心も体もセンセー好みの女にされた俺(前編)

 ななかの部屋から帰宅した俊は、玄関のドアを開けると、部屋の明かりがついていないことに妙な胸騒ぎを覚えた。内廊下の光が斜めに差し込んだ玄関に、いつも履いている佐野の革靴がない。
 明かりを点けた部屋に入っても静寂が迎えただけで、もちろん佐野は不在だった。

 キッチンカウンターに、ななかと買った下着の入ったデパートの袋を置くと、伏せた茶碗が目に留まった。その下にあるメモを取り上げて、読む。

『数日留守にする。冷蔵庫のもの、ちゃんと火を通して喰えよ。米は冷凍庫』

 壁の時計に目をやった。十時十分前。

 いねーのか……。せっかく見せてやろうと思ったのに……。
 横目でデパートの袋を見て、ため息をついたが慌てて首を振り、落胆を払った。

 冷蔵庫を開けると、煮物や佐野のお得意トマトソースの入ったタッパーが整然と並んでいる。
「米くらい自分で炊けるし……」
 俊はひとりごち、メモの角を折ったり伸ばしたりしながら、佐野の行きそうなところを考えた。だが、すぐに心当たりがないことに気づき、愕然とする。

 俺、あいつの行動範囲とか全然知らねえわ。

 友達に会いに行ったのだろうか。そうだ、週末なんだから、誘われれば酒くらい飲みに行くだろう。いや、それはねーか……。俊はすぐにその可能性を打ち消した。

『他人に興味ない人だったから。むしろ避けてたからさ』

 ななかの言葉が主人のいない部屋に虚しく響いた気がした。とりあえず、俊はななかに電話した。心配とかじゃない、留守中に何かあったら困るだろうが。水漏れとか、新聞の集金とか、外出して鍵落として家に入れなくなるとか。

「あ、それね。パパの研究所だ」
 すぐに電話に出たななかは佐野の居場所を簡単に教えた。
「二、三日帰ってこないこともあるけど、心配しないで。なんなら、ななかの部屋に泊まる?」
 俊はその申し出を遠回しに断り、電話を切った。佐野の居場所がわかると、安堵と気疲れで自分のベッドであるソファに崩れるように座り込んだ。

 一瞬でも、捨てられたかと思った自分が可笑しかった。
 安心すると急に空腹を覚えたが、面倒くさくてそのまま寝ることにした。ふらりと出て行った佐野に対する反抗のつもりでもあった。

 翌日は、起きると腹が鈍く痛んだので、佐野のipadで漫画を読んだり、Netflixで映画を観たりしてダラダラ過ごした。
 佐野失踪二日目、俊はハムを乗せたトーストとゆで卵で朝食を済ませ、ジョギングに行くことにした。この間、野中とサッカー観戦に行き、選手たちのパワフルな動きに触発されたこともあり、天気もいいし思いっきり体を動かしたい気分だった。

 それに、ブラジャーあるしな。

 ノーブラ生活は不便極まるもので、少し早歩きになっただけで派手に上下する胸の動きがいちいち気になったし、さらにそこに周りの男たちの目が集中しているのではと居心地悪いことこの上なかったのだ。
 ななかとのセックスの後、簡単だったがレクチャーを受けていたおかげで問題なくブラジャーを着けられた。Tシャツとジャージに着替え、タオルを首に巻いて家を出た。 

 近所の総合公園に入ると、日曜の午前中ということもあり、犬を連れている主婦や、公園内のスタジアムで試合なのか、野球のユニフォームを着た小学生たちとすれ違った。

 割と広い公園にはジョギングコースが設けてあり、俊は軽いストレッチをした後、一周八百メートルのコースを、数人の先客とともに走り始めた。薄雲が浮かぶ青空、頬を撫でる微風に気持が洗われるようだ。

 気持ちがいいな。

 俊は足取りも軽く走り始めてすぐ、その理由がブラジャーのお陰でもあることに気がついた。散々試着し、ジャストフィットの下着はしっかりと二つの柔肉をキャッチし、揺れが全く気にならない。

 すげえ! ブラジャー! 最高! 重力に負けてねえ! ていうか、重力に逆らってる、俺!

 気分も軽く、調子に乗って走っていたのが悪かったのか、異変は三周めを過ぎたあたりで、起こった。まず、急に空気が薄くなったかのように、息苦しくなった。

 心臓は狂ったようにばくばくと暴れている。それでも、ややペースを落として四週目に入った。すると、相変わらずの息苦しさに加え、足が重くなってきた。なんだか膝も頼りない。

 その時、ふと自分の横で風が起こり、颯爽と抜いて行く男がいた。

 その背中に見覚えがあり、目を凝らす。相手との差はどんどん広がり、カーブに差し掛かったその人物の横顔を見た俊は、あっと息をのんだ。佐野だった。ポロシャツに紺のチノパン、デッキシューズだったが、美しいフォームで走っている。
 なんで……、あいつがいるんだよ!
 佐野は俊を二度抜かして、芝生エリアへ外れて行った。

 俊は六週目に入る前に、とうとう走るのを諦めた。身体中の筋肉が悲鳴をあげていたし、心臓は爆発寸前だった。ふらふらとコースを外れ、佐野のところまで行くと、足元にへたり込んだ。

 佐野にカッコ悪いところを見られて、穴があったら、いや、余力があったら穴を掘って入りたいくらいだった。
「俺、……高校時代サッカー部の、キャプテンで……」
 呼吸をするとひゅうと喉が鳴った。
「知ってる」
「体育祭でも……1000mも校内一で」

 久しぶりに走ったからって、こんなに走れないわけはない。
「俺、こんな体してなかったら……、お前みたいなアラサーのおっさんに、負けるはずはなくて」
 すごい、悔しくて、悲しい。心臓が痛いのは、ジョギングの負担だと言い聞かせた。
「俊……」
「スッゲー悔しい。こんなの、……俺じゃねえよ」
「足を伸ばせ」

 佐野が膝を立てて座る俊の向かいにしゃがみ、言った。俊は投げ出すようにその通りにすると、佐野は足を抱え、太ももからマッサージを始めた。揉まれたところから、じわっと筋肉の緊張がほぐれていく。思わず芝生の上に仰向けになった。

両足のマッサージが終わると、強引に体をひっくり返され、うつぶせの状態で背筋と腰のマッサージに移る。
 佐野の丁寧で的確な手の動きで徐々に体がほぐされ、本当に気持ちいい。目を閉じて、相手の手の強さと温もりを堪能していると、唐突に声が降ってきた。

「おまえ、ななかとなんかあった?」
 佐野の手は俊の一瞬の体の硬直を拾ったのか拾わないのか、相変わらず淡々と動いている。
「な、なにって、別に何も」
 もし、すでにななかから聞き知っているとしたら、もっとストレートに訊くだろう。俊はとぼけた。

「うなじにキスマークついてるし? 消えかけてるけど」
「えっ」
 俊が思わず顔だけ振り向くと、佐野がニヤリと見下ろした。
「お前、こんな手に引っかかるとかどんだけ頭悪いの……って、まあ前科あるからなあ」

 あっさり陳腐な手に引っかかった自分を呪い、同時に鎌をかけた佐野への怒りがこみ上げた。パッと体を翻し、佐野の手を払いながら上体を起こした。驚いたように目を瞬く相手を睨みつけた。
「ていうか、俺がからかわれたり、責められる理由なんて一つもねえよ。だいたい、お前のせいでこんな体にされて面倒に巻き込まれてるんだからな」
「それは、悪いと思っている。だから……」
 俊は相手の弁解など聞く気はなく——聞いたら、心が揺れそうで——遮った。

「あんたさあ、俺が心配だからって、家に連れて来たけど、言ってることとやってることが違うだろうがよ。復讐したかったんなら放っておきゃいいじゃねえか。それとも、目の前で苦しむ俺を見て、まだ楽しみたいとかそういうことか」

「そういうつもりは……」

「じゃあ、なんだよ。こんな気持ち悪い体になって、俺どうすんの。こんなデカイ乳、見たり、揺れたりするたびに、情けなくてたまんねえよ。最近だろ、トランスジェンダーの人権がどうのって日本でも動き出してんの。でも、俺は、違う。なりたくてなったわけじゃねえ、心が体についっていってないんだよ。どうすんだよ、俺の人生。復讐にしたって、悪質すぎんだろ。それも女に振られた逆恨み。あんたの方が全然女々しいじゃんかよ。あんたが女になれよ」

 一気に吐き出すと、俊は自分が肩で息をしているのに気がついた。ジョギング中より心臓が苦しい。佐野は正座の開いた膝に拳を固めてうつむいていた。
「返す言葉もありません、か」
 俊は、立ち上がると家に向かって歩き出した。公園を出て信号待ちをしていると、横に佐野が並んだが、無視してそのまま歩き続けた。

 家に着き、すぐに水のボトルから直接三分の一ほど一気に飲んだ。シャワーを浴びるのに脱衣所に入ると、佐野が入り口のところで「ごめん」と謝ってきた。

「それも聞き飽きたけど、だからって、何か変わるけじゃねえし、もういいよ」
「なんか、たった二日ぶりでも、家に帰ったらお前がいなくて、すげー動揺して。見つかったらなんか、浮ついて、追いかけて……。調子に乗ってた。お前を傷つけるつもりはなくて……。浅はかで、悪かった」

 なんだよ、俺だって外出くらいするっての。動揺ってなんなの? なんかいきなり謙虚じゃん。

 佐野の懺悔に、鳩尾のあたりがくすぐったい。頰が緩んでくるのを奥歯を噛んで堪えていると、俯き加減だった佐野が顔を上げた。真顔で俊を見据える。

「ていうか、俺に嘘、つかないで。純粋に傷つく。俺、お前が何かして、怒るとかないから。お前に負い目あるの、俺の方だし。一応、これからなにがあっても、お前のことなら全部受け止める覚悟あるし」
「……わかった」
 佐野の言葉に、常にあった不安がみるみるうちに消えて行く。佐野が心の内を言葉にしてくれたことで、俊も素直に相手を受け入れられた。

 だが、佐野に安堵の表情が浮かんだのもつかの間、その綻んだ口元に不敵な笑みが刻まれた。俊は思わず構えた。

「で、よかった?ななかちゃんのセックス」
「え? あ……あ……別に」
 俊は狼狽えた自分を恨んだ。
「……お前、正直だな。そっかー、よかったか」
「だから、別にって……」

 佐野が脱衣所に足を踏み入れ、反射的に退いたが、すぐに洗濯機に逃げ道を阻まれる。
「ななか、お前見た途端目の色変えて、やる気満々だったしな」
「……っ、知ってて!? いいのかよ! 野中が触ったらセンセー、マジギレしてたじゃん!」
 俊の振り上げた手を、佐野はパシッと掴んだ。

「ななかは、特別。あいつ、俺が辛い時期、支えてくれたから。それに、あいつを受け入れられない相手は、俺にもムリ」
「あ……」
 辛い時期。それは同級生に虐められた時のことか。それとも、浜のっちに失恋した時のことか。
 いずれにせよ、そのヘビーな過去を背負う佐野を前に、俊の反抗心は一気に削がれた。

「ごめん。浜のっちの……」
「はあ? なんのこと?」
 佐野は俊の手を掴んだまま、さらに詰め寄った。逃げる間も無く手グッと引かれ、相手の硬い胸に倒れ込む。ぎゅっと抱きしめたまま、首元に顔を埋めてきた佐野が、すーっと息を吸う。

「お前、汗臭い」
 顔がぼっと熱くなる。
「じゃ、じゃあ離れろや!」
「で、お前、ななかで満足したのか?」
 答えられない俊の首筋を、佐野の声がくすぐった。潰された乳房の下で鼓動が騒ぐ。
「……お前、正直だな」

 直後、両手でTシャツの裾を勢いよく胸の上まで捲り上げられた。
「わっ、や、やめろっ!」
「お前、何、これ……」
「え……?」
 かろうじて俊は相手を引き剥がしたものの、佐野はTシャツの裾を握ったまま、二人の隙間に現れた俊の乳房に目を釘付けにして、固まっていた。相手が凝視しているのが、水色のブラに包まれた胸だとわかり、俊はさらに赤面した。

「べ、別に普通のブラだろうが、そんなにおどろ……」
「ななか、グッジョブ……」
 俊が言い終わらないうちに、佐野はそんなことを呟き、プッシュアップされてできた胸の深い谷間に顔を突っ込んだ。
「ちょ……っ」
 べろりと谷間を舐められた途端、俊の肌がぞくりと粟立つ。
「あー、谷間に汗が溜まってぬるぬる。お前の汗、なんか甘くない?」
「し、知らねーよ! 離れろっ、変態!」

 俊は相手を突っぱねようとしたが、濡れた舌が柔肉の谷間から丘を這い回り、さらには裾野から胸をやわやわと揉みしだかれると、その腕の力がみるみるうちに抜けてしまう。俊の抵抗が和らいだ途端、佐野は胸に顔を押し付けながら、舌全体を擦り付けるようにして、ブラからはみ出た肌をさらに大胆に舐め回し始めた。

「は、離れ……ろ、よっ……」  
 乱れ始めた息の合間に俊が再び抵抗すると、佐野は不意に胸を揉んでいる手を止め、顔をあげた。
「本当に離れて欲しいの?」
 その目があまりにも真剣で、俊は言葉に詰まった。
「お前が、本当に離れてくれって言うなら、そうするけど」

 ずるい。俺がここで拒否らなかったら、してくれって言ってるも同然じゃん。

 相手に屈っするものかという理性と、胸への愛撫で火が着いてしまった欲情が俊の中でせめぎ合う。
 俊が唇を噛んで佐野を睨むと、まるで、その気持ちを見透かしたかのように、佐野は目を細めた。

「わかった。お前ばっかり脱がされてるから、恥ずかしいんだな?」
「え……」
 俊が目を瞬かせている間に、体を起こした佐野はさっさと自分のポロシャツを脱いでしまった。現れた佐野の体は、男──だった俊が羨むほど、逞しさとしなやかさを持つ。それは、何度も抱かれてわかったことだが、たった数日ぶりなのに、目の前にこうして晒されると、俊は途端に渇望を覚えた。

 ぼうっと相手に見とれていると、佐野が再びTシャツに手をかけ、ゆっくりと俊の頭から抜いていった。不思議と抵抗する気が起きなかった。きちんと爪を切られた指先が、ブラを装飾するレースと乳房の境をなぞる。
「可愛いな。すごく似合ってる」
「べ、別に俺のシュミじゃねーし……」

 胸の上をゆっくりと往復する微かな刺激にさえ、体が震えそうになるのを俊は必死で抑えた。
「だろうな。むしろ、俺のシュミだ。ななか、わかってるなと思ってさ」
「どこまで変態……」
 いきなり指が布越しに突起を擦り、その刺激の鮮烈さに俊は息をのんだ。
「そんな変態に恨まれたりして、こんなことに巻き込まれて、お前も災難だな」

 体を押し付けてきた佐野の男根が俊の下腹に軽く埋まる。勃起しきった、その生々しい形がたちまち俊の脳裡に蘇り、熱いそれに圧迫されている場所が、きゅんと疼いた。

「浜のっちのことで……まだ俺のこと恨んでる?」
 今までの情交はやはり全てが恨みの延長だったと思うと、心が挫けそうになる。

 佐野は俊の瞳をじっと見下ろした。薄く唇が開く。

「いや、愛してる」
 俊の中で何かが崩れていく。男と女とか、常識とか非常識だとか。抵抗すべき対象全てが、佐野の一言で粉々に打ち砕かれてしまう。

「今すぐ、したい。とりあえず、二日ぶん」

 俊の体に回された手が、ジャージの上から尻を撫で回す。密着する、相手のすべすべの肌の感触を懐かしくさえ思いながら、俊はそれでも最後の抵抗を試みた。
「で、でも汗掻いたし、シャワーを……」
「いい、俺が全部舐めとる」
 ——やっぱり、変態にはかなわない。
 ふわりと体が浮くと、俊は慌てて相手の首にしがみついた。

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