秘密の花園 1

 私と侑兄の関係は端から見れば、以前のように面倒見の良過ぎる兄と甘え上手な妹に戻った。いや、私の中では以前以上に。

 でも、侑兄は私に対して一線を画していた。

 腫れ物に触らないように、というよりは以前にも増して「模範的な兄」になった。一歩引いて私を見守る。そんなポジション。

 そうやって侑兄が慎重になればなるほど、私は大胆になった。彼が私の「シカト攻撃」にさんざん懲りたと思っていた。だから調子に乗っていたとも言えるかもしれない。

 学校へ行くとき、必ず私から手を繋いで歩いた。

 満員電車の中では、つり革につかまる兄の体にぴたりと体を押し付けていた。家では、まださすがに部屋で二人きりになるのは怖かったけれど、彼が居間でテレビを見ている時にはピタリと寄り添って一緒に見た。時にはその膝に頭を乗せたりもした。 

 期末試験は不本意ながらほとんどの科目が平均点辺りをうろつくに終わった。試験が終われば夏休みまで十日あまり。

 半日授業になる。午後は補講。さすがにそれは免れた。

「文化祭に展示する絵を描き始めようと思って。で、比和にモデルを頼みたいんだけれど」

 朝、駅に向かう途中、侑兄は言った。

「ヌードとかっていうオチ?」

「さすがにそれは出せないでしょ。ていうか、絶対に人に見せたくないし」

 自分が振ったはずなのに、侑兄の語気の強さに恥ずかしくなる。手を握り返す力が強くなったように感じた。

「い、いいよ。その代わり宿題手伝ってね」

「それ、いつものことだろ」

 駅に近づくと、私は自分から繋いでいた手を離す。スーツに混じって同じ学校の夏服を着た生徒の姿があるからだ。

 私はともかく、侑、仁兄は双子であるという以外に何かと人の目を引く。だから、わざわざ「岩崎侑はシスコン」というネタを提供することも無い。そこをわかっているのかいないのか、私が手を離すと侑兄は「どうしたの?」なんて顔を覗き込む。

「中二にもなってお兄ちゃんと手を繋ぐって、変でしょう。変な噂されるの嫌だもん」

「変な噂?」

「侑兄がシスコンとか。言われたい?」

「でも、実際そうだし」

 私が呆れて何も言えないのを見ながら、くっくっと彼は小さく肩を揺らした。

「もう、口利かない」

 ナイロンの学生カバンからスイカのケースを出してさっさと改札を通った。兄は慌てて追いかけてくる。

「ごめん、比和の言う通りだ。わざわざ他の奴らに公言すること無いよな」

 そうそう……わかれば、と言いかけた私の隣で、彼は屈むようにして耳に口を寄せて言った。——僕が比和の最初の男だって。

「懲りてなーい!」

 顔を真っ赤にしながら、今度は私が逃げる彼を追って駅の階段を駆け上る番だった。

 逃げ回っていたときはあれだけ恐怖の対象だった兄が、和解すると、どうして怖いなどと思っていたのか不思議に思えた。

 一度扉が開いて、向こうにあるものがもう未知の世界ではないと知ると、次の世界に続く道を急ぎたくてたまらなくなった。

 でも、無理矢理開かれた世界の、どの道を行くべきなのか知る由もなく、私には同伴者が必要だった。それは、侑兄その人他ならない。それは、彼の手で開けられたのだから、彼の当然の役目だと思った。

 私くらいの年頃では、『未知の世界を覗く禁忌』という足かせに動きを封じられ、時が来るのをじっと待たなくてはいけないことよりも、好奇心が満たされない不満に押しつぶされるほうが余程の不条理だった。

 次に兄はなにをしてくれるのだろう、あの時兄の下で目覚めた感覚、でもまだ手に届かない。

 あと少し、何かが足りない。それを兄は与えてくれるに違いない。私はどこかで期待をしていた。うずうずしていた。

 モデルのオファーを受けた次の日、私は午前の授業が終わると自販機でミルクティーを買い、教室でお弁当を広げた。

 侑兄が早朝ジョギングの後で作ったサンドイッチだった。教壇の前ではテニス部女子が他のクラスから来た部員も含め、机を寄せて練習前の昼食をとっていた。

「あれ? 比和ちゃんも補講? 一緒に食べていい?」

 卵のサンドイッチを食べていたら、ゆかりんが「私、英語がダメだった」と言いながら神崎川の席に座った。私は口の中のものを飲み込んで答えた。

「ううん、兄にモデルを頼まれてて」

「お兄さんってどっちの?」

 コンビニのおにぎりの包装を開きながら彼女は興味深そうに私を見た。

「あ、えっと侑のほう。美術部の」

 ああ、そっちかあ。ゆかりんはくるりと海苔をおにぎりに巻いた。私は今度はポテトサラダのサンドイッチを食べていた。オイル漬けのドライトマトとオリーブが刻んであるツナ入りだ。侑兄、凝り性め。しばらく私たちは食事に集中した。

「でも、本当にそっくりだよね。お兄さんたち。間違えたりしない?」

「間違えないよ。妹から見ると全然違うもん」

「二人とも、モテるよね。藤間たちなんかA組の時間割把握して、体育のときは必ずベランダから先輩ウォッチしてるよ。移動教室の時とかも見に行ってるし」

「A組って、仁だね。でも仁、彼女いるよ」

 藤間たちのグループはあまり親しくしていない。

 そんなことをしてるんだ、と思いつつミルクティーを飲む。

 ゆかりんはコンビニの袋からチロルチョコを出して私にひとつくれた。きなこもち。

「なんかね、侑先輩でも仁先輩、どっちでもいいみたいなんだけど」

 困ったようにゆかりんは笑った。

 『どっちでもいい』

 彼女の言葉に少なからずショックを受けていた。

「比和ちゃんは、どっちのお兄さんのほうが好きとか、あるの?」

「え?」

 心臓が跳ね上がる。

「うん。どっちがテレビのチャンネル権譲ってくれるとか、そういうの、ない?」

 あ……、そういうことか……。

「侑兄はいつもやさしいけど、仁兄はオレサマで私を子供扱いするんだ。でも、どっちも好きだよ」

 どっちも好き。そう言った後、ざらりと口の中で違和感を覚えた。それを消すようにチロルチョコを口に入れた。

 美術室のドアは開いていた。

 美術部員で信頼のおける彼にとって鍵を借りることなんてなんでもない。私が入ると、本を読んでいた兄は顔を上げた。いつもの笑み。

「来てくれたんだ。ありがとう」

 兄の後ろでカーテンが風で大きく膨らんだ。

「えー、だって約束でしょ。お弁当も作ってもらったし。おいしかった」

「それはよかった」

 兄はカーテンを完全に開けて光を入れると、本を手にしたまま後ろのロッカーへ行き、そのひとつからスケッチブックを抜きだした。ロッカーの上には石膏で出来た、長方形が円錐に突き刺さったモチーフや円柱、四角錐体に並んで全長30センチの木製デッサン人形がいくつか隊列を組み、その指揮をヴィーナスの胸像がとっていた。

「ここに座って、片肘で頬杖ついて窓の外見てて。いや、僕のほうじゃなくて右肘で」

 私は、兄が横に立つ四人がけ机から背もたれの無い四角い木の椅子を引き、言われた通りのポーズをとった。窓枠に四角く切り取られた空を見る。

「これでいいの?」

「それでいい」

 侑兄はひとつ離れた机にスケッチブックを置いて手を動かし始めた。

 S高ォオーーファイッ、ファイッ、ファイッ!

 運動部の声が重なり、三階まで届く。二、三度横目で兄を盗み見ると、彼はしばらく私を見、そしてスケッチブックに視線を落とす、を繰り返していた。

 鉛筆が硬質な紙を擦る音は止まない。

 ご飯の後、穏やかな午後、と条件が揃えば当然眠くなる。

 モデルって結構大変。私はそう思いながらさっきから欠伸をかみ殺していた。

 そういえば、どっちが好きって……考えたこと無かったなあ。ゆかりんへの答えは嘘じゃなかった。

 でも、「どっちも好き」と言ったあとの違和感はなんだっただろう。

 仁兄は好きだけど、アレが侑兄じゃなくて仁兄だったら……と考え始めたけど、なんだか怖くなって考えるのをやめた。

「見せて」

 壁の時計を見たら、四十分経っていた。空ばかり見てもUFOが飛んでくることも無く、飛行機雲ひとつ横切らない。他に考えることなど底をつき、痺れを切らせて私は立ちあがった。

「まだ終わってないよ」

「途中でもいい」

 私は兄の膝を跨いで座る。彼の胸に凭れ、手からスケッチブックを奪った。

 兄は諦めて鉛筆を机に置いた。行き場の無くなった彼の両腕が体の横にだらりと下がっている。

 スケッチブックの上の私は、ラフではあるけれど本当の私よりも私みたいに見えた。今にも欠伸をしそうなくらい、退屈な横顔。

「これ、私だね」

「そうだよ」

 耳の横で囁く兄の声。

「このバイト代、出るの?」

「なにが欲しいの? あんまり高いものは買えないけど」

 胸から響く低音のビブラート。そういえばいつの間に声変わりしたんだろう。

「キス」

 兄が息をのむ。それから長いため息が耳をくすぐる。

「僕をあんまり困らせないで」

 彼は私の後ろで今どんな顔をしているんだろう。途方に暮れている表情が目に浮かぶ。

「困るの? どうして?」

 ——今さら——小さな怒りが胸の中で燻った。私の処女を奪ったくせに。処女膜が存在していた時にはそれには大して敬意を払ったことがなかったけれど、侑兄の及び腰な態度は私を何故か苛立たせた。

「もう、比和を傷つけたくないから」

「もう傷つけたくせに」

「うん。だからもう、これ以上は」

 彼が私の扉をこじ開けたくせに、今それを閉じて鍵をかけてその鍵を持って逃げようとしている。

「侑兄、ヘタレだね」

「そうだよ……もう、頼むから勘弁してくれ」

 彼は私を膝の上から下ろそうと腰に手をやった。私はスケッチブックを机の上に放り出し、急いで体をひねって兄の首に両腕を回す。

「比和……」

 顔を少し傾けて私を見下ろす目には困惑を隠しきれない。

 そんな兄を見て私はなんだか楽しくてたまらない。妙に気分が高揚してくる。

「キスしないと下りないもん」

 私はせり上がるようにしてさらに兄にしがみつく。彼のほうは逆に体を遠ざけるように私の腰に置いた手に力を入れる。

「比和、それムリだから……」

「なんでー」

「それだけで終わらせる自信無いから……」

 彼は顔を背けて俯き、手からは力が抜けた。

 軽く毛先の掛かった耳たぶがほんのり赤い。私の心臓は早鐘を打つ。

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