第七話

 規制線の手前に来た雅季は、窓を開け、近くにいた制服警官に身分証を見せた。相手はそれを一瞥し、目礼しただけで規制線内の持ち場に戻ってしまった。 仕方が無いので、パトカーが並ぶ近くの路上に車を停めると、広範囲を封鎖している黄色いテープをくぐった。
 三階建ての廃屋の裏手にはガラス張りの温室が二棟並んでいる。ガラスは所々破損し、そこが長い間使われていないのは瞭然だった。雅季は人の動きがある方を目指す。現場は隣の鹿内(かうち)署の管轄である。
 土曜の午前六時。日の出前の身を切るような寒さにコートの前を掻き寄せ、雅季はツイードではなくダウンジャケットにすればよかったと後悔した。建物の裏口の方で人の出入りが激しい。中に入ると、湿っぽく、なんとも形容出来ない臭いが鼻をついた。見張りに立っている警官に名を告げると、彼は奥の方へ首だけ振り向き、「二階堂警部! 篠塚巡査部長が来ました!」と声を張った。「案内して!」と太い声が返ってくる。警官のあとを、病院のようにドアが並んでいる暗い廊下を進み、白い光が洩れる一室に入った。部屋は完全な空き部屋だった。光の中で埃が舞い、床にはペットボトルや潰れたビール缶、スナック菓子の開き袋、吸い殻などが散乱していた。
 投光器が白く照らし出した現場に、時折ストロボが焚かれていて、検分をしている捜査員たちの中で責任者らしき私服警官が、雅季に会釈した。
「ご苦労様です。鹿内署刑事課の二階堂(にかいどう)です」
 鳴海東署に連絡した本人だ。
 五十代前半。黒いウールのコートに『捜査』の腕章を着けている。グレーのスーツ、白いシャツ。肩幅が広く、厚い。ノーネクタイ。
「鳴海東の篠塚です。二階堂警部は、どうしてうちに連絡を?」
 雅季は早朝、始関に電話で起こされてから持ち続けていた疑問をぶつけた。
「まあ、現場を見て下さい」
 彼は投光器のある後方へ親指を指した。
「ここは、薬品会社の研究所だったんですけどね、地元の税金が高いから一昨年立ち退いたんですよ。それきり手つかずで」
 正面玄関は鎖で厳重に封鎖されていたらしいが、裏口のドアは壊され、若者やら浮浪者が出入りをしていたという。通報者は匿名。きっとそれら侵入者の一人だろうと、二階堂は言った。
 短い説明が終わると、二人はシートの掛かった死体の前に立っていた。
「それ、開けて」二階堂は近くの捜査員に命じた。目を見開き、歪んだ顔が出てくる。男、上半身裸。雅季の目は真っ先にその胸部に引きつけられた。安田里穂と同じ開胸の痕だ。
「鋭利な刃物による刺傷が八箇所、胸に三箇所、肩に二箇所、腹部に三箇所。だが、致命傷となったのは腹部の傷で、肝臓まで達している。心臓は持ち去られている。……とくれば、お分かりでしょう」
 雅季の疑問には死体が答えたというわけだ。
 仰向けの遺体に浮かぶ多数の赤黒い創傷痕。あまりにも無惨だ。ずっと見ているのに耐えられず、雅季は遺体の周りの床を見回し、すぐにその不自然さに気がついた。血痕が少なすぎる。ここでこれだけ何度も刺されたならば、もっと周りに血が飛び散っているはず。つまり遺体はどこかから運び込まれたのだ。
 雅季は二階堂に向いた。
「しかし、なぜ、鳴海東署(うち)が抱えている事件をご存知なんですか? マスコミにもこのことは一切洩れていないはずです」
「蛇の道は蛇、ですよ」
 二階堂は四角い顎を撫でた。雅季にも経験として覚えがあったので、追求するのは諦めた。
「身元は?」
「ホトケさん、自分で教えてくれました」
 二階堂はコートのポケットから出した証拠袋を雅季に渡した。新書サイズの本の表紙は冬の湖畔の風景写真だ。だが、雅季はタイトルを見て愕然とした。『憎しみの構造』。――憎しみ。すぐに安田里穂のウェディングドレス姿が瞼に蘇った。愛と憎しみ。
「遺体の横に落ちていました。裏表紙を見て下さい」
 本を裏返すと、著者近影とプロフィールが載っていた。遺体と同じ顔で、名前は小島彰三(こじま しょうぞう)H大教授、心理学者。その下に書籍の内容が記されている。
「鳴海東さんが担当している事件と関連が強いと思うのですが」
 思わせぶりなその言葉の意味を考えあぐね、雅季は二階堂を見たが、その表情からはなにも読めない。嫌な予感がした。
「ちょっと、電話をかけさせて下さい」
 適当な理由をつけて雅季は外に出た。昇りつつある朝陽が、周りの畑を、民家をオレンジ色に染めている。冷たい新鮮な空気を深々と吸った。そのとき、自分の方に向かってくる人物を遠目に見て、雅季の呼吸が一瞬止まった。相手が広い歩幅で近付いてくる。黒のダウンジャケットに包まれた長身の男。
「篠塚さん、よかった。まだいたんですね」
「久賀さん……」
 視覚に認めるだけでなく、名前を口にするとその存在がぐっと近くなり、雅季はほっとした。身内が来ただけでこんなに心強いと思うのは、やはり、縄張り外で無意識に緊張していたのだ。
「始関さんが、篠塚さんがこちらだと連絡して来たので」
「始関さんが?」
「はい。大丈夫ですか? 顔色よくないですけど」
 指摘され、自分が追いつめられていることを思い出した。
「男性の遺体です。安田里穂と同じく、心臓を除去されていました。マル害の唯一の所持品は彼の著作で『憎しみの構造』……」
「ファック」
 雅季は思わず耳を疑った。「と、始関さんなら言いそうですね」そう言いつつ、久賀の顔に険しいものが浮かんだ。
「連続殺人の可能性」
「そうです。それで鹿内署はどうやら、うちに丸投げしてきそうな感じで……」
「合同調査?」
「いえ、おそらく一本化で本部は鳴海東(うち)になるのでは……」
「でも、なんで駄目なんですか?」
「え?」
「向こうがこっちに渡してくれるなら、いいじゃないですか。もらっておけば。鹿内署は二日前の強盗殺人追っていますからね。大変なんでしょう」
「そんな……、現場はむこうの管轄ですよ。どう考えてもおかしいでしょう」
「それが? あ、もしかして篠塚さんは私とする仕事が増えるのが嫌ということですか?」
 眼鏡の奥の目が細められると、雅季は思わず激しく首を振っていた。
「そ、そんなことないです。いえ、そういう問題ではなくて……!」
「それなら、いいです。じゃあ、現場を検分しがてら、話してみますね。篠塚さんは車に戻っていてください。ここだと寒いでしょう」   
 久賀は首から掛けていたライトブルーのマフラーを雅季の襟元に巻くと、捜査員に挨拶をしながら建物の中に消えて行った。
 
『鳴海連続殺人事件捜査本部』
 雅季は煮え切らない気持ちで、第二会議室の入り口に張られた看板を見上げた。これから一課、機捜、猪山署と鹿内署から応援が入る。県警の本部長が捜査本部長に就任するだろうが、実際には始関が管理官となり指揮をとるはずだ。最初の捜査会議で事件の概要が説明され、捜査方針の検討、班割りが行われ、訊き込みを中心に捜査は進む。
 小島彰三の死体発見現場から署に戻り、始関に報告をしに行った雅季は始関直々に再度「相談と報告さえしてくれれば自由に動いていいから」と言われたのだが、それでもやはり気は重かった。雅季は、連続殺人事件を扱うのは今回が初めてだ。県警にいた根古里ならそれだけ場数は踏んでいるのだが、自分よりも若い久賀は……。
 刑事部屋に向かって廊下を歩いていた雅季は、ふと視線を感じて顔を向けると、その久賀がスラックスのポケットに両手を突っ込んで壁に寄りかかっているのを見つけた。彼も一緒に刑事部屋に戻って来たのだが、雅季が課長室に入っている間はそこで待機しているとばかり思っていた。彼のまっすぐな眼差しに、まだ慣れない。雅季はグッと顎を引いて彼の前に立った。
「久賀さん、こんなところで何してるんですか?」
「何って、捜査本部設置のお手伝いですけど。机運んだり、コピー機設置したり」
「えっ、検事さんがそんなことする必要ないですから」
「それは、まだ私をパートナーと認めてないってことですよね」
 改めて問われると、考えざるを得なくなる。彼を必要以上に意識することはない。だが、久賀といると、今まで自分が必死に守って来たものが、壊れそうで怖かった。
 返事に窮した雅季が久賀の探るような視線に耐えきれず、彼の革靴に視線を落としたとき、「あっ、よかった。篠塚さん!」制服姿の絹田ロナが廊下を走ってきた。ロナは久賀に会釈すると、マッシュルームカットの前髪をささっと直して言った。
「あの、夜のお弁当はいくつくらい用意しましょう。偉い方もたくさん来るんですよね。やっぱり幕の内がいいですか。ここら辺遅いとお店閉まっちゃうからあとで出前も頼めないし、コンビニまで車出さないといけないですし。あと、玉露切らしてるんですけど、玄米茶でも大丈夫でしょうか。ああ、コーヒーメーカーって一台じゃ足りないかも……」
「じゃあ、自分、寮から持ってきますよ! あ、久賀検事、お疲れさまです!」
 コピー用紙の束を抱えた青鞍が、ちょうど通りすがりにロナと久賀に声をかけた。久賀は微笑で応えた。
「青鞍さん、助かりますぅ。カップもあったらお願いします。あ、そうだ、青鞍さん、お弁当何がいいですか?」
 ――え、オレだけ特別扱い? 
 ――違いますよ、うちの署員ならのり弁とか安いやつでいいかなって……。
 ――うわ、ひでー。そういう差別ってどうなの。
 ――だって、鳴海東署(うち)、カツカツですから。 
「……なんか、活気が出ていいですよね」
 会議室に入って行く二人の背中を、久賀は目を細めて見送った。
「よくありません。連続殺人事件なのにあんなに楽しそうにして。あとで厳重に注意しないと」
 雅季は憮然として踵を返すと、刑事部屋に戻った。久賀は入り口に立ったまま、まだ何か言いたそうに雅季を目で追っている。雅季はそれを無視してパソコンを立ち上げた。
「始関さんが前衛で立ち回ってくれると思います。しばらく私たちは従来通り、ここで捜査を進めていいとお許しが」
「それは助かりますね。次の犠牲者がでないうちに……」
 久賀が根古里の椅子に座るのを上目で見る。
「そう思いますか」
「最初の事件から五日目です」
 雅季はそれには答えなかった。
 久賀が正面に座ることに違和感を感じなくなっている自分に苛立つ。彼が視界にすっかり馴染んでいる。署員も久賀に馴染み始めている。彼を受け入れられないのは、自分だけ。
 解決は早ければ早い方がいい。久賀と組む時間が長引くことはあってはならない。被害者に対しても、自分にとっても決していいことではない。雅季は姿勢を正した。
「あ、メールが鹿内署から現場写真と、報告書が来てます。感心ですね。ただ丸投げしたわけじゃなかったんですね」
「放り投げておいて、証拠品も遺留品も出さないのはいくらなんでも傲慢でしょう」
 背後から、久賀がディスプレイを覗き込む。右肩が強張り、マウスが動かしづらい。
「メッタ刺しですね……。やっぱり怨念というか、憎しみが滲み出てくるようですね。写真だと余計に」
「そうです! 憎しみ……」
 肩越しに振り返った雅季は、久賀の顔があまりにも近くて驚き、慌てて前を向いた。指が震えて、マウスを「カチカチカチッ」と連打してしまう。
「そんなに何枚も開いたら、ちゃんと確認できないじゃないですか。さっきの写真……」
「だ、だってマウスが……どれですか」
「それじゃないです」
 久賀が雅季の手の上に自分の手を重ねた瞬間、心臓が跳ねた。久賀は「どれでしたっけ」と言いながらそのままマウスを動かしている。重ねられた手は大きく、彼の容姿を裏切って温かかった。自分の手の冷たさを妙に意識してしまう。呼吸が浅くなり、苦しい。
「犯人と、この教授は知り合いだったんでしょうか。身ぐるみ剥がしたのに、彼の身元がわかるものを現場に残すという行為は矛盾していますよね」
 久賀の声が背中から伝わってくるような気がする。
「そうですね……」
 呼気にやっと声が混じる。せめて、手を離してくれれば……。
 そう思った時、青鞍が顔をのぞかせた。
「捜査会議、始まります」
 雅季と青鞍、久賀が会議室に入ると、様々な年齢の刑事たちで席はほぼ埋まっていた。そのほとんどが男性で、ざっと四十人はいるだろう。部屋に入った雅季に彼等の視線が刺さる。足がすくみそうになるが、彼等は自分の味方だ、と胸内で何度も唱えながら、一番後ろの席に着く。
 指揮デスクで、本部長らの挨拶の後、事件の概要を説明したのは始関だった。よく通る声で手元の書類を読み上げる、ダブルスーツを着た一課長は管理官として十二分に頼もしい。
 配布された資料は雅季がすでに目を通した物だ。新しい事実は特にない。久賀は雅季の隣で始関の話に集中している。
 指揮デスク脇のホワイトボードには、雅季をはじめ捜査員が家宅捜索をして手に入れて来た被害者や参考人の写真がマグネットで留められていた。速やかに始関が班割りをしていく。
 ――……B班は小島彰三の家宅捜索、および安田里穂との接点を。C班は……。
「小島の本を読んでおいた方がいいかもしれません。犯人の意図がわかるかも」
 久賀の囁きに、雅季は頷く。そうだ。これは犯人からのメッセージだ。『愛』と『憎しみ』の線は間違っていない。でも、誰に向けたメッセージなのか。
「……以上です。なにかご質問は。なければお願いします」
 指示を受けた刑事たちが次々と動き出す。その中から始関がこっちにやってくる。何か特別の指令だろうか。雅季が自分の前に立った上司に神経を尖らせると、「鹿内署の皆さんは、カウチに座る暇もなくなるから、大変だよね」
 始関は真顔で言った。雅季は思わず苦笑する。
 でた。始関さんのオヤジギャグ……。
「そうですね。では、私たちも行ってきます。久賀さん……」
 雅季が隣を見上げると、久賀は形のよい唇を薄く開けたまま、茫然と固まっていた。

 *
 
 晴美はスマホが点滅しているのを見て、ラインを開いた。短いメッセージを読み、ベッドの上にそれを置き、まんがを手に取った。『ロウキューッ!!』は何度読んでも面白い。
「誰から?」
 溝端恵里佳がラップトップから目だけ上げた。晴美は土曜日の今日、恵里佳の家に遊びに来ていた。普通の、3LDKマンション。
「いとこ。今一緒に住んでるんだ。仕事で帰り遅いって」
「何やってる人?」
「検事」
 恵里佳はさっきから隣でゴスロリ系ファッションの通販サイトを見ている。彼女の両親は今日、買い物をして映画を見に行くそうだ。母親の誕生日らしい。
「へえ。イケメン?」
「かなりの」
「彼女いるの?」
「いないんだな、それが」
 これ、よくない? と恵里佳は黒い膝丈のひらひらワンピースを指した。晴美はベッドから下り、彼女の隣に座るとディスプレイを覗いた。メイド服みたいなやつだ。
「うーん、ちょっと子供っぽくない?」
「それがいいんだよ」
 恵里佳は唇を尖らせ、次のページへ飛ぶ。晴美はポテトチップスを齧った。
「じゃあ、男が好きとか、そのいとこ」
「それはない」
 ふうん、と恵里佳は鼻を鳴らしたあと、不意にラップトップを閉じて晴美に向いた。
「なんか訊きたいことあるんじゃないの。黙ってるのは、あいつらと同じってことじゃない」
 晴美は目をポテトチップスに伸ばした手を止めた。あれからハンバーガーショップで会った二人組は翌日、予備校で晴美を見つけると話しかけて来た。なぜか気に入られているらしい。彼女たちは、もう恵里佳の話はしなかった。それを除けば彼女たちは普通の女子高生だったし、慣れない土地で知り合いがいない晴美は、二人を邪険にする理由がなかった。それを彼女は見ていたのだろう。でも、正直、今訊かれるまで恵里佳の噂のことは忘れていた。
「あの子たち、なんて言ってた?」
「天使とか悪魔とか信じてるって。呪われるとか」
「ばかみたい。なにも知らないくせに」
「本当に、怪しい集団に入ってるの?」
 晴美はその素振りは見せないようにしているが、もともと好奇心旺盛だった。 
「今日、会合あるんだけど、来る?」
「暴走族?」
 こんな山間の田舎なら、あり得そうだ。それを聞いた恵里佳はふっと鼻で笑った。
「そんなんじゃない。話してもわからないと思う。どうする?」
 余裕たっぷりな顔で見つめ返してくる。
〈篠塚さん、テンパってるから、かなり遅くなる。戸締まりちゃんとして〉
 さっき受信した久賀のメッセージが脳裏に浮かんだ。
 二人はパスタを茹でて恵里佳母の用意したミートソースで夕食を済ませ、九時に家を出た。
 服はもともと黒のスリムジーンズを履いていたから、それに恵里佳のひらひらブラウスと、ざっくりニットを借りた。どちらも黒。メイクも黒のアイメイク、唇も赤紫のリップクリームをべったり塗った。上着は自分のブルゾンを着て出かける。恵里佳はフリルのたくさんついたブラックワンピースの上に、顎の下でリボンを結ぶ黒いケープを羽織っていた。頭には黒のレースを重ね、右にバラの造花を留めたヘッドドレスが載っている。晴美は、こんな恰好で人に注目されるかと思ったが、ホームで電車を待つ間もそんなことはなく、逆に拍子抜けした。チラ見され、終わり。みんなそれぞれスマホの相手に忙しい。
「月に何回か集まるの。メールが来て」
 恵里佳は繁華街を奥に進みながら説明した。晴美が人の波に逆らって歩くのは久々だった。まだ一週間も経っていないのに、その感覚がすでに懐かしい。
「意識高い人ばっかり来てる。自分がわかってるっていうか。話してると刺激になるんだよね」
 恵里佳が雑居ビルの地下に続く階段を下り、黒い鉄製のドアを開けると、やはり黒尽くめの男性が立っていた。顔半分が、鋲のついたマスクで覆われている。大学生くらいだろうか。恵里佳が首から下げたロザリオを見ると、彼は頷いて、部屋に続くもうひとつのドアを開けた。
 中は至って普通のライブハウスだった。流れている音楽がアシッドテクノだとわかったのは、別れた彼氏が好きだったからだ。
 左手にカウンターがあり、フロアの中心は広く場所があいていて、壁際に置かれたテーブルに蝋燭が灯されている。正面のステージを間接照明がぼうっと浮かび上がらせていた。その中央に、黒い布を覆われたイーゼルがあった。見慣れた木製の三本脚でわかった。絵があるのか。途端に強く興味を惹かれた。
 晴美が壁ぎわに立って観察している間に、どんどん人が入って来る。皆、一様に黒装束だ。自分たちのような学生だけではなく社会人のような人もいた。知り合いと喋っていた恵里佳が来て、晴美にコーラのグラスを渡す。その後ろに、背の高い男が立っていた。目が隠れるほど長い前髪だが、耳をすっきりと出したヘアスタイルで、細面の顔は笑うと人懐い。
「恵里佳の、友達?」
 一瞬見とれていた晴美は、彼に訊かれると慌てて、頷いた。
「僕はラミル。僕たちの集いへようこそ」
「ラミル?」
「うん。ラミアが妹でね」
「ラミアって、神話で吸血鬼としても知られているのよ」
 恵里佳が補った。ラミルが晴美にさらに近付いた。
「『憂鬱の解剖』、ロバート・バートンの本、知ってる?」
 晴美は首を振った。
「知らない。でも憂鬱で思い出すのは、アルブレヒト・デューラー」
「ああ、『メランコリア』。君、絵、好きなの? 名前は?」
「川崎晴美」
「晴美ちゃんも、こういう世界に興味があるの?」
 晴美は横目で恵里佳を見た。恵里佳は薄く笑いながら助け舟を出した。
「噂を確かめたかったんでしょ」
「噂?」
「あの……、恵里佳が悪魔とか信じてるって、言う子がいて。友達になると、呪われるとか……でも、あたし、自分の目で本当か確かめたいと思って」
「勇気あるね。行動力がある。そういうの、好きだな」
 真っすぐに見つめられ、晴美の口の中が渇く。ラミルがふと腕時計に目を落とした。カウンターの灯りでそれを見ると「じゃあ、また」とステージに向かって人混みに入って行った。
 ステージの上には黒のシンプルなワンピース姿の細身の女の子がイーゼルの隣に佇んでいる。肌は青白く、小作りな顔立ちに表情はない。
「ラミアよ。ラミアは芸術家なの。みんな、彼女を崇拝しているわ。彼女はね、魂と会話が出来るの。天使とか悪魔とか、そういうあやふやなものじゃない」
 魂は、一人一人に必ず宿っているものだから、と恵里佳は付け加えた。ステージの前にはすでに人だかりが出来ている。
「お集りのみなさま。長らくお待たせいたしました」
 ラミルがラミアの隣で口上を始めた。
「今夜やっとメンバーの皆様にラミアの新作をお見せすることが出来、僕もとても光栄です」
 ラミアはまるで人形のようにぴくりともせず、前を見据えている。
「いよいよ、よ」
 恵里佳が胸の前で手を握った。
「それではご覧ください。憂鬱の女王、ラミアの最新作『生命』です!」
 布が取り払われ、油絵が現れた。大きさは15号くらい。晴美は絵に釘付けになった。
 雪景色。ヨーロッパの墓地みたいな場所。

 手前に少女が仰向けになっている。目を見開き、宙の一点を見つめている。その先には覆いかぶさるように、美しい悪魔の横顔。黒いワンピースを着た、彼女の胸に赤い絵の具が塗り広げられているのが照明の反射でわかる。

そして、悪魔の方へ、天に向かって差し出されて右手の上には、心臓が載っていた。
 

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