第一話

 篠塚雅季 (  しのづか まさき)鳴海東 (なるみひがし)署に着任して四年。その間何度も――本庁に比べればその数は較べようもないが――殺人事件を担当して来た。だが、こんな死体に出会ったのは警察官として就任以来初めてだった。
 死体は商店街にあるエルフ結婚相談所のショウウィンドウに「飾られて」いた。それが着ているクリーム色のウェディングドレスは、金糸で緻密な刺繍に、レースのフリルが贅沢に施された豪華なもので、髪はアップにされ、顔も完璧にメイクされていた。
 死の花嫁は美しかった。だが、手元のブーケを見ている濁った目を見ると、やはりすでに生きていないのだと痛感する。悪寒すら走るのは、道路の水たまりが凍るほど寒い早朝だから、というだけではない。ガラスが隔てていても、死体と自分との温度差を身にしみて感じるからだった。また自分が同じ女であるから、その「幸せ一杯の死体」に同情してしまうのだろう。
 ウィンドウ内は壁や床一面青いサテンで覆われていて、赤いバラの花弁が散らばっていた。彼女はその上に置かれた白い椅子に座っている。ブルーシートで覆われた現場は海中のようで、死体の顔色はさらに青白く見えた。
 発見者はジョギング中の専門学生だった。彼は今パトカーの中で機動捜査隊員に発見当初の様子を話している。ツイードコートのポケットに手を入れたままウィンドウを覗き込んでいた雅季は、ガサガサと音がし、近づく人の気配に上体を起こした。
 鑑識の平井安里 (ひらいあんり)が「おはようございます」と雅季の隣で、ラテックスの手袋をした手を擦り合わせた。白い息が青い空気に滲む。
「どうでしょう。中に入らないことにはなんとも。何かわかりましたか」
「機捜もきたばかりですし、初動も初動ですから。いや、でも必ず手がかりは見つけますよ」
 雅季は頷いた。つい先ほど、このテナントの所有者に連絡がつき、鍵を開けてもらったばかりである。正面入り口のガラス戸や錠には特に目立って不審なところはなかった。雅季は平井について裏口から入ることにした。
 まだ薄く雪が残る建物と建物の間のアスファルトの道は、やっと人ひとり通れるくらいだ。
「ああ、裏口のドアの錠周りに傷がありました。レンチのような物でこじ開けたのでしょう」
 事務所内に入る前に、平井から靴カバーを渡され、ブーツに被せた。ポケットから白手袋を出して装着する。中は薄暗い。平井が灯りをつけないので、雅季もペンライトを使った。
 雅季たちが入って来た側には簡易キッチンのある小部屋と、廊下を挟んで物置らしき部屋があった。
 通りに面した事務所内――死体のある部屋――は白とピンクを基調とした華やかな空間だった。デスクが二つ、右手にはファイルの詰まったオフィスキャビネット、左手の壁には額に収まった成婚カップルの写真がいくつも飾られてある。正面が店舗の出入り口である。
 机には花の活けた花瓶も載っていて、争った痕跡も、血痕もない。物取りの犯行でもない。
 遺体が飾られたウィンドウと事務所とは白いシフォン生地で仕切られていたのだが、それは鑑識官によって脇に寄せられていた。数人の捜査員たちがすでに調べを始めている。一人が仕切りとカメラのフラッシュを焚き、他の鑑識官たちが死体の周りで忙しなく動いている光景は、アルバム用の写真撮影に見えなくもない。
 間近で見ると、花嫁はそれほど美しくはなかった。ファンデーションは乾いた肌に浮き、髪も後れ毛が目立つ。死後硬直は始まっていたが、殺害後、そう時間は経っていないだろう。
 ドレスの背中部分には所々安全ピンが停めてあり、そこに細い針金が巻き付き、死体は椅子に固定されていた。外傷はない。瞳にペンライトを当てると、何本か血管が切れていた。絞殺の可能性が高い。死体特有の臭いに混じって、化粧の甘い匂いが鼻についた。首の索条痕はきっとこの厚塗りのファンデーションの下にある。
 雅季は死体から離れると、引き上げる前にもう一度部屋全体を見回した。手袋の手をコートのポケットに突っ込んで事務所の前に戻り、シートの外に出ると、すれ違いに現場に戻りかけていた平井を呼び止めた。
「何かわかりましたか」
「被害者は女性、推定年齢二十代半ば。身元が確認出来るものは見つかりませんでした。これといった遺留品も。死因は絞殺による窒息死」
 雅季の推測を裏付ける端的な言葉に、ひとつひとつ頷いた。
「殺されたのはここではなく別の場所ですね」
 雅季が断定すると、鑑識所長は頷いた。
 そのとき、向かいの、シャッターが下りた八百屋の前に覆面パトカーが止まった。後部席から係長、始関晃穂 (しせき あきほ)が出てくるのを見て、雅季は背筋を伸ばした。
 長身の彼は身体にぴったり合った濃紺のコートの裾をひらめかせて大股で近付いて来た。雅季を認めると黒革の手袋を嵌めた片手を上げる。
「おはよう」
 そして、隣の平井にも「ごくろうさまです」と律儀に頭を下げた。
 警視で、鳴海東署の一係長として考えられない行動でも始関は平気でしてしまう。そもそも、彼は署で報告を待ち、指示を出すポジションであるはずなのに、興味のある事件には必ず現場に顔を出すのである。
 平井も、明らかに困惑顔で目礼をしたあと、すぐにブルーシートの後ろに消えた。
「あ、篠塚くん、これ」
 始関がカシミヤのコートから缶コーヒーを出して雅季に渡した。両手で受け取ると、かじかんだ手のひらからじわりと温もりが伝わる。こんな心遣いも、始関ならではだった。
「ありがとうございます」
「で、何が見つかったの」
 雅季は缶コーヒーをポケットに入れ、始関を仰ぎ見た。
「女性の絞殺死体、歳は二十代半ば。現時点で身元は判明していません。遺留品も無し。検視結果はまだですが、まず殺人と見て間違いないかと」
「ファック」
 始関が小さく吐き捨てる。こんな乱暴な言葉もアメリカ育ちの始関が使うと、まさにこの場にふさわしい一言に聞こえる。だが、同時に彼の緊張も伝わって来た。
「ここ、あとどれくらいかかる?」
「わかりません。通報は二時間前です。まだ少しかかると思います」
「待てないな」
 雅季はその意味が分からず首をかしげた。
「市長がさ、この一体の封鎖を早く解除しろってね。商店街でしょ、ここ。通勤通学の市民が駅に行くのに迂回しなきゃ行けないって文句来てるって。店も事務所も開かないでしょ」
 雅季は愛用しているウェンガー社の腕時計を見た。八時半。
「あり得ません。殺人事件なんですよ。解除したら捜査出来ません」
「だよね」
 始関の立場もわからなくもない。上からプレッシャーをかけられているのだ。だが、それとこれとは別である。
「ただ、僕は君たちを急かすわけじゃなくて、こっちサイドはそういう状況だって伝えに来たっていうのだけ理解しておいて」
 雅季は息を吸った。冷たい空気が肺を満たし、行政側のあり得ない要求に一瞬逆上した頭が冴えていく。
「まあ、どこでもお役所なんてそんなもんだから」
 口調は砕けていても、声のトーンから始関がかなり苛ついているのを察した。始関は陳腐な横やりを入れて捜査を邪魔する役人を嫌っている。たとえ彼の父が官房長といえど。いや、だから余計にそうなのかもしれない。噂によると、始関のようなキャリアがこんな田舎の所轄でくすぶっているのはその親子間の軋轢が原因であるらしいのだが。
 そんな彼は部長を始め課員も扱いに困り、署内でも浮いた存在だが、雅季は始関は始関なりに彼の義務と、課員の間でなんとか折り合いをつけようとしている姿勢に好感を持っていた。
「二十代半ばなんて、僕とだいたい一回りくらいちがうのか」
 始関が感慨ぶかげに呟いた。
「検死はH大学病院だよね? 検事さんが臨場して現場を確認した後、搬送だな」
「……ってことは、久賀検事が担当ですか」
 雅季はその名を言いながら、不穏な胸騒ぎを覚えた。
 去年、久賀丞已 (くが じょうい)検事が横浜から就任したときに、わざわざ鳴海東署まで挨拶に来た。ワンレングスの髪をひとつに束ねているのも珍しかったが、その若い外見から研修生かと思って年齢を聞けば二十九歳だった。自分より学年で言えば二つ下。芸能人ばりにビジュアルがよく、背が高い。そして人を見据えるのが癖なのか、一度事件の担当検事になった時、彼は雅季が事件経過を報告している間中、一時も自分から視線を外すことなく、ずいぶん熱心に耳を傾けていた。それになぜか雅季は、居心地の悪さを感じていた。
「らしいね。それに久賀検事くらいでしょ、絶対に現場見ないと気が済まないのは。もう着く頃だと思うけど」
 シートの中に入って行った始関を追い、雅季は上司の隣に立つ。彼はショーウィンドウの死体を見て舌打ちをした。
「発見者は?」
「ジョギング途中の学生です。服飾の専門学生で、ウェディングドレスのレースが気になって覗いてみたそうです。それでなんだかマネキンの様子が変だと思って、通報したと」
「だって、このマネキン笑ってないもんね。死体だってわからなくても、やっぱり怖いよ。へえ、若いヤツもこの天気でジョギングするんだ」
 雅季はウィンドウを覗いている、始関の青白い端麗な横顔のほうがずっとマネキンらしいと思った。耳をすっきり出し、前髪を眉毛の隠れる位置で一直線に切り揃えた、いわゆる坊ちゃんカットがこれほど似合う成人男性は、雅季は始関の他にまだ知らない。
「被害者の身元確認って」
「さっきも言いましたが、まだです。免許証や保険証、社員証の類いは見つかっていません」
「そうじゃなくて」
 始関は手袋をした人差し指を立て、優雅に上体を折るとガラス越しにさらに顔を近づけた。
「僕、彼女知ってる」
 雅季は驚いて始関を横から覗き込んだ。
「うん。彼女だ」
「誰です?」
「いや、名前は知らない」
 身体を起こした始関は胸の前で腕を組んだ。
「知らないって……じゃあ、どこで見たんですか?」
「あれだ。タウン誌の『ウェディングなう』って記事に載ってたよ、彼女。写真入りで。篠塚くん読んでないの? 地元の新婚カップルを紹介しているんだけど」
 横目を流され、雅季は「い、忙しいので」と言い訳した。
「あのね、忙しいのはみんな同じなの。一日にみんな二十四時間与えられているのも同じなの。『時が経つのが早い』っていうけど、そうじゃなくて自分の処理能力が遅いってことに気がつかなきゃいけない」
 ――まあ、でもうちは人少ないし、やっぱり忙しいよね。と始関はすかさずフォローした。雅季は「すみません」と軽く顎を引き、質問を続ける。
「それで、彼女は有名人だから取り上げられたんですか?」
「いや、一般市民だ。よくもまあ、こんなにしてまで公に幸せを見せびらかしたいのかな、って感心していつも読んでるけど」
「読んでいるんですか」
「うん。なれそめとかね。デキ婚も歳の差婚も今じゃ珍しくないしね。さすがにまだ日本じゃ同性婚はないけど。まあ、なかなか面白い」
「はあ」
 自分が報告書を必死で作成しているときに、上司は隣の部屋でそんなものを読んでいたのか。一瞬眉を寄せた雅季に、始関はそのタウン誌の編集部に連絡してみろと指示をした。
「もしかしたら、彼女はこの相談所に相談しに来ていたかもしれませんね」
「ここの責任者にはもう連絡した?」
「はい。もう一人の社員にも連絡しました。後で署の方に来てもらうように青鞍さんに言っておきます」
「うん。でもその二人には現場を見てもらう必要もあるな」
 雅季は再び花嫁に向いた。そして時間は止まっても、美しさは保たれないのだと実感する。
「彼女が結婚していたなら、旦那さんが心配して……。もしかしたらすでに捜索願が出ているかもしれません」
「夫婦間のもつれかな?」
「さあ……」 
 三十年間男性と付き合った経験のない雅季には、その話題は全くのフィールド外だった。上司は探るように目を細めた。同情されたのかと一瞬思ったが、始関が雅季の過去を知っているとしても、そんな感情を見せる不粋な男ではない。
「でもさ、今日バレンタインデーでしょ。そんな日に、死の花嫁が結婚相談所に飾られているって、そんなふうに考えられないか? わざわざ死体にこんな手間掛けてさ。運ぶのも目立つし、セッティングしている間に、誰かに見られる可能性も高くなる。あ、なんかアメリカの刑事ドラマみたいだな、こういう演出」
「結婚に反対していた元彼とかでしょうか」
 始関は肩をすくめた。こんな仕草がいちいち様になる。
「厄介な事件ってことは確かだ。殺すだけならともかく、こんなことをする犯人 (やつ)はまともじゃない」
 ――殺しだけなら、まだまとも、ってことですか。そう思いながらも、妙に腑に落ちるところはある。しばしの沈黙のあと、どちらからともなく外に出た。とっくに明るくなってもいい頃だが、灰色の雨雲は空を覆ったままだ。
「あれ、久賀検事じゃない?」
 始関の指す方を見ると、パトカーの後ろに止めた車から久賀が出てくるところだった。
 腕に掛けていた細身の黒のダウンコートをダークスーツの上に素早く着て、道を渡って来る。
「お疲れさまです」
 上司と挨拶をしている久賀と、始関の後ろに隠れるように立っていた雅季の目が合う。雅季は曖昧に顎を引いた。そうだ、このメガネの奥の薄茶色の目。自分に注がれる、穏やかではあるが、濃い憂いを湛える眼差しに不安にさせられるのだ。
 ブーツのヒールを足しても身長百六十センチそこそこの、自分の前に百八十センチ越えの二人が並ぶと異様な圧迫感がある。どちらか一人からでも逃げたい一心で、久賀を現場に案内しようと雅季が口を開きかけたとき、「そういえば、根古里さんが来てないね」始関の鋭い語調が降って来た。
 刹那、場の空気が張り詰める。久賀と上司の視線をつむじの辺りにひしひしと感じた。始関を誤摩化すなど到底無理だ。それを承知でも、試してみるしかなかった。
「根古里さんは朝一で現場に来ましたけど、体調が優れないようなので署に帰しました。インフルエンザかもしれません。始関さんとはすれ違いになったのかもしれませんね」 
「篠塚くん」
 諭すような声音に雅季の緊張が高まった。
 久賀は緊迫した雰囲気から何かを読み、一歩引いた場所で極力自分の存在を殺している。
「本当に、インフルエンザなの? それともなにかもっと悪い病気?」
 雅季はすぐに始関の意図を読んだ。根古里はここ三週間ほど本来の覇気が全くなく、仕事でもかなりミスを重ねていた。彼はそれを示唆している。
「後者です……、根古里さんは今、奥さんのことで……」
 雅季は上司の前に兜を脱いだ。
「ちょっと精神的に参っていて、集中力にも欠けますし正直、戦力になるかわかりません」 
「女房のことって、なに?」
 雅季は一瞬久賀の方を見た。根古里篤志 (ねこり あつし)警部は雅季のパートナーである。
 その彼の都合の悪い話を久賀の前でしてもいいものか迷ったが、始関の無言の抑圧に耐え切れず、根古里に心中頭を下げながら、口を開いた。
「あの、最近、根古里さんは奥さんが携帯電話のアプリで相当課金しているのに気がついて」
「アプリ?」
 始関は眉間の皺を深めた。
「はい、『バーチャルダーリン』っていう、理想の男性キャラクターとチャットするのが主なプレイだと思うのですが、デートしたりゲームしてアイテム集めたり、ですかね。私も聞きかじっただけで良く知らないんですが……」
「バーチャルダーリン」
 始関が繰り返す。発音が本場仕込みだ。つい、「もう一度」とお願いしたくなる。
「バーチャルの、ダーリンってことだよね」
「ほかにどんな意味があるんですか」
 我関せず、とばかり思っていた久賀が後ろからつっこむと、始関はむっとして振り向いた。
「外野は黙ってて下さい。で、そのダーリンに課金していたからどうだっていうの」
「相当ショックだったみたいです。根古里さん四十四歳で、奥さんが九歳年下なんです」
「なにげに彼の自慢だよね、若い奥さん」
「あ、はい。それで根古里さんにとって、出会い系ならともかく、二次元のわけのわからないキャラに浮気されてどうすればいいのかわからなかったみたいで。怒りのやり場がないと言うか。そんなのに俺の金を貢ぎまくる嫁の気持ちがわからない、って。かなりショック受けてて立ち直れない――今ここ、です」
 雅季が一気に話し終えると、始関の顔が嫌悪で思い切り歪んだ。
「それ、本当なの?」
 雅季がしっかり頷くと、始関は宙を見上げ、また雅季に視線を戻した。
「子供、出来てないんだよね?」
「は?」
「課金して子供が生まれるとかそういうんじゃないの?」
 雅季は「ああ、」と視線を泳がせた。
「子供は生まれてないと思います。というか、そういうオプションがあるかわかりませんが」
 始関は腰に両手を当て、やれやれとかぶりを振った。
「子供できてたら、致命傷だよね。わかった。でも、とにかく彼がまともにならないうちは前線に置くつもりはない。署で顔も見たくない。休む間、書面上の処理は僕がなんとかする。本当にインフルエンザかもしれないしね? それで、篠塚くん。捜査本部設置することになると思うけど、君がうちでこの事件の担当。彼にそう伝えておいて。オーケー?」
「伝えます……」
 そのとき、雅季は目の端で、久賀が裏口へ通じる店舗の脇に移動するのを捕らえた。
「捜査本部設けるなら、応援来るし根古里くん一人抜けてもそうダメージはないだろう。まず被害者の身元照会、あと彼女の相方を見つけて」
アサップ(As Soon As Possible)
 雅季の口から思わずアメリカの刑事ドラマで聞いたセリフが飛び出すと、険しかった始関の表情が緩んだ。
「では久賀検事、よろしくお願いします」
「はい、後ほど」
 短く言葉を交わし、さっそうと踵を返した始関の背中に、雅季は一礼した。
 始関の判断は相当厳しいが最もだ。パートナーとしてやるせないが、根古里にミスをされたときフォローをする余裕が自分にあるかどうか。この事件は何か嫌な予感がする。正直、根古里に同情している暇はなさそうだった。始関と入れ違いにクリップボードを持った平井が来て、検事を現場まで先導した。
 久賀が平井に質問をしながら検分をしている間、雅季は廊下で後輩の青鞍に電話をし、指示を出した。コートにスマホを仕舞い、部屋に戻って久賀の様子を観察する。仕方がない。動物だって視覚的に美しいものに惹かれるものだ。久賀の肩までの髪は相変わらず後ろにひとつにまとまっている。肌の色もそうだが色素が薄い彼の髪は茶髪というよりアッシュグレーだ。床を調べていた彼等が立ち上がる。脚も長いが、キャビネットの上段のファイルに伸びる腕も長い。ショウウィンドウの死体へ移動する。索条痕を見るために彼が花嫁に顔を寄せるが、雅季にはその姿が、悪魔が花嫁に何か囁いているような錯覚を覚えた。胸がざわついた。
 検分が終わり、現場を出ていく平井に礼を言ったあと、久賀は再びウィンドウの向こうを見た。さっきまで始関がいた場所だ。
「始関さんは篠塚さんにずいぶん協力的ですね」
「上司ですから」
「それだけですかね」
 返事に窮し、コートのポケットに手を入れると、指が温くなったコーヒーの缶に触れた。
「あ、検事。よかったらコーヒー飲みます? さっき始関さんにもらったんですけど……」
「チョコの代わりですか」
「え?」
「私は始関さんの気持ちを受け取るつもりはありませんが」
 雅季は探るような相手の視線を避け、落ち着かない気持ちでドアの方を見た。やっぱり彼は苦手だ。でも、検分が済んだのだからこれで署に戻れるし、久賀は庁舎に帰る。捜査がある程度進展しなければしばらく会うこともないだろう。
「始関さんは上司として、心配してくれるんです。私がまだ半人前なので」
「そうですか。でも、それは結構です」
 あっさりと断られ、雅季はコーヒーを再びポケットに仕舞った。
「死体の身元は?」
 久賀が靴カバーを外したので、雅季もそれに倣った。久賀が先に裏口に向かう。
「まだです。でも、始関さんが彼女について書かれた記事をタウン誌で読んだそうです。そちらの編集部にコンタクトとるよう青鞍さんに連絡済みです。それから、ここの経営者と社員はこれから署の方に来るそうです」
 脇道を歩きながら雅季は青鞍の返信メールを読んだ。それに頷き、久賀は唐突に言った。
「根古里さんが、今回使えないと……」
「はい」
 彼には全てを聞かれていたのだから、否定しても仕方がない。
「女房、って言いましたよね」
「え?」
「始関さん。『女房』って。久々に聞きました」
「ああ……、始関さんは高校までアメリカ育ちですから。お母様が日本語教育といって、お好きな時代劇とか落語とかDVDなどで一緒に見ていたらしいです」
「そうですか」
 ブルーシートの外では、流れた雲の隙間がぼんやりと白んでいた。
「で、この事件の担当者の篠塚さんには、パートナーがいない」
「はい」
「刑事は通常二人一組行動ですよね」
「はい」
「では私が代わりに今回、篠塚さんのパートナーになりましょう」 
「は……、はい?」
 隣の検事を勢いよく見上げると、視線がまともに遭う。その眼差しの強さに一瞬怯み、雅季は思わず声高になった。
「け、警察を指示監督する検事が、刑事のパートナーになるなんて聞いたことがありませんし、前例はありません!」
「前例がなければ不可能、ということはないでしょう。私たちが「前例」になればいいじゃないですか。大体、伝説は作られるものではなく、作るものです」
「伝説になんてなりたくありません! それに、私の一存で決められませんから!」
「大丈夫です。始関さんに私から話しておきましょう」
 久賀は満足げに頷いてみせるが、彼の非常識な提案が上に受理されるとは思えない。係長の一存で決定することでもないだろう。冷静になった雅季は久賀の車に視線を向けた。
「でも、まず久賀検事は今日のデートの約束をキャンセルしなきゃだめですね」
 雅季の反撃に久賀は一瞬虚をつかれたように薄く口を開いた。そして、助手席に座っている少女がちょうどスマホから顔を上げて手を振るのを見て、きまり悪そうにメガネのブリッジを指で押さえた。
「それとも、デートは昨日だったんですか? 彼女を家に送る途中でした? でも検事には少し若過ぎるんじゃないですか? 久賀検事の彼女は同い年かずっと歳上かなと勝手に想像してたんですが、やっぱり男性なら若い子の方がいいですよね。未成年じゃなければ」
 雅季は他人のプライベートにそこまでつっこむ必要はあるのかと自問しながらも、久賀の目の下の薄い隈を見ると、言葉は次々と飛び出した。
「すみませんが」
 久賀が大きく溜め息を吐く。
「その類いの冗談、本当に笑えませんから。まず、彼女じゃないです」
「わかりました。では、車の彼女は?」
 『彼女じゃない』それを聞いて、雅季も一息ついた。
 鼓動が高くなっていた。自分が興奮するところじゃない。
「従妹です」
「いとこ?」
「川崎晴美、十八歳」
「こんなところで何してるんですか?」
「話せば長くなりますけどね……。私も六年ぶりに会ったんです。昨夜東京から、突然うちに転がり込んで来て」
「どうして急に検事のところに?」
 久賀の顔に逡巡が浮かんだが、結局口を開いた。
「三年ほど前に彼女の両親が離婚して、彼女は母親と一緒に住んでいるんですけど、その母親、私の伯母に最近恋人が出来たらしいんです。再婚を前提に。でも、その相手と彼女、晴美がどうもうまくいかないみたいで。それでも母親の方は恋しているわけですから、こう、晴美よりもその男性の肩をもつらしく。なんとか仲を取り持とするのが余計に「うざい」っていうのが彼女の言い分で、それに、やはり自分より男性を庇うのが気に食わないみたいで」
「それで、家出ですか。いいんですか、親御さんの方は」
「連絡しましたが、逆に『晴美も一人で考える時間が必要だからしばらくの間そっちにいさせて』と」
「家出、親公認ですか! でも、やっぱり帰した方がいいですよ! 何かあったら責任とれるんですか!? しばらくって、どのくらいいるんですか!?」
「さあ……」
「さあ、って……。久賀検事って相当面倒見がいいんですね」
「私もそう思います」
 困ったように眉尻を下げる久賀を見ると、なぜか雅季は苛立ちを覚え、それを抑え込むように腕を組んだ。混乱し、ブーツのつま先に目を落とした。
 現場検証は終わった。死体も運び出されている。こんなところで油を売っている暇はない。これから処理すべきことは山ほどある。久賀だって、担当しているのはこの事件だけではないはずだ。お互い早く持ち場に戻らなければ。『ではまた』と言って捜査員の車に乗ればいい話なのに、その一言が喉に詰まって出てこない。
「まず晴美を家に送ってから、署の方へ行きますので」
「え? 庁舎に戻られるのでは……?」
 久賀はいかにも気分を害したように眉間に皺を寄せた。
「面倒見がいいって認めたのは篠塚さんでしょう。私はパートナーに一人で仕事させるような人間じゃありませんから」

< 前へ    次へ >    目次