エピローグ

 平日の昼下がりだが、新幹線のホームにはキャリーケースを持った熟年女性のグループやブリーフケースを下げたビジネスマンの姿がある。
「『いい加減に帰って来い』って、とうとう母からメールがきちゃって」
 晴美が眉尻を下げながら、首をすくめた。
「篠塚さん。丞くんをお願いします。落ち着いているようで、けっこう暴走しますから」
「なに言ってるんだよ。人にパシリさせておいて。はい、これ。おにぎりとお茶と冬季限定生チョコ。おにぎりは焼き肉がなかったから高菜にした」
「ありがと。でも、それでなんで高菜かなあ。ガッツでないじゃん」
 久賀がホームのコンビニで買ってきたものを受け取りながら、晴美は口を尖らせた。
「野菜食べろ、野菜」
「あ、小姑ってとこも……」
「晴美」
 声音だけで久賀の意思――警告は通じたらしい。晴美が愛想笑いを浮かべた。
「あ、そうだ。篠塚さん」
 晴美に手招きされ、雅季はさらに一歩近寄った。晴美が彼女の耳に手を当てようとすると、少し顔をそちらに傾けた。晴美が何か囁く。
 顔を上げた雅季が微笑して頷いた。
「いいと思う。きっと、喜ぶんじゃないかしら」
 晴美は嬉しそうに、はにかんだ。
 東京行きの新幹線が線路を軋ませながらホームに入ってくる。晴美は足下のリュックを肩にかけ「丞くん、篠塚さん、お世話になりました」と、ぺこりと頭を下げた。
「あ、でもまた戻ってくるんで。大学、受かったら」
「頑張ってね。待ってる」
「落ちろ」
「うわ、そんな呪い……。いいもん、落ちても遊びにくるもんね」
「落ちるな」
「どっちよ、丞くん」
 からからと笑って、晴美はデッキにひょいと乗る。頭上で明るい発車メロディーが流れた。手を振る晴美に、雅季も応える。
「丞くん」
 閉まりかけたドアの向こうで、晴美が手でメガホンを作った。
「ハンドクリーム、変な使い方しちゃだめだよ!」  
「はる……」
 久賀の言葉をドアが遮断し、新幹線は次第にスピードを上げて去って行った。
「ハンドクリーム、って前も晴美ちゃん、そんなこと言ってたんですけど。なんですか?」
 肩越しに振り向いて雅季が訊く。晴美の不意打ちに鼓動を乱していた久賀は、努めて平静を装った。
「なんでもないです。それより、さっき晴美は篠塚さんになんて言ったんです? 私の悪口ではなさそうでしたが」
 雅季は、口止めはされてないから、いいかな。と前置きし、
「晴美ちゃんを青鞍さんに送ってもらったとき『何かあったら』って名刺もらったみたいなんですけど、お礼のメールしていいかって」
「あいつ……! 立ち直り早いな!」
 久賀は思わず、視界の遥か向こうに点になった新幹線を仰ぐ。雅季が顔を綻ばせた。
「成長してる、って言うんですよ。よかったじゃないですか」
 行きましょう、と雅季が促す。山からの風がホームに吹き込むと、雅季は片手でコートの襟を寄せた。  
「ごめんなさい、久賀さん。やっぱり晴美ちゃんを帰らせなくてよかったです」
「え?」
「だって、私、最初に晴美ちゃんを親御さんのところに帰せって、久賀さんを責めたでしょう。でも、今回の事件、晴美ちゃんのおかげで解決したようなものじゃないですか」
 確かに。思えば晴美が玉置悟の顔を見ていたから、突破口が見つかった。道が一気に開けた。あのまま地道な捜査を続けていれば、晴美の情報無しでも、いつかは玉置に辿り着いたかもしれない。だが、その間に犠牲者が増えていたかもしれないのだ。何年かぶりに突然現れた従姉妹が、犯人検挙に貢献した。おかしな偶然だと思う。
 ひと一人の人生はどこでどう交差しているのかわからない。しかし、本人が意識しなくても、常に交差している。連鎖している。そして、必要なタイミングに、必要な場所で出会う。そういうことなのかもしれない。
「つまり、篠塚さんの言うことは聞かないほうがうまくいく、ってことですね」
「えっ、それは……」
 久賀は雅季の不服の視線をさらりと躱す。
「だから、篠塚さんが私の気持ちを受け入れない、と言っても、それは聞かないことにします」
「う、受け入れないなんて言ってません」
「じゃあ、受け入れてくれるんですか? 今すぐ?」
「困らせないでください。自分でも、わからないんです。受け入れるとか入れないとか」
 雅季が早足になるが、久賀はすぐに追いつく。
「円滑に人間関係を築くのに、拒絶するより体面だけでも受け入れる方が実は簡単なんですけど。じゃあ、いつか。それでいいです。いつかの約束、してください。私は待てますから」
 あなたの心が自然に開くのを。
「そんな、待たなくていいです」 
「これまでの二十年もこれからの五十年も同じです。私には篠塚さんしかいないんです」
 階段の手前で立ち止まった雅季は、久賀を見上げた。その顔は今にも泣きそうだ。自分が彼女にこんな顔をさせているのかと思うと、胸が痛むと同時に、微かな喜悦を覚える。
「久賀さん、さっき晴美ちゃんに言われたばかりなのに、もう暴走してるじゃないですか。そんなの、嘘です。人の気持ちは変わるんです」
「篠塚さんのことでは暴走するんです。ただ、私の気持ちは変わりません。だから約束、してください。私は職業柄、言葉巧みに誤摩化すことはしても、嘘はつきません」
 久賀は雅季の前で小指を立てた。
「指切りしましょう」
「え?」
 雅季は差し出された指と久賀の顔を交互に見ていたが、やがて、おずおずと小指を絡ませた。
 久賀は手を軽く上下させ、「指切りげんまん……」拍子をとった。
「嘘ついたら……」
 雅季が継ぐと、久賀は思わず笑ってしまう。
「だから、つきませんって」
「あ」
 雅季が思い出したように目を見開く。
「久賀さん、約束破りました。私が車で待っていろと言ったのに……」
「約束はしませんでしたよ。あの時私は勝手に助手席に乗っただけです。それで追い出さなかった篠塚さんが甘いんです」
「そんな……っ」
 雅季は紅潮した頬を膨らませた。
「もう、離してください。いい大人が何をしているんだって思われるじゃないですか」
「だめです。まだ、終わっていません。そういえば、篠塚さん、私の名前呼び捨てにしましたよね。晴美と口論しているとき」
「あ、すみませんでした。つい、私も雰囲気にのまれてしまって……」
「いや、いいんです。でも、もう一度読呼んでくれませんか?」
「え?」
「だから、呼び捨てで。あの時のように」
 一瞬、眼を伏せた雅季が息を吸い、真っすぐ久賀を見上げた。
「検事――」
 雅季が言いかけた時、電車通過の注意が流れた。そのアナウンスの音量が大きかったので、久賀は小指同士を絡めたまま、雅季の方へ身をかがめた。

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