらないんですよ」
「それは何か特別な理由からですか」
 雅季は手袋をはずし、バッグにしまう。
「いいえ、ご本人が望まないので。もう八十歳なので、やや体が不自由ということもありますが、ええと、生活に支障がでるほどじゃないんですが」
「認知症とか……」
「いいえ、そちらも医師の診断では、問題なく、しっかりしてらっしゃいます。ただ、ご自分と世間を遮断されているんですね」
「そのような原因になることが、なにか?」
 柴山は片手で顎を撫でた。
「私も詳しいことは存じませんが、柴山さんにはご家族もいらっしゃいませんし。お友達もすでに亡くなられたとか、そういうことじゃないですかね。柴山さんは開業医として診療所で働いていたらしいのですが。もう引退されて二十年だとか。私も柴山さんご本人からはそれだけしか伺っていないので、これ以上はなんとも」
「それでは、柴山さんに会わせていただけますか?」
 雅季が傍らのバッグとコートに手をかけると、多岐川は膝に両手を置いてゆっくりと腰を上げた。柴山勝茂の部屋は二階だった。
「柴山さん、刑事さんがお話を伺いたいとおっしゃっていますが、よろしいですか」
 多岐川が入り口で声をかけたが、返事は無い。
「お通ししますよ」
 フローリングで完全バリアフリー。床暖房の暖かさが、ブーツの靴底越しにも伝わってくる。
部屋はテーブルや椅子など洒落た調度で統一され、ホテルの一室のようだった。この部屋に住むのに完全介護で一月どれほどの費用が必要なのか雅季には見当がつかない。つまり、この部屋に住む柴山にはそれを払える財力があるということだ。
 柴山勝茂は、窓の近くにあるテーブルの前に座っていた。外を眺めている様子で、手は湯のみに添えられている。灰色のズボンにえんじ色のセーター。小ざっぱりとした小柄な老人は、引退後の教授のような風貌だった。
 多岐川を筆頭に、三人が近付いても老人は何の反応も示さない。
「鳴海署東の篠塚です。突然お邪魔してすみません」
 反応無し。深い皺に囲まれた潤んだ目は何も見ていないようだった。雅季はさっそくテーブルに三枚の写真を並べた。
「この写真の人物に見覚えはありませんか」
 レポート用紙をその隣に置いた。
「この筆跡でも構わないのですが。誰かがこれらを封筒に入れ、ここの柴山さんのポストに投函しました。何か心当たりがあれば教えて下さい」
 柴山は視線をさまよわせながら、レポート用紙を左手でゆっくり撫でた。そして、震える右手で湯のみを持ち上げ、茶を飲んだ。雅季は安田里穂の写真を指した。
「この女性に見覚えは? 話していただかなくても構いません。何か合図をいただければ」
 柴山は眉一つ動かさない。
「この男性は?」
 続けて訊ねたが、見事に反応がなかった。取り調べでも頑に黙秘を続ける容疑者は何人もいたが、柴山老人は彼等とは全く違った。容疑者は皆自分の存在を主張しつつ、かつ、反抗的な態度、をとることで意思表示をする。だが、柴山は完全に外の世界、他者と自分とを遮断していた。雅季はひとつ息を吸った。
「柴山さん。ここに連続殺人の容疑者が来たのは事実です。その人物がわざわざ危険を冒してここにこれらの写真を届けたのは、柴山さんとなんらかの関係があるからです。違いますか?」
 雅季は久賀に目配せをした。仕方がない、今日のところは撤退だ。
「柴山さん、またお会いすると思います。この写真はこちらで預からせていただきますが、よろしいですね」
 失礼します、と多岐川に目礼し、二人は部屋を辞した。廊下に出ると、食器を載せた盆を持った介護士とすれ違った。煮物の甘い匂いが鼻先を漂う。腕時計を見ると、十二時十分だった。
「で、久賀さんはどう思いました?」
「正直、わかりません。犯人の目的と、柴山老人の接点が。とにかく、不明な点は徹底的に調査するしかありませんね。きっと何かがあるということですから。とにかく、彼の過去を洗うことから始めないと」
 受付に向かう雅季に、久賀は「そうですね」と言い、「それで、四番目の犠牲者は……」
 雅季はすかさずあとを継いだ。
「私たちのどちらかですかね。こんな状態を『憂鬱』って言うんじゃありませんでしたっけ」

 雅季は、画面をスクロールしながら、刑事物のサスペンスドラマやミステリー小説と現実とのあまりにも大きな相違に、改めて苛立ちを覚えた。
 ドラマや小説の中では捜査が完全に行き詰まれば、必ず何か事件解決の鍵となる偶然の出来事や重要人物が都合良く現れるのに。それでも柴山の出現は大きな前進だ。
 だが、昨日、署に戻って早速インターネットで柴山勝茂の名をサーチするも、同姓同名はあれど本人にはヒットせず。二十年前に既に廃業した診察所もインターネットの走りの時代では波に乗ることもなかったようだ。
 介護施設の職員の証言、鑑識に回した写真からも、被疑者に繋がりそうな手がかりは回収されなかった。ひとつだけあるとすれば、封筒の封をした犯人の唾液から採取されたDNA。ただ、それも前科者でないかぎりそこから被疑者に辿り着くことは限りなく不可能に近い。
 他の班が担当する三人目の被害者、土屋健の事件当日の地取りも、芳しくない。マル害三人の接点も依然として見つかっていないが、雅季は被害者が無作為に選ばれたとは思えなかった。決して愉快犯などではない。
 今日、久賀は朝から地検に出ている。青鞍も本部の応援と共に朝から晩まで捜査を進めている。雅季は机いっぱいに報告書が並んだ自分の机と、それらが占領しかけている根古里の机を見て盛大な溜め息を吐いた。そして、部屋の一角に積み上げられた、証拠押収品の収納された段ボール箱を見て、もう一度。
 柴山勝茂は、施設に持ち込まなかった荷物をレンタルコンテナに保管していた。箱の中には彼の診療所時代からの持ち物――書籍を始め、医療器具、過去何年にも遡る大量の書類――がぎっしりと詰まっている。ただ、患者のカルテは存在しなかった。個人情報であるため、全て処分したのだろうか。『その点は非常に残念ですね』と鑑識の平井は言った。『もしかしたら、犯人は過去の患者と言う可能性も十分にありますよね』。雅季もそれにはいたって同意だった。
 それどころか、柴山のプライベートを語る物もざっと見た感じでは何も無かった。無い無い尽くしだ。研究職にありがちな、仕事一筋の人生だったのだろうか。そして一線から外れると、その後の人生には何を意味を見出さない……。家族もいない。残されたのは財産だけ。 ――家族。柴山の家族が一人もいないというのはどういうことだろう。
 事件解決の鍵は、柴山勝茂の過去に埋まっている。直感はそう告げていた。とにかく、この押収品に取りかからなくては。結局警察の仕事は地道な捜査――情報処理と検証と観察――の繰り返しなのだ。
 雅季が柴山勝茂の膨大な量の書類を調べ始めて数時間後、一枚の古いアパートの賃貸契約書から「石崎勝茂」という名を発見した。日付は一九九五年三月十二日。契約期間は二年。
 石崎? 雅季はそれが入っていた箱の書類を全て出してみた。だが、それ以外のガスや水道、公的な契約書や郵便物の類いでその時代の「石崎勝茂」と記名されたものは見つからなかった。一体これは何を意味するのだろう。インターネットで検索を掛けてみる。
――石崎勝茂。
 画面のトップにいくつか並んだ彼の名とその後に続く「脳外科医」「神経科」の文字を見て、雅季は身体中にアドレナリンが巡るのを感じた。彼は改氏したのだ。

 なぜ。——その答えの先に、必ず犯人はいる。

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