勝負の行方 2

 黒板の隅に白のチョークで日付と、「日直」という文字、その下に「井守」と「岩崎」が並んでいる。先生の話を左から右に流しながら、その「岩崎」の字面をぼーっと眺めていた。ずっと見ていると他人の名前に見えなくもない。ノートにシャーペンを走らせ、頭の中を埋めているその名を連ねる。

 そうでもしないとパンクしそうだった。

 岩崎侑 岩崎侑 岩崎侑 岩崎侑 岩崎侑 岩崎侑 岩崎侑 岩崎……。

「関ヶ原の戦いの後、徳川の家臣になって遠い地域に配置された大名は……森田」

「外様大名です」

「……、……、おい、岩崎! おまえだぞ」

 隣の神崎川が私の肘を突いた。

「え、あ……すみません、わかりません」

「なんだ、岩崎がパスか。珍しいな」

 週末、復習したところは侑兄のせいで見事に全部抜けた。

 後には岩崎侑の名前が渦巻いていた。

 体育の時間、女子が砂場で走り幅跳びをしている横で、男子が100メートルのタイムを計っていた。

 私は桜の木陰で見学。痛いから、運動なんて出来るわけない。ついこの間来た生理を理由に、一人制服のまま思いに耽る。

 生理って面倒くさいけど、嘘にしろ、こんな使い方があるのは便利だ。男子を観察する。彼らの体の線はまだ子供と大人の狭間でバランスが悪く、紺色の短パンから覗く脚はなんだか無邪気だ。硬質な筋肉がふくらはぎに見えつつあっても、毛が生えていてもなんだか全体のバランスが悪い。

 思えば侑兄の脛の毛が私の脚を擦っていた。しがみついた背中は広かった。あの行為を思い出させるように時々つきん、と奥が痛む。

 口の中に、あのざらついた舌の感触が蘇る。

 頬に血が上る。喉が乾く。

 あのあと、泣きながらいつの間にか眠ってしまったらしい。

 新聞配達のバイクの音が遠ざかるのを聞きながらだるい体を起こすと、お尻の下に、薄く血に汚れたユニオンジャックのTシャツが皺になっていた。いつ敷かれたのかも覚えていなかった。それを丸めてゴミ箱に捨てた。それから家族を起こさないように静かにシャワーを浴びに行った。

 鏡に映る顔は、少し目が腫れていてブスだった。

 処女をもらう、って言った。「処女」ってあげるものなのか。でも、無理矢理奪ったんだから侑兄は泥棒か。処女泥棒。泥棒なら逮捕されなきゃいけない。

 不純異性交遊? 

 なんだっけ。未成年同士はいいんだっけ? 

 よくわからない。いや、世間の問題じゃないわ。私の問題だった。

 桜の小枝で砂の上に線を何本も引く。蟻のお尻を追いかけ回す。

 侑兄は私のことが好きって言ってた。好きってどういうこと? それなら私は今までに何回侑兄に好きって言っただろう。

 おやつを分けてくれた時、宿題を見てもらった時、お気に入りのキャラクターのついた鉛筆をもらった時……。

 それ以外の好きって、「恋人」の好き? 

 その『好き』はどう質がちがうんだろう。

 侑兄のいう『好き』を受け入れたら?

 昨日までは妹で、今日からは彼女?

 ああ、もう全然わからない。数学の公式を解くよりも難しい。

 事実なのは、昨日まで私は処女で、今日は処女でない私。

。そして、誰がやったかはその感触がなまなましく肌に残っている。蘇る。まだ少し目眩を覚えるくらいに。

***

「ただいまー。おう、なんだか人んちみたいだなー」

 母がマリネしておいた鶏肉に、刻んだパプリカやズッキーニ、ネギ、人参をばらばらと散らしてオーブンに入れると、玄関から懐かしい声が聞こえた。

「あー、外様大名だーって、あああ! ピアスしてる! それも片っぽだけ! ホモだホモ!」

「なんだ、その歓迎の仕方は。外様っておまえ……それに今どきピアスくらいで。おーい、教育係ィー、ちゃんと教育してくださいよー……って、どこだ、双子は」

「部屋だよ。いいね、大学生ってもう夏休みなの? でも帰って来ても隆兄の部屋はもうないよ」

 家を改築したのは隆兄が大学生になって家を出たのに合わせてだった。

「じゃあ、隆宏兄さんは比和の部屋で寝ようかな」

 瞬時に侑兄の体の重みが蘇り、言葉に詰まる。隆兄はわしわしと私の髪をかき混ぜ、大きなスポーツバッグを手に居間に入って行く。

「おまえ、ツッコめよ。俺がただの変態みたいじゃねーか。そういうときは『百年後にね』くらい言えるオンナになれ」

「隆兄、なにくっだらないこと比和に仕込んでるんだよ。久々に帰って来て教えることってそれくらいしかねーのか?」

 下りて来た仁兄は居間の入り口に寄りかかりながら、ソファに反り返る隆兄に言った。

「おまえ、俺にそんなこと言っていいのかな? そしたら今後もうアレは……」

「うわっ、ゴメン、すみません、隆兄さま!」

 珍しく狼狽える仁兄と、まだなんだかんだとからかっている隆兄の顔を交互に見ながら、思わずほっとしてしまう。家族がまた戻って来たことに。

 あれから侑兄とは絶対に二人きりにならないように気をつけていた。

 だからかもしれない。隆兄が帰って来たことで味方を一人得た気がした。

 試験直前でもあったから、学校が終わっても夕食ギリギリまで図書館で過ごし、侑兄がキッチンにいると慌てて自分の部屋に行った。

 居間に入って来るとテレビを消してやっぱり自分の部屋へ逃げた。ご飯を食べるときは、嫌がられても仁兄に声をかけた。

 学校に行くときはいつもより少し早く家を出た。とにかく、侑兄の気配を身近に感じるのが嫌だった。気持ち悪くなりさえした。

 隆兄が帰って来てからは、彼の後に始終くっついていた。本屋に行くにも、コンビニに行くにも。

 今日は夕食後、駅近くのアーケード商店街のドラッグストアに付いてきている。

 夜空に街の灯りが白く混じる頃、道すがらにかろうじてオリオン座を見つけて隆兄に教える。

「ねえ、ウチにどれくらいいるの?」

「二週間かな。羽根もそれだけ伸ばせば十分。あと課題で大学に行かなきゃなんねーし、バイト代わりに先輩の手伝いもしなきゃなんねーし」

「大変? 薬学部」

「それなりに。やろうと思えばいくらでもやることがある。やらなくてもいいけど、差は出る」

「彼女可哀想。遠距離って続かないって言うよ」

 隆兄は高校から付き合っている彼女を地元に残して地方の大学に行った。この里帰りも、普段会えない分の穴埋めをするためだ。

「まあ、でもフォローはしてるぞ。俺、マメだし。遠距離っていっても二県離れてるだけで、アシがあるからあんまり障害感じねーな」

 商店街はまだ明るく賑わっている。

 携帯ショップやジーンズショップからはアップテンポな音楽が流れ、パチンコ屋の自動ドアが開けば雑音が増量し、閉じればそれはまた少し減る。とっくに家に引き上げた主婦層に代わり、会社帰りの人たちがスーパーの袋を下げているし、制服姿の子たちが固まって歩いているのを見かける。

 「何? それ欲しいの? 買ってやろうか」

 有線のユーロビートが流れる店内で、私が何気なく新色のグロスを手にしているのを

見つけて、隆兄が言った。ううん、いい。とそれを棚に戻す。

 ふと下を見ると兄がぶら下げたかごにはカミソリとシェービングフォーム、コンドームの箱が入っていた。それも極薄のやつ、二箱。

「ええー、妹と一緒にいてそんなの買うかなあ」

「おまえが勝手に付いて来たんだろうが」

「まあ、でも避妊は大事だよね」

「子供が、わかったようなこと言うな」

 ——処女じゃなくても子供ですかね。出かかった言葉を飲み込み、代わりに口早に問う。

「ねえ、隆兄はやっぱり処女がいい? 今の彼女って処女だった?」

「うわ、なんだよ、いきなり処女処女って。恥ずかしいヤツだな。おまえ彼氏でも出来たか。ていうかあの双子の審査を通る男ってどんなヤツだよ」

「そんなんじゃないよー。ねえ、誤摩化さないで答えてよ。処女ってそんなにいいの?」

「そらー、おまえ、中古と新品の違いじゃねえの?」

「げー、それサイテー。今、隆兄、全世界の非処女を敵に回したー。もう真面目に答えて」

「いや、でも好きな女が処女ってやっぱ感動かな。自分以外男を知らない証みたいなもんだからなあ。でも守り続けりゃいいってもんでもないんじゃねーの? わかんね。人それぞれだな。俺の彼女はたまたまそうだったけど、じゃあ、処女じゃないからそれで価値が下がるってあり得ねーし」

 あと何買うんだっけ……棚と棚の間を、歯磨き粉や健康食品を手に取っては戻しながら歩く。

「ま、所詮男なんて単純なんだからさ、若い頃は特に独占欲とか強いからどうしてもそこにこだわったりするんじゃん? 若い雄ほど血気盛んだしねえ。ナワバリ意識とか。いろいろあんのよ」

 そっかぁ。なんとなくだけど、何かを掴んだ気はした。レジに向かう隆兄の後ろから、ハッピーターンをかごに入れた。

「ホントによかったのか? グロス。たまには俺にも甘えていいんだぞ、って、たまにしか帰ってこねーけど」

 隆兄は商店街を出るとポケットからタバコを出して火をつけた。

「いいの。どうせ仁兄に取りあげられるから。ガッコの先生より厳しいんだもん」

「あー、侑はおまえにべったりだけど、仁は密かに比和の父親役やってるからなー」

「ちゃんとお父さんいるのに、二人もいらないよ」

 隆兄はふー、と夜空に向かって煙を吐いた。

「あのさ、俺が口出すのはアレかと思うけど……侑のこと、許してやりなよ」

「えっ!?」

 あまりの驚きに声が裏返る。あのこと、知ってる? 

「またくだらない喧嘩したんだろ。普段から侑はおまえの側を離れないのに、家で全く顔合わせ無いってどう見てもおかしいじゃねーか。おまえが悪くても侑はすぐに許す。だからこの場合おまえがまだあいつに腹立ててるんだろ。あんまり長く口利いてやらないと、あいつ、可哀想だぞ」

 可哀想? 可哀想なのは私じゃなくて、侑兄……? 隆兄は何も知らないからそんなこと言うんだ。

 それでも私たち兄妹を心配してくれてるのだと思うと、言葉の棘も折れる。

「ねえ、なんでさっき仁兄あわてて謝ってたの?」

「ああ? あー、まあ、男のロマンだ。おまえは知らなくていい」

 ふうん。どうせエッチなことでしょうー。私は七つ上の兄の腕に体当たりするように自分のを絡めた。

 私が侑兄を避け始めてから、私が夕食を食べているときは、侑兄は自分の部屋にいる。そんなことがもう二週間近く続いていた。

 それについて、仁兄は何も言ってこない。

「ごちそうさま」

 仁が席を立つ。私はいつものように取り残される。ご飯の最後の一口をきゅうりの漬け物で食べていると、テレビの音が聞こえてきた。

 次々流れ続ける懐かしのヒットソングを一緒に口ずさみながら洗い物をしていると、急に音が消えた。そして後ろの冷蔵庫を開ける気配を感じ、目の端で仁の背中を捉える。

「仁兄、ダッツの抹茶は私のだからね」

 今回は食べられないよう、釘を刺す。

「わかってる」

 その声に、思わず皿を落としそうになった。いくら似てると言っても聞き間違えるわけは無い。

 それは侑兄だった。彼が椅子を引いて座るのを、硬直した背中が聞いた。

「そんなに警戒しないでくれよ」

 兄はぼそっと言った。食器を全てすすぎ終わると、ふきんで手を拭いた。深呼吸をし、体ごと侑兄に向き直る。

 久々に、彼の顔を見た。何も言わずにお互い見つめ合う。テーブルを挟んでそこだけ緊張が濃い。先に目を伏せたのは侑だった。

「ごめん、比和。そんなに嫌わないでくれ。もう比和には指一本触れないから。ただそんなふうに避けられるのが辛いんだ。本当にもう、参ってるんだ……」

 ジジ……と蛍光灯が微かに鳴った。替え時かな、と頭の隅で思う。

 兄はゆっくりと顔を上げた。光のせいか、やけに青白い。

 死んだ魚のような目。見ているようでどこも見ていない。でも瞳に私だけを映して。

 きっと、死んでもそこには私が焼き付いている。

 かわいそう。この人かわいそう。

 私はテーブルのこちら側から兄の手に自分のを重ねた。私の手の下でそれはぴくっと震えた。

「侑兄……、将棋の続きしよう。まだ勝負ついてなかったもんね」

 彼の瞳に再び光が戻る。それを見ながらふと思った。

 そうだった。ライオンが逃げまわって敵陣地に逃げ込んでも勝ちだった。

 私は逃げて逃げて、結局兄の陣地を犯したのだ。

 そう、勝ったのは、私。

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