天敵認定 2

 そして、ちょっとした事件が起きたのはその数日後だった。

「比和! ひどい! 親友だと思ってたのに!! 彼氏いないって嘘じゃない!」

 登校してホームルームが始まる前に京に屋上に連れて行かれ、いきなりこのセリフ。

 フェンスの前に仁王立ちになった彼女は、やや濃いめの眉に力を込めて。

 どんよりと鈍色の雲が空を覆っていたけれど、空全体が光っていて不思議と明るかった。逆にそれが不気味で、これから京の口から出る言葉に身構えた。

「な、何のこと?」

 彼女が何を言っているのか本当にわからなくて動揺を隠しきれずにいると彼女はさらに眉を吊り上げて語気を強めた。

「林! 陸上部の林が言ってたもん。岩崎先輩が他の先輩たちと話してて、比和子には大学生の彼氏がいるって言ってたって」

「はぁあああ?!」

「好きな人いないって嘘だったんでしょ! 親友だと思ってたのに。比和の付き合ってる人教えてよ。ずるいよ、自分ばっかり秘密にして。そんなに私、信用無い?!」

「え……本当に、いないのに、そんなひと……」

「じゃあ、なんで先輩が嘘つくのよ?!」

 それは私が聞きたい。なんで仁兄はそんな嘘をついたのか。でも今はそんなこと考えている場合じゃない。

 京と私の友情のピンチだ。正直に答えるべきか。それとも適当に他のクラスの男子の名前を言ってしまおうか。どちらにしてもあまりいい案ではないのはわかっている。『秘密』なんて学校内では共有物のひとつになってしまう。

 ”好きな人の名前”ならなおさら。口にした途端、ウィルスも顔負けの早さで広まってしまう。そしてその『誤解』を駆除するのはどんなに厄介なことか。

 それでも、京は本当に大好きな友達だ。数少ない友達の。誤解されて、離れて行って欲しくない。

 私は大きく息を吸う。そのとき、予鈴がなった。私は高く響くチャイムの音に消されないくらい声を上げた。

「侑兄」

「私の好きな人、侑なの」

 生暖かい風が脚の間を抜けて、スカートの裾を翻す。チャイムの音の余韻も吹き流された。京は風になびく髪もそのままに唇をきゅっと噛んで、私を睨んでいる。

 彼女は何を考えているんだろう。

 私が苦し紛れの嘘をついていると思って、言葉もでないほど怒ってしまったのか。心臓がばくばくと脈打つ。

 ——ほんとうに、

 と、口を開きかけたところで、沈黙は京の弾ける笑いで破られた。

「ぷっ……あははは、わかった。ごめん、比和。ごめ……っはははは。そんな真剣な顔されても困るーー」

 え?

「そうだよねえ、あんなカッコいいお兄さんがいたらよっぽどの人じゃないと興味持てないよねえ……もー、比和がそんなにブラコンだとは思ってなかったけど! 今のでなんか納得」

「あ、うん。そうなんだ……。けっこう辛いよね、身近にああいうのがいるとつい比べちゃって……」 

 京が私に体重をかけるように腕を絡めて来た。その拍子にかくん、と膝が折れた。

「やだ、大丈夫? 比和子。そんなに怖がらせちゃった? ごめんね。親友に内緒にされてたって思ったらショックで」

 まだ顔に笑いを残しながら彼女は私を支えながら、青いドアに向かう。

「うん、ちょっとびっくりして。親友失うかと思ったーー。ほっとしたら力抜けたあ」

「でも、なんで先輩、あんなこと言ったんだろうねえ。林がなんか聞き間違えたのかな」

「うん。あり得ないし。大学生って、どこのよー」

 私もまいった、という顔を作る。

 違う。私のほうがショックだった。どうして信じてもらえないんだろう。こんなにハッキリ言ったのに。

 こんなに好きなのに。

 雲の鈍色が、目に滲んだ。

 とにかく今日こそ仁兄とは決着をつけておかなきゃいけない。

 学年委員会が長引いたのにも拘らず、議題の幾つかの議題は来月に持ち越し。でも、私のこの、胸の内で煮えくり返っている問題は、持ち越す事なんか出来ない。思い出しただけでまた鼻息が荒くなりそうなのを鎮めながら、既に薄暗くなりかけた帰路を急ぐ。

 九月も半ばを過ぎれば陽が落ちるのも早い。普段なら近くのコンビニでおやつを物色したり、ちょっと雑誌やマンガを立ち読みしたりして帰るけど、今日はそれも無し。

「ただいまー」

 玄関に揃えられた青いアディダスのシューズ。——帰って来てる。

 ローファーは見当たらず、それは侑兄の不在を語っていた。そっか。学園祭まで作品に集中するって言ってたっけ。

 侑兄に今朝のことを話せば、きっと仁兄を咎めてくれるに違いない。

 でも、そんなんじゃ生温い。直接言わないと意味が無い。仁兄は、侑兄にべったりな私を『虎の威を借る狐』くらいにしか思っていないかもしれないけど、人を馬鹿にするのもそろそろいい加減にして欲しい。

 私は靴もそろえず、鞄を抱えたまま仁兄の部屋へ駆け上がった。

「仁兄、ひどい!」 

 ノックもせずに部屋に飛び込んで来た私を、ベッドで雑誌を広げていた兄はぽかんとして見つめていたが、すぐにいつもの高慢な色を顔に浮かべて言った。

「おまえ、ノックぐらい——」

「偉そうに言わないで!」

 開けっ放しのドアの前で鞄を投げるように肩から落し、私は両腕を振った。

「私に彼氏がいるなんて、なんでありもしないこと言うの!? 仁兄のせいで京の信頼を失いかけた!! 私が秘密にしていると思われたんだよ! 京、誤解して友情にヒビはいりかけた!」

 仁兄の顔色がさっと変わったのを見逃さなかった。仁兄は視線を泳がせながらあぐらをかいた膝を両手で落ち着きなくたたく。

「そ、それはおまえのためを思ってだなー、最近、ほかのクラスのやつにおまえのことよく聞かれて……変な男にまとわりつかれても迷惑じゃん? ウザいし……だから——」

 自分が何をしたのか少しは承知しているようだ。

 反論したいところだろうけど、適切な言葉は出てこないらしい。

 当たり前だ。「え、あー」って口だけぱくぱく動かしている。柄にも無く動揺しまくる仁兄、始めて見た。

 でもそんなことどうでもいい。

「ウザイのは仁兄のほうじゃない! そんなの余計なお世話だよ! 人権侵害!!」

「なんだよ、おまえ人がどんだけ……」

「そんなところばっかり兄貴面して! 仁兄なんて大ッ嫌い!! もう絶縁だから!」

「おい、絶縁って……ちょっと待て……」

 私は捨て台詞を決め、追ってくる仁の言葉を跳ね返すように思い切りドアを閉めた。廊下で、帰ってきたばかりの侑兄とすれ違う。「おかえり」私は不機嫌丸出しで言った。

「どうしたの?」

 侑兄は私を追って部屋に入って来た。

 まだ興奮状態の私は、侑兄に背を向けてブレザーを脱ぐとハンガーに掛け、ネクタイを解いた。

「全部聞いたわけじゃないけど……あそこまで言わなくてもよかったんじゃないか。最近比和はぐっと綺麗になったから、僕の周りでも比和のこと聞いて来るヤツが多くなった。今月も後一人聞きに来たら、僕も仁と同じこと言ってたと思うよ。仁も比和を誰にも取られたくないんだよ」

 侑兄がベッドに腰掛けると、スプリングが小さく軋んだ。

「ううん。仁兄のは完全に嫌がらせだもん。私がモテると調子に乗るとでも思ってるんだよ、きっと。それにもともと私を敵視してたしね。もー、本当に京の疑い晴らすの大変だったんだから。交換条件に好きな人教えてって、すごい剣幕でね。侑兄が好きって言ったら、笑われちゃったけど……」

 私はブラウスの一番上のボタンを外してから、ふと侑兄の前で着替えようかどうか少し迷った。裸で抱き合う仲ではあるけれど、目の前で服を脱ぐのは恥ずかしい。

「僕のこと、好きって言ったの?」

 その声のトーンに硬質な変化を感じて私はあわてて振り向いた。

「あ、ごめん……バラすつもりとかなくて……あのときは誤解を解くのに必死で……でも、全然信じてもらえなかったんだけど——」

「そんなこと、どうでもいいんだ。でも嬉しいな。ちゃんと、言ってくれたんだ」

 まだブレザーを着たままの侑兄は、おいで、と私に手を伸ばす。彼の膝の間に立つと、するりと腰に腕が絡まった。私のおなかに頬を寄せるから、その頭を抱く。

「ありがとう、比和。僕、今すごく嬉しいんだけど」

「本当?」

「本当だよ」

 兄は私を見上げ、柔らかく微笑んだ。侑兄、可愛い。私が「好き」って言っただけでこんなに喜ぶなんて。

「キスして。お願い」

 私がため息まじりに言うと、侑兄の瞳に驚きが揺れた。私がこんなふうに言葉にするのは今までなかったから。彼は両手でそっと私の顔を包み、引き寄せた。

 少し屈んだだけで唇は重なった。

 侑兄の部屋を挟んだ向こうの仁兄の存在なんてすっかり頭から抜け落ちていた。

 ***

「岩崎さん、ちょっといいかな」

 昼休み、音楽室への移動途中。クラスメイトが私と、呼び止めた高等部の先輩の顔をチラチラ見ながら通り過ぎた。

「私、行ってるね」

 空気を読んで背中を見せた京のブレザーの袖を思わず掴みそうになった。

「高等部二年の、七瀬です。D組の」

 自己紹介を始めた、正面に立つ先輩を見上げる。背が高い。

「え、と。私になにか」

 言ってて嫌になる。「何か」って、この状況じゃ一つしかない。気が重い。見栄えの良い、さわやかな笑顔の先輩がズボンのポケットに両手を突っ込みながら醸す、甘酸っぱい雰囲気に耐えられない。私は胸の前で教科書を抱え直した。

「岩崎君、君のお兄さん、B組の岩崎侑君に手紙を渡して、その返事を待ってるんだけどなかなかもらえないから、直接聞こうと思って」 

「手紙……そういうものはもらってませんけど」

 彼は少し目を見開き、指先で軽く鼻の脇を掻いた。

「おかしいな。だいぶ前なんだけど」

「あ、兄は最近学園祭の準備で忙しいから忘れちゃったのかも……」

 侑兄の信用を落としたくなかったから、そんな言葉がとっさに口をついて出た。

「そうか。じゃあ、もう直接言った方がいいな。岩崎さん、俺と付き合って欲しいんだ」

 ああ、聞きたくなかった。でも、どうしたって避けられなかった。

 相手を傷つけないように。そんな言葉を頭の中で探る。相手を傷つけないようにするのは、自分を傷つけないため。ずるいってわかってる。でも、不意打ちでくる方が、悪いんだもの。

「私の事を知らないのに付き合ってって、変じゃないですか」

「うん。だから友達から、ってことで。ライン交換して、今度の土曜日なんてどうかな。一緒にどこか遊びにいこう」

 彼はにっこり笑った。きっと、普通の女の子はこういうのに弱い。

「兄に、仁の方に『簡単にメアドやIDを教えるな』って言われているんです」

「なにそれ。ずいぶん保守的なんだね。そんなの、バレなきゃ大丈夫でしょ」

 少し馬鹿にしたような物言いに私はカチンと来た。

 仁兄と絶縁中と言えど、兄を馬鹿にされるのはやっぱり気持ちがよくない。

「兄の言う事は正しいと思います。ていうか、ケータイ持ってないですし。ごめんなさい。お付き合いできません」

 私は勢いよく頭を下げ、急いでその場から逃げるように去った。

 廊下で谷先生を追い越し、音楽室に駆け込むと、女子の好奇な目線が一斉に突き刺さった。京がとっておいてくれた席に教科書を置いたところで先生が入ってきた。

「サッカー部の、七瀬先輩でしょ。なんて言われたの?」

 京が横で耳打ちする。号令のままに礼をしながら「付き合って。友達から」と答えて

 席に着く。

「それで?」

 ——十七ページ開いて。今日はシューベルトの『魔王』を——

「ごめんなさい」

 彼女は目を丸くして「もったいない」と言った。

「いいの。言ったじゃない、私は侑兄が好きだって。ブラコンの意志は固いんだから」

 今日は、はっきりと言える。胸を張る私に京は苦笑した。

 ——じゃあ、まず聴いてみようか。ドイツ語の韻を楽しんでまずはただ、聴いてみて。

 原先生がラップトップを操作して、曲が流れる。

 おどろおどろしい前奏。肘をついて顎を乗せ、教科書の日本語訳を目に流す。

 『マイン ファーター! マイン ファーター!』

 繰り返されるその大げさな節を男子がまねると小さな笑いがあちこちで起る。

「センセー、このお父さん、子供の話聞いてないよねえ。なんかこれウチのお父さんみたいだ」

 どっとクラスが湧く。

 ——お父さんは、子供を安心させようとしているのよ。死にそうな息子に『そうだよ、ぼうや。魔王はそこまで来ているよ』なんて言えないでしょう。はい、もう一度流すね。今度は魔王、父、息子と聴き比べてみよう。はい、前奏の後に語り手。間奏……ここ、父親……。

 目を瞑り、月も出ていない闇夜の荒野をひたすら馬を走らせる親子の姿を想像する。そこに淡い光が射した。音調が変わり、流れる軽快なメロディ。

 ——ここ、魔王。

 私は驚く。ささやくのは魔王。甘い声色。誘惑は二百年以上も前から甘く、軽やかで魅力的なものなんだとその瞬間、悟った。

 その後、私が七瀬先輩を振ったという話はあっという間に広まった。

 まあ、あの場合目撃者が多数いたから、京に口止めしたところで効果はなかっただろう。私はしばらく好奇の視線に晒されることになった。

 あれから家で仁兄は私の前には姿を見せなかった。

 きっと部屋にいるんだろうけど、私が下にいるときにはご飯にも降りてこなかった。

 そういえば、侑兄のときもこんな感じだった。うーん、デジャヴ? なんて思いながらも、私の言葉を素直に受け入れた仁兄の清々しさに却って感心さえする。 

 でも今日は違った。

 私が学校から帰ると、ベージュと紺のボーダーTシャツを着た仁兄が、待っていたかのように居間から出てきて、キッチンへ行く私の前へ立った。ただでさえ身長差があるのに仁王立ちなんてされると威圧感が増す。

「どいてよ」

 横をすり抜けようとすると、壁に手をつかれて行く手を阻まれた。

 やだ、近い。怖い。かすかな怯えを悟られないように、睨みつける。

 兄の片方の眉が得意げにぴくっと動く。

「そんな怖い顔するなよ、比和。あのさあ、言っとくけど侑は見かけによらずひどいヤツだぜ? まあ、黙って聞けよ。この前七瀬に呼び止められて、D組の。いきなり『岩﨑君、今日は無理だけど明日の七時なら大丈夫だ』って言われて、なんのことかわからないで黙ってたら『あ、きみ、弟の方か。本当に似てるよね。用があったのはお兄さんの方だ。悪かった』で、ちょっと気になって次の日、暗くなった後に出かけた侑を付けてみたらどうだ。あいつ、七瀬のこと公園の木の陰でボコってたんだぜ。ご丁寧にメリケンサックまで用意してさあ。あいつがねえ。どこで手に入れたのか。ネットかな。なんで七瀬がそんな目に遭ったかわかる?」

 ここで彼は勝ち誇ったように口の端を上げた。私は悪い予感に身構える。

「七瀬、おまえに告白したんだって? まあ、あの七瀬が振られたんだから、高等部にもその話が広まらないわけないわな。結果はどうであれ、侑、よっぽど気にくわなかったんだろうな。シスコンもそこまでいくと笑える……それ、二日前のことなんだけど、あいつ全く変わった様子見せないだろ。怖くねーか? オレ、よっぽどツッコもうかと思ったけど、なんか微妙じゃん。あっちは見られてないと思っているんだしさ。でもさあ暴力で何かを解決するって有りか無しかで言ったらナシだろ。暴力反対。オレがお前にしたことも悪かったけど、暴力振るう侑もどうかと思うぜ? な、この間は悪かった。オレ、心入れ替えたから仲直りしようぜ。一緒に住んでるのに口聞かないとか、おかしくないか?」

 仁は一気に話し終えると、胸の前で腕を組んだ。

 最後は普段出さないような猫なで声で。これは誘惑だ。

 誘惑の声はいつも甘いと決まっている。あの『魔王』のように。                        

 仁兄の言うことは信用ならない。大体、侑兄とわざと同じ格好をして自分のなかの自分をやっと見極めるなんて言っている人だ。

 鏡を見て初めて自己認識が出来るなんて。

 この人は何か気に入らないところがあれば、鏡を割って、新しい鏡の前に立つんだ。

 自分の失態を隠そうともせず、侑兄のあら探し。そう言う人なんだ。

 私のことも。きっと暇つぶしかなにかだったんだろう。

 ありもしないことを言って私にどんなに迷惑がかかるか考えもしない。いや、トラブルの種をまいて、それに巻き込まれるのを見て楽しんでいたに違いない。

 大体、どうして仁兄は鬼の首を取ったように得意げに話しているのだろう。 

 自分が大切にしているものを横取りされようものなら戦うのは当たり前じゃないか。

 侑兄は自身のために、私のために戦った。私の中で今、そんな侑兄の株がさらに上がった。

 侑兄の行動は、私を好きだと言う証拠以外の何ものでもない。今すぐ侑兄の首にかじり付いて、「ありがとう」って言いたい。そして、侑兄の望むものは全てあげたい。それくらい恋しくなった。

 目の前の、同じ顔をしたもう一人の兄。気をつけなきゃいけない。この人は、私たちにとってキケン。

 私は、目の前の仁を睨む。

 仁も静かに、何も語らない目で私を見ている。

 でも怖くない。私には侑兄がいる。

 侑兄は私を乗せた馬を闇の中、急がせる。

 魔王の手の届かないところへ、全力で走らせる。

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