第九話

「丞くん、いたんだ!」
 朝、寝室から出て来た久賀を見て、オープンキッチンの向こうで晴美が目を丸くする。昨夜、久賀が帰宅した時にはすでにリビングのソファーで晴美が寝息を立てていた。久賀の姿を見て驚いたのも無理はない。
「今日は休み。土曜に呼び出されたから」
 久賀は、部屋に素晴らしく家庭的な匂いが漂っているのに気付くと、急に空腹を覚えた。
「ふうん。あ、今、朝ご飯にしようと思ったんだ。ごはんとお味噌汁食べる? あと卵焼き」
「ああ。顔洗ってくる」
 洗面所から戻ってくると、テーブルの上で朝食が湯気を立てて待っていた。箸の横にロクシタンのハンドクリームが並んでいる。
「はい、ごはんどうぞ。あ、それね。頼まれてたやつ」
「ありがとう。悪かったな」
 晴美は久賀の前にご飯を盛った茶碗を置いて、向かいに座った。二人で「いただきます」と両手を合わせた後、久賀はまず豆腐とわかめのみそ汁を飲んだ。
「ね、ハンドクリームすごくいいね。売り場で試したけど、べたつかないし、いい匂いだし。それ、プレゼント?」
「自分へのご褒美」
 はぁ? と晴美は唇を歪めたが、久賀が漬物に箸を伸ばすと身を乗り出した。
「あっ、この白菜の浅漬けあたしが作ったんだよ」
「へえ、おまえが?」
「うん。白菜ざくざくって切ってね、塩昆布とごま油でぱっと出来ちゃうんだ。あと隠し味にちょっとだけにんにく。炒りごまもぱらぱらっと」
「あ、うまい」
「でしょう」
 へへ、と笑った晴美も、漬物を口に運ぶ。それを見た瞬間、雅季の言葉が蘇った。
『でも、やっぱり帰した方がいいですよ! 何かあったら責任とれるんですか!?』
 彼女の言い分はもっともだ。十八歳で、身の回りの世話をする必要はないとはいえ、晴美はまだ未成年だ。自分は仕事でほとんど留守にしているし、そんなとき、何か起きてもすぐに対応できないだろう。それに、監督義務者は自分じゃなく、母親なのだ。何か問題が起きた時、俺が晴美を助けられることは法的にはほとんど無い。だから、やはり晴美のためには……。
 久賀は箸を動かす手を止めて、晴美を見据えた。
「あのさ……」
「ん? みそ汁辛かった? あのね、実はママお手製の味噌なんだよ」
 晴美は箸を持つ手を、まだほんのり湯気の立つ椀に向けた。
「え? 味噌って家で作れるの?」
「うん。大豆と麹と塩だけで。保存料も使わないし、あんまり塩の量を減らしちゃうとカビが生えやすくなるから……辛かったのかなと思って」
「あ、いや、この塩加減がいい」
 久賀は改めてみそ汁の椀に口を付けた。
「うん。本当に美味しいな。そっか、けっこうちゃんと作ってるんだ。お前のとこ」
「そうそう、ロハス的な。あれ? じゃあ、みそ汁じゃなくてなに? 言いかけたでしょ」
 晴美の顔が曇る。そうだ、昔から晴美こいつは勘がいいんだった。それを久賀は思い出した。
「ああ……。あのな、」
 俺が本気で『帰れ』と言えば、たぶん彼女は素直に帰るだろう。でも本当は母親が迎えに来て欲しいと思っているんじゃないか。迎えにこなくても『帰って来い』というメールなり電話なりを密かに待っている。口では『娘より恋人が大事なんて母親失格』などと言っているが、心底憎んでいたら、家出するのに母親の味噌を持って来るか?
 部屋は空いている。連れ込むような彼女も「まだ」いない。それに、クリーニング屋からシャツを取りに行ってくれる。
「あのさ、朝飯済んだら、買い物付き合ってくれよ。あんまりのんびりもしてられないけど。おまえも何か足りないものとか食べたいものがあったら買っていいし」
 相手の顔がぱっと輝いた。久賀はあまりのわかりやすさに、却って腹のあたりにむず痒いものを感じ、漬物を噛んだ。
「ほんと!? 丞くん、太っ腹! あるある。足りないものね、えっと、『ロウキューッ!!』の新刊と、春物のツインニットと、グロスと日焼け止めと、おかしとipad miniくらいかな」
「くらい、じゃないだろそれ。春物って、まだ寒いだろ。最後のなんだ。俺も持ってないぞ」
「じゃあ、この機会にぜひ、旦那」
「ばか。早く食べろ」
「あ、あのね。最近友達出来た」
 唐突に話題を振った晴美は目を伏せ、卵焼きの最後の一口をつつく。
「男か」
「あ、うん。男、も」
 ちらっと目を上げ、また伏せる。甘い卵焼きを久賀はゆっくり咀嚼した。
「話せないの?」
「ん……、ちょっと複雑、かな。まだ今のとこは話せない、かも」
「いいよ、俺のほうは。でも、いろいろ気をつけて。晴美は大丈夫と思っていても、あっちが大丈夫じゃないこともあるから。まあ、警戒され過ぎてもこっちはつらいけど」
 辛い。確かに今、辛い。
「はい」
 口は達者だが、意外と晴美が素直なのも、知っている。
「あ、おまえ明日の夜予定ある?」
「なんで?」
「早く帰れたら、食事でも行こうかと思って。いつも家で一人で食べるのもつまらないだろ」
「えっと、明日は、用事あるかな……たぶん」
 曖昧な口調が全てを物語っている。食器を下げた晴美は、湯のみを手に戻って来た。
「残念。ま、俺としてはこれ以上財布が軽くならずに助かるけど。じゃ、次回だな」
「ごめんね。でも、早く寝れるじゃん。いくらイケメンでも肌が荒れてたら魅力半減だよ」
「ご親切にどうも。晴美がそう言えるのは、俺のパートナーをちゃんと知らないからだ」
「えっ、でも、わかるよ。丞くんが睡眠時間削ってでも、一緒にいたいって思うんでしょ? あの可愛らしい……」
 久賀が睨むと、晴美は怯んだように一瞬口をつぐみ、声を落として言った。
「まあ、この件に関しましては、お互いまだ様子見と言うことに」
「意義無し。あ、片付けあとにして、出かける用意して。俺も着替えたらすぐ出るから」
 ほーい、と返事をした晴美はバスルームに向かう。 
「へへー。嬉しいな。篠塚さんも一緒なら楽しさ二倍だったのにね」
 久賀はその一言に、飲んでいた茶を吹いた。

 鳴海東署の駐車場に見慣れないバンが停まっているのを見て、久賀は心中で舌打ちした。マスコミの連中だ。足早に建物の中に入る。交通課の女子課員と話している絹田ロナに挨拶をし、その足で自分で給湯室でコーヒーを入れて刑事部屋へ行くと、雅季は書類に目を通しているところだった。おそらく、捜査本部から上がって来た報告書だろう。
「久賀さん……、お休みのはずじゃ……」
 睨まれているのは気のせいか。
「いえ、やはり気になりますから。お疲れさまです。何か進展はありましたか」
 彼女が何か言う前に、自分に向けられた無表情に答えは瞭然だった。
「新しいことは特に何も」
「車も見つかりませんか。あの、少年の目撃証言の……」
 雅季が首を横に振ったのは予想内だ。『紺色のBMW』。新車、中古合わせて日本国内に一体何万台あるだろう。
 久賀は雅季にことわってコートをロッカーに仕舞うと、定位置に着き、さっそく受け取った資料を広げた。参考人への訊き取り、訊き取り、訊き取り。
「今日は日用品を買うだけのつもりが、晴美の買い物に付き合わされました。普段、女性服のフロアに行く機会はないですけど、いろいろ見ていると、つい好きな人のことを考えてしまいますね。『これは似合いそう』と、それを着ている姿を想像してしまいます」
 唐突に切り出すと、雅季は目だけで久賀を見たが、すぐに視線は書類に落ちた。
「よかったですね。気分転換にもなって。土曜日の寒い中、呼び出されたのも無駄になりませんでしたね。で、買ってあげたんですか? その人に」
 雅季はいつになく素っ気ない。やはりマスコミが外をうろついていれば、さすがに神経を尖らせているのか。
「何か買ってあげたんですか?」 
 二度目の語気が強い。普段はあまり感情を見せない雅季が珍しい。相当参っているのではないかと、久賀は懸念しつつ、鞄から出した物を相手に渡した。
「あ、もちろんです。これどうぞ」
 雅季は首を傾げつつ紙袋の口を広げた。
「あ……、『兎や』の塩大福! 嬉しい……これ、午前中で売り切れちゃうんですよ……。ありがとうございます」
 中身を見ると、険しかった雅季の顔がとたんに和らぐ。
「いつも、篠塚さんのお菓子箱からお裾分けしてもらってますからね。私も補充しないと」
 遅くなると、捜査本部用に用意された弁当を食べることが多いが、業務が長引くと雅季は引き出しのドライフルーツやクッキーなどを久賀に分けていた。でも、実は雅季は和菓子が好きだというのを絹田ロナから聞いていた。
「え、あ。すみません。逆に検事さんに気を遣わせてしまって」
 和やかだった雰囲気が『検事』という一言で一変し、殺風景な刑事部屋のそれに戻る。雅季は「いただきます」と、袋を引き出しに仕舞って書類に戻った。また自分との距離が、開いた。もどかしい。
「晴美が篠塚さんによろしくと」
「え? あ、はい。どうも……」
 資料を捲りながら雅季は続ける。
「あの、晴美ちゃん、やっぱり未成年だし、親御さんのところに返したほうがいいんじゃないですか。そうやって甘やかしていてもどうかと。今だって、こうして朝から晩まで捜査に加わって、面倒を見てあげられてないわけですよね。知らない土地で、彼女に何かあったら久賀さんのせいにされてしまうんですよ。いくら親容認だって言っても……」
「ありがとうございます。篠塚さんは私の心配をしてくれてるんですね」
「違います。私が心配しているのは晴美ちゃんの方です」
「それは残念です」
 久賀は雅季を見るが、伏せられた顔からは表情も読めない。
「大体彼女も、問題から逃げていてはいつまでも解決しないじゃないですか」
「そしたら、うちにずっといるかもしれませんねえ」
「それは駄目なんじゃないですか!?」
「まあ、篠塚さんがそこまで私のことを心配してくれるなら、ちゃんと考えておきます」
「え、あ……だから、私が心配しているのは」
 久賀は相手に先を言わせずに、畳み掛けた。
「もっと自分のことを心配したらどうですか。この事件の前からもずっと休みを取ってないって青鞍さんから聞きましたよ」
「署内で地取りなんてしないで下さい。趣味が悪いですよ」
 雅季の声がさらに尖る。
「どうとでも言って下さい。しかし、実際、捜査は全く前進していません。篠塚さんこそ休みを取ったらどうです」
「私は大丈夫です」
「大丈夫という人ほど大丈夫じゃない。今からでもいい。家に帰るべきだ」
 そこでやっと雅季は久賀を見た。いや、また睨まれた。
「検事さんから捜査の指示は受けても、その指示に従う義務はないと思います」
 久賀は素直に頷いた。
「おっしゃる通りかもしれません。でも、始関さんなら一言でそれが可能だ」
 雅季の目に力がこもった。
「久賀さんには私が必要です」
 久賀は息をのんだ。なんていい響きだろう。思わず「そうです」と大きく頷きそうになった。
 だが、『焦るな』と自分に言い聞かせ、背もたれに身体を預ける。
「でも、それは今日じゃありません。動きがあったときに、あなたが使い物にならなければ悔しい思いをするのは篠塚さん自身じゃありませんか」
 二人はしばし睨み合っていたが、先に相手が小さく息を吐いた。
「一日だけですからね」
「十分です。私はこれから始関さんにマスコミへの注意喚起を徹底して、細かい捜査方針の打ち合わせしてきます。篠塚さんが早退することも伝えておきますから」
「休みは明日取ります」
「いいえ、今、帰るんです」
 雅季は胸の前で腕を組み、反駁の言葉を探しているようだった。そのとき、青鞍が新しい資料を手に入って来た。険悪な空気を肌で感じ取ったのか、彼はその場で足を止めた。
「えっと、お取り込み中でしたら、また後で来ます」
 青鞍はドアを閉めかけたが、立ち上がった久賀は手でそれを制した。
「いえ、もう話は終わりましたから」
 背中に突き刺さる視線を感じながら、久賀は青鞍から書類を受け取り、部屋を出た。

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