本当に欲しいもの

 学園祭が終わって生活が落ち着きを取り戻した頃、京が黒崎君と付き合う事になった。彼が、京に告白したという。

 いつもの放課後女子会で嬉しさを隠そうともせずに、笑みを満面に浮かべて報告する京は、無防備で、稚く、そして艶めいて、誇らしげだった。

 そんな彼女が少し羨ましかった。人を羨ましい、と思う事はあまりないのだけど、どうしてそう思ったんだろう。……ああ、たぶん。私と侑兄の関係は、言ってしまったら『罪』になる。

 侑兄のことも。法的には『罪』ではなくても、『世間』の目には歪んで映るだろう。道徳的に『罪』になる。だから、人には言えない。

 でも京は何も考えずに、単純に好きな人の事を口に出来る。それだけのことでも、私は彼女を羨んだ。

 本当に愛し合っていれば公言する必要なんて全くない、むしろ自分の中で密かに慈しむものなんだ、ってわかるのはそのずっと後だったから。

学校から帰り、居間に侑兄を見つけると私はソファの上に飛び乗った。

「黒崎くん、京に告白したんだよ! 今日京から聞かされたんだけどね、あ、黒崎くんって、サッカー部の、京の……」

「知ってる。比和が僕に話したじゃないか……もう少し早いと思ったけど。シャイなんだね、彼は。でも告白したってことは、彼はいいプレーヤーになると思うよ。サッカー選手は闘争心が無いとね」

 彼が何を言ってるのかわからない。彼はローテーブルの上に、読んでいた本を置いて「手、洗っておいで。ご飯にしよう」と私の頭を「いい子いい子」しながら、腰を浮かせた。

「なんか、私の知らないところで不穏な動きが……?」

 私が動かずに口を尖らすと、彼はまたソファに座り直した。

「同じクラスのサッカー部の小出に頼んだだけ。黒崎くんに匿名の伝言を。『鹿野京の情報欲しいんだけど。気になってるヤツがいて』たった一言。小出にはJリーグのチケット二枚ポケットに入れてやった」

「それって、つまり」

「うん、黒崎くんは姿の無いライバルが出て来たからやっと行動起こしたみたいだね。だから、もともと京ちゃんのことは意識はしていたんだよ。よかったね」

「よ、よかったけど……そ、それにどこからチケット!」

「チケットなんて父さんの机探せば結構出て来る。お客さんが『息子さんに』って持って来て忘れてるだけだし。ビール券はマズいだろ。まあ、賭けだったけどね。うまく行かなくても失うものは無いし……でも意外と思い通りに動くもんだな」

「なんでそんなこと!」

「可愛い妹の喜ぶ顔がみたいから。嬉しくないの? 親友の恋が成就して」

 侑兄は指先ですっと私の頬を撫でた。

「う、嬉しいけどさあ……なんだか素直に喜べない感じ」

「どうして? 京ちゃん、喜んでなかった?」

「すごく喜んでた……でも、なんか、京ばっかりずるい。私はこんなに侑兄が好きなのに、人に言えないし、結婚だって出来ないんだよ」

 私はプリーツスカートの裾をいじりながらぼそぼそと言った。こんなこと侑兄に言っても困らせるだけなのに。

「おいで、ひわ」

 彼が軽く膝を叩くから、その脚を跨いで向かい合わせに座る。男にしては長いまつげの影で楽しそうな眼差し。侑兄は私の前ではいつも機嫌がいい。そしてやんわりと抱かれる腰。

「あのね、比和。結婚は他人と他人を繋げる儀式だけど僕たちはもう繋がっているからそんなものは必要ない。僕たちは同じ血で繋がっているから。僕の一部がひわで、ひわの一部が僕で。それを考えると僕は嬉しくて仕方が無いんだ」

「侑兄が、私のもの?」

「そうだよ。比和が生まれたときから、僕は、比和のものだった」

 その言葉に、胸の中でゆっくりと花開くように暖かいものが広がる。

 なんだかくすぐったくて、侑兄の首にかじりつく。同じシャンプーの匂いに、整髪料の香り。

「侑」

 耳の端で名を呼ぶと、答えは無くて、ただ強く抱きしめられた。欲しいものはいつも与えられるのに、もっともっとと望むなんて、私はなんて欲張りなんだろう。

 そんな侑兄との関係も彼が受験に集中し始めた頃から安定期に入った。

 侑兄の実力なら志望校には確実に受かると誰もが思っていたけれど、当の本人は石橋を叩いて渡るタイプだったから、ひたむきに受験勉強に身を投じていた。

 セックスをするのは大抵土曜日、同じく受験生の仁兄が図書館へ行き、母と父が仕事に出た後に限られた。

 仁は朝出て、閉館時間まで帰ってこなかったし、母も夕方まで帰らない。父に至っては、家にいるより事務所のほうが落ち着くらしく、やはり夕ご飯までは留守だった。

 私たちは朝からたっぷり時間をかけて何回もセックスをした。その頃には、口でしてあげることも覚えていたから、シックスナインにハマった。

 でも結局私がいつも先に降参しちゃうんだけど。

 侑兄はW大の、仁兄はN大の建築学科にそれぞれ進んだ。仁兄は両親が部屋を借りる事を進めたにもかかわらず、その申し出を辞退し、二時間以上もかけて通学している。仁兄が大学に行ったら部屋を借りるものと内心期待していた私の落胆はそれは大きかった。

 彼さえいなければ、侑兄ともっともっともっと楽しい事が出来たのに。

 絶縁宣言した直後から仁兄とはずっと口をきいていなかった。

 一緒に住んでいるのにも関わらずその存在を無視するのはかなり困難だったけれど、もともと仁兄と私の接点なんてほとんどなかったうえに、彼の殺人的な通学時間のおかげで、顔を合わせることのほうが珍しいくらいだった。

 卒業して侑兄のいなくなった校舎はあまりにも空虚。高等部の校舎にはまだ侑兄の淡い残像があるというのに。

 空き教室に忍び込み、夕暮れの中で濡らして、漏らして、つながって。

 人通りの少ない階段の踊り場の、ステージの幕の陰でキスをして。

 かつて心浮き立たせたそれらの場所は、侑兄がいないというだけで一気に褪せ、味気ないものになってしまった。それらは何事もなかったかのように知らんふりをして、私を誤摩化そうとする。

 京は黒崎君と楽しくやっている。

 そして私は彼女がもう処女ではないと知っている。彼女が話した訳じゃないけど、同じ「女」としてわかる。失ったと同時に得られるもの。

 一種の落ち着きのようなもの。少し広がった許容の範囲。京も、私が処女で無いことを知っているかもしれない。

 それでも彼女は詮索せずに放っておいてくれる。私が誰とも付き合わず、一人でいるのも彼女は私の都合としてそれを尊重してくれているんだと思う。

 それとも彼氏が出来たから、女友達への興味は削げたのか。

 どっちでもいいや。

 とりあえず私は友達に恵まれていると思った。理解のある友人は一人いれば頼もしい。

 そして心も体もすべてゆだねられる男も一人いれば私は、満たされる。

 二人もいらない。しかも同じ顔をした男なんて。

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