天敵認定 1

 九月一日始業式。教室に入り久々に会うクラスメイトに挨拶を流しながら自分の席へ行くと、「おはよー、ひ……」京が口を開いたまま、「ひ」で固まった。何事かと思いつつ彼女に視線をとめたまま、カバンから教科書を出しているところに京は足早に近づいて両肩を揺すった。

「比和、中に入ってる人、比和よね?!」

 え? 何? 私変? おととい、ちゃんとサロンに行って普段通りのウルフカットで、さらにトリートメントしてもらってつやつやヘア、女子度かなり高めなんですけど? それとも何かのコント? 前振り? 私もボケればいいとこ? よくわからないけど、目の前の京の顔は真剣そのもの。面白いことが浮かばないからとりあえず普通に返す。

「うん。そうだよー。何? 何か変?」

「変、っていうか……雰囲気がすごく違う。あ、ねえ、夏休みなんかあったでしょ。夏休み。ひと夏の恋とかそういうの。彼氏? 彼氏出来た? 大学生とか?」

「へー? 出来ないよお。侑兄と将棋ばっかりしてたお」

 あと、セックス。なんて口が裂けても言えない。でも、なんかウキウキする。にやけて来そうな頬をコントロール。

「しょうぎぃ? 渋いね、兄妹そろって」

「うん、でも楽しいよ。今度教えてあげる」

 途中であれがしたくなったらどうしよう。

 なんて考えながら、入って来た先生を指すと京は慌てて席に戻る。

 五十分間の授業はじっくり考え事をするのに最適だ。

 今日の英語は出席番号順からいっても当たらない。安心して自分の世界に没頭出来る。あーあ、神崎川、漫画読んでるけど、バレるよー。たまにちゃんと黒板見ないと。私は机の下でマンガを広げる隣人を見て、可愛いなあ、と思う。神崎川は体も大きく、剣道部で、ビジュアルからしても可愛い部類じゃない。でも、侑兄と比べたらクラスの男子なんて男に見えない。

 いまならわかる。あの時の侑兄の言った「好き」の意味が。

 全部欲しくなっちゃう。手に入れてもまだ足りなくて。

 足りないどころかもっと欲しくなって。「好き」って言う言葉があまりにも曖昧で。そんな言葉を使うだけでこの気持ちは表せなくて。それだけじゃもどかしくて。ああ、喉が渇く。言葉にできないって、苦しい。

 近親相姦。インセスト。

 そういうことついては、図書館のインターネットブースで調べた。何かを真剣に調べるって、これが始めてかもしれない。

 結論。近親相姦は悪いことじゃない。

 少なくとも日本では刑法で罰せられることは無い。未だにタブーのように扱われるのは、みんな正しい情報を集めようとしないから。知ろうとしないから。知ろうとしないのは一番たちの悪い怠惰。知ろうとしないのは、怖いこと。ねえ、知らないってことがどれだけ人を傷つけるかみんな、わかってる?

「こら! 神崎川。真面目に授業受けないなら出て行け」

 先生の喝が飛ぶ。隣人は慌てて机にマンガを隠し、大きな体を小さくして俯いた。

 ほらね、見つかった。私と侑兄ならそんなヘマはしない。

 まあ、見つかったところで誰が私たちを責められる? だって、好き合ってるだけだもん。でも、侑兄は秘密のほうが楽しいよ、と言う。私も、楽しいほうがいいと思う。

 前よりも校内で侑兄の姿を目にすることが多くなった。彼が中等部に来るわけではない。

 そういう露骨なことをするタイプじゃない。ただ、高等部、中等部が一緒にいても不自然ではない場所、移動教室の渡り廊下とか、購買部、屋上、図書室、視聴覚室……その周辺。時間割を渡しているから、たぶん、待ち伏せしてくれているんだと思う。

 廊下の窓に寄りかかりながら侑兄が微笑んで私を捉える。

 私も目だけで答えるし、手を振ることもある。距離なんて存在しない。

 そのとき、私の制服の下ではすでに彼の手が肌を這い回り、首筋には彼の犬歯が軽く食い込んでいる。

 知らなかった。微かな前触れが、こんな愛撫をするなんて。

 隣にいる京にも、侑兄の友達にも見えてないのだろうか。私がすでにすっかり裸にされているのが。

 放課後、京と校門脇にあるパン屋でお菓子を買って教室でだらだら食べる。

 たまにそうやって超会員限定の女子会をする。

 今日はパンダポッキーを手にベランダから下界の運動部を眺める。まだ外は熱いけど、風はからりとして気持ちがいい。ポッキーをくわえたまま、風にそよぐ髪をかき上げる。

「ほら、京の黒崎くんがいるよー。あ、とられた」

 京の片思いの相手、C組の黒崎くんが素早く体を起こし、取られたサッカーボールを追って再び走り出した。

「告白しちゃいなよー。市川が最近告白したよね。ダメだったみたいだけど。同じクラスだから振られるとキツいよねえ。振ったほうもかな。黒崎くんかっこいいから早くしないと取られちゃうよ」

「かっこいいって……岩崎先輩ほどじゃないよ……まあ、先輩たちは観賞用。もし隣にいたらもう、心拍数のメーター振り切っちゃう」

「見かけは少しばかりいいかもしれないけど、侑兄の寝癖とかひどいよ。仁兄なんて週末ヒゲ剃らないし」

「ええ、ヒゲ!?」京は大きな目をさらに丸くする。

「そりゃあ、一応男だから。少女マンガのヒーローにはさすがに体毛描いてないけどね、クラスの男子と同じだよ」

「はーっ。そうかあ。なんか生々しいね。そういうの。ああああ、でもたぶん黒崎くん、私のことなんか知らないよお」

 京は一時、兄たちの体毛事情に感心し、そしてまた話題は黒崎くんにもどる。

「へっ!? なに言ってるの。この間京、やっぱりC組の新井にコクられたばっかりじゃない! 男子って意外とそう言うのに敏感だから黒崎くんの耳にも入ってるって。A組の鹿野京って結構有名だしね」

「そ、そんなことないよ! 美人な比和に言われても……」

 長い黒髪を揺らしてかぶりを振る。シャンプーの香りがふわりと届く。なんで黒崎くんはこんなに美味しそうな子に気がつかないだろう。京も黒崎くんとセックスしたら、この小さな唇を歪めて声を出すのかな。そのときグロスはまだ載っている? それとも黒崎くんに嘗めとられている? ああ、彼女たちが付き合ったらすぐに黒崎くんに耳打ちしてあげたい。「焦らないでね」って。「探さなくてもちゃんと見つかるから。ゆっくり、おしゃべりでもしながらすれば、自然に女の子が脚を開くのよ」って。

 私がそうだから。 

『比和、美味しい。すごく美味しい』

 侑兄はセックスの最中に何度も言う。よく噛み付くし。体中舐めるし。

 私の中から溢れたものをいっぱい飲むし。それでも、唇を濡らしたまま、絶え間なく合間合間に言葉は紡がれる。それはすごく、安心するの。心も、体もゆっくり開くの。

「比和の好きな人って、だれ?」

 京の声に我に返ると、彼女が黒い瞳を輝かせている。

「えー、いないよー」

「うそー。ほんとかなあ」

 京はベランダの腕をぴんと伸ばしてベランダの手すりを引っ張るように空を仰ぐ。

「比和、まだ残ってたの」

 この声に私は全身で反応する。振り向くと、教室の入り口にカバンを脇に抱えた侑兄が立っている。この人の前では私はしっぽをちぎれんばかりに振る子犬になる。

「岩崎先輩。比和、いいな、お迎えだー」

 京も思いがけない来訪者に、間延びした声を出す。

「京ちゃん、元気?」

 兄は教室に入って来ると、親しげに挨拶を返す。

「比和、一緒に帰らない? 夕食の買い物もしないと」

「うん。じゃあね、京」

「私も帰ろう。また明日ね」

 カバンを掴んで兄と一緒に教室を出る。

 並んで歩き出した侑兄は階段を下りずに渡り廊下へ向かう。

「侑兄、珍しい。どうしてまだ残ってるってわかったの?」

「テレパシーかな」

 侑兄が言うと、彼なら本当にそれを使えるんじゃないかって思う。比和子限定発動の。

「京ちゃんと、なに話してたの?」

「んーと、好きな人のこととか。京はね、黒崎くんが好きなんだって。サッカー部の」

 ふうん、兄は軽く鼻を鳴らす。

「比和は好きな人いるの?」

 え? なに言ってるの侑兄。

私は彼を見上げるが、兄は真っ直ぐ前を向いたまま。急に不安になる。

「私は、侑兄が好きだよ」

 なんだろう、哀しくなる。鼻の奥がつんと痛い。

「そう言ったの?」

 侑兄の歩幅に合わすのに、急ぎ足になる。

「言えるわけ無い……」

「だよね」

 見上げると、目が合う。彼の唇が弧を描く。それだけで今までの不安は消える。

 珍しくキッチンで隣にいるのは仁。部活で普段ほとんど家にいないし、家にいる時はほとんど自室にこもっているから仁兄と顔を合わせるのは食事時くらいだ。侑兄は土曜日だけど文化祭の準備で一日学校。

「陸上部が文化祭になんの関係があるっつーんだよ」

「サッカー部は執事カフェやるって言ってたよ」

 仁兄がガス台の前に立ち、ボウルの中の卵をかき混ぜる。

 菜箸がボウルを叩く音が小気味いい。その横で、私は四角いフライパンに油を馴染ませた。お昼ご飯には、昨日の残りの天ぷらをオーブンで温めて、ご飯はもうすぐ炊きあがる。

 卵焼きは私のリクエスト。なぜか仁兄の卵焼きは抜群に美味しい。黄色い地に茶色のマーブル模様が綺麗な焼き上がりも、上二人の兄も私も真似出来ない。

 はい、どいてどいて。大きな体でガス台の前から邪険に押し退けられる。

「あっ、はじっこ! はじっこちょうだい」

 出来上がった湯気のたつ卵焼きにに包丁を入れ、仁兄が一切れ口に運びかけたところにストップをかける。つまんで差し出されたそれにぱくんと食いつく。

「てっ!」

 勢い余り、彼の指を噛んでしまった。

 おもわず噛み付いたまま上目で彼を見ると、痛かったのか困惑に歪んだ顔は赤く染まっていた。

「ご、ごめん……」

 慌てて彼の指を口から解放して、もごもごと卵焼きを食べながら謝った。

「お、おまえどんだけ飢えてるんだよ。もっと落ち着いて行動しろよな。ああ、痛え」

 仁は私から顔を背けて噛まれた指をひと舐めすると再び卵焼きを切る作業に戻る。私を見もしないで彼は言う。

「ご飯、よそって。天ぷらも、もう出して」

「ん」

 素っ気なく言い捨てる仁兄。今ので機嫌悪くなったのかな。意外とむら気があるところは侑兄に似ている。侑兄はいつも穏やかに見えてたまに静かに怒っていたりするし、妹としては気を使うことも少なくない。まぁ、侑兄に怒られることは無いに等しいけど。

 人参の天ぷらをお湯で割った天つゆで食べる。甘くて美味しい。

 昨日の夜はこの天ぷらのためにかなりの労力を使い果たした。

 食べ盛りの男二人、両親と私の分で何本の人参を千切りにしたことか。さつまいもにれんこん、かぼちゃ。

 侑兄はひたすらエビの殻を剥き、下ごしらえをした。夕方の早い時分から、手元が暗くなり始めるまで二人で黙々と。

 それでも作業する音だけで会話として成り立っていた。そして仕事から帰って来た母が時間をかけて揚げた。夕食後に侑兄の隣でテレビを観ていると、彼は私の髪に鼻を寄せて「油臭い」と言った。私は頬に添えられた兄の手を鼻先に持って来「エビ臭い」と返した。

 薄く笑った兄は「髪、洗ってあげようか」なんて言い出すから、どうしてか恥ずかしくなって何も言えず、ただ慌てて首を横に振る。侑兄は、いつも余裕でずるい。

 侑兄のお弁当は私が作った天むす。いまごろ蓋を開けているかな。早く顔が見たい。

 少しだけ開けたシンク上の窓から垣根の緑が弱々しく風に揺れる。

 緑が少し褪せて見えるのは、光が秋のそれになってきたからか。もうすぐ、冬服を用意しないと。

 そのとき、仁兄がひとつしか無いエビ天に箸を伸ばすのを横目でとらえた。。

「あっ、ずるっ……」

 エビ天は宙で止まり、仁は私を見、眉を寄せた。

「変なこと考えてにやにやしてるからだ」

 それでも、ほらよ、と私のお皿にそれを載せた。わーい、と声を上げる私に仁は釘を刺す。

「全部じゃねーぞ。半分喰ったら残り寄越せ」

 こんな小さいのに半分?! 負けずに言い返すも、仁兄の機嫌が直ったらしいのが密かに嬉しい。

「仁兄の卵焼き、おいしい。やっぱり一番好き」

「いや、そんなんで誤摩化されねーから」

 兄は急に忙しくご飯をかき込むと、お代わりに立った。

 前から聞きたかったことが、天ぷらの油で滑ったのか、するりと口をついて出る。

「ねえ、侑兄と同じ顔ってどんな感じ?」

「気持ち悪いよ。同じ顔、同じ体、同じ声。うん、気持ち悪い」

 仁は間髪を容れずに言う。

「じゃあ、なんで仁兄は侑兄と同じ髪型なの? 走るならもっと短くしたほうがいいじゃない? 侑兄と同じように見られるの好きじゃないくせに、矛盾してない?」

「ばーか、オレの俊速の前に誰も何も言えねえっつの。まーー、同じ顔してるけど、あいつとは全然違うってことはオレ自身気がついているから。あいつとは全く違う。だから余計にあいつに似せようとするんだ。あいつにとってはこの上なく迷惑だろうけど。オレのほうは『似ている』と言われれば言われる程、似ていない自分を実感出来るんだ。まあ、仲悪そうに見えても意外とうまく折り合い付けてたりするわけだ。男同士っつーのはそんなもんだ。って、オレは勝手に思っている。あちらさんのことは知らんけど」

 半分齧ったエビ天を律儀に仁兄の皿に移そうとすると、ばか、全部喰えよ、と言われた。

 そういえば、仁兄は食事に普段より時間をかけているみたい。いつもなら会話する暇もなくもくもくと食べ、さっさと立ちあがるのに。やっぱり部活が無いとのんびりするものなのかな。

「なんでそんなこと聞くんだよ」

「うちのクラスの藤間たちがさー、侑と仁のファンなんだって」

「紹介しろよ」

「え、彼女は?」

「別れた」

「はぁ? なんで?」

 思わず口に運びかけた天ぷらを皿に戻す。

「コンドーム用意しておけって言ったら微妙な顔された。そっから疎遠」

「うわ、サイテー。そういうのは男の人が用意するんでしょ。頼む側がオレサマ態度ってどうかと思うよ。あ、そうそう、その藤間たちね、侑兄でも仁兄でもどっちでもいいとか言ってる。そういうの感じ悪い」

「オレは別にいいけど? 要は顔だけなんだからさ。そういうフラットな付き合いでいいってことだろ。こっちも楽だ」

「えー、私はそういうのイヤだな。だって、侑兄も仁兄も全然違うもん」

「へえ? じゃあおまえはどっちがいいんだよ」

 え……。

「あぁ、愚問だな」

 ぐもん。仁兄はたまに難しい言葉を使う。

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