二人の騎士

 中学二年。告白はこれで二回目。

 一人は同級生で、もう一人は一学年上のバスケ部の人だった。どちらもあまり好みの顔ではなかったので、断った。結構、私は面食いだ。揃いも揃って兄たちのスペックが高いのでそこは仕方がないと思う。

 二時間目の美術。有馬先生の「天気もいいですし、写生にしましょう」という一言が出ると皆一斉に歓声を上げた。

 私たちはそれぞれスケッチブックを抱えて美術室を出た。

「ひわ、一緒に描こう」

 ドアのところで(みやこ)に声をかけられ、揃って外に出る。五月の風にスカートがふわりとはためく。

 校舎は高台にあるので、校庭が一望できる。そこでは高等部一年の合同体育らしく、男子はソフトボール、女子はバレーコートに分かれて体を動かしていた。

 それがA組とB組だとすぐにわかったのは、もちろん侑兄と仁兄の姿を認めたからだ。どうやら対抗試合になるらしい。

 デッサンする風景を探しながら京と一段一段が膝の高さ程あるコンクリートのスタンドをのんびり歩き、適当なところで腰を下ろしてスケッチブックを開いた。

 しばらく手も動かさずにぼーっと兄たちの姿を目で追っていると、最初に仁兄が私に気が付き、無表情で手を上げた。

 応えて手を軽く振ると、仁兄の行為に気づいた侑兄が私の方に顔を上げた。そして微笑み、手を振った。私ももちろん、それに応える。

「あーあ。比和はいいよねぇ。あんなカッコいいお兄さんが二人もいて。オイシ過ぎる。私が妹なら絶対に好きになってる」

「えー? でも、お兄ちゃんだよ? 側にいるだけで別に何かの役に立つとかないし。実際血が繋がってたらときめかないよ?」

「でも、比和も可愛いから、手とか出されたりしない? パンツの数が減ってるとか」

「あるわけないでしょ!! パンツが減ってるとか、それ変態じゃない!」

「あはは。ごめーん。まあ、そんだけ羨ましいってことよ」

「どんだけ!」

 私は風景もろくに見ず、スケッチブックに顔を埋めるようにガシガシと線を引き始めた。京は、隣で「あー、侑先輩がピッチャーだ」と間延びした声を出した。

 その声につられて遠くの侑兄の背中を見る。上は白い体操服、紺色のジャージ姿。

 マウンドに真っ直ぐに立った侑兄が腕を大きく振り、下からボールを投げる。まるでボールを優しく送り出すように手から放つ。その一連の動作が滑らかで、美しい。そんな優しい動きと相まって、ボールは素早く、キャッチャーのミットに吸い込まれるように収まる。

「すごーい。侑先輩。美術部なのに運動も出来るんだー。ここからじゃ背中しか見えない……ちょっと近くに行ってみるね」

 彼女は立ちあがると、高等部のいる方に歩き出した。

「ねえ、課題終わらないよ?」

「えー、でも、高等部ってあんまり見る機会ないし、仁先輩と侑先輩ダブルで見れるなんて超お得だし……」

 言い訳のような彼女の言葉が途中で消えた。

 カキ————ン。小気味の良い金属音が校庭に響く。

 「あ………比和、あぶないっ……!!」

 京の声に顔を上げると同時に、ガツン、と頭に衝撃を受けた。

 そして無数の星が瞼の奥で弾けた。

「ひわーっ、すごかったんだから。もうね、”飛んできた”って言葉そのもの」

「飛んで来たのは球ですから」

「やだ、比和。本当に格好良かったのーっ」

「はいはいはい」

 気が付いたら保健室のベッドの上にいた。体を起こすと頭がずきずきと痛む。

 その時チャイムが鳴り、休み時間になって京が迎えにきたのだった。目の上に冷えピタを張られて教室に戻る間中、その話を聞かされた。

『ひわの頭にボールが命中した時、仁先輩と侑先輩が飛んできたんだから! さすがに陸上部の仁先輩の方が速くて、速攻お姫様抱っこよ!!』

『で、そこで二人がもめちゃって。どっちが比和を運ぶかで!きゃーーん。もうね! もうねえ!! 騎士だね。ナイト!!』

 鼻息の荒い京をどうにか宥めた。それ以上聞いていたら頭痛が余計にひどくなりそうだったから。 

『僕が投げた球が当たったんだから、僕の責任だ。比和は僕が運ぶ』

『おめーが打たれるような球投げるからこんなことになるんだよ。おまえに何の権限もねえ。おまえに比和はまかせられねえ』

 結局、仁兄が私を抱えて保健室に連れて行き、そのあとを侑兄が追った、と冷めやらぬ興奮のまま京の報告は教室に入ったところで終わった。

 先生が話してることなんて頭に入らない。そっと首を捻って窓の外を見る。

 薄い青に、千代紙をちぎったような雲。風に流され、それらはぼんやりと形を変えていく。

 少し不思議だった。私とあまり関わりたくない雰囲気を常に滲み出している仁兄が、私を保健室へ運んでくれた。やっぱり、そこは肉親だから……?

 ていうか、兄ども、そこで揉めるのではなく早く運んで欲しかった。

 昼休み、お茶を買いに行こうと教室を出たところで、肘を掴まれた。侑兄だった。

「今、保健室に行ったらいないから……心配するだろ」

 たった今、誰かのお葬式に行って来たような顔で侑兄は言った。

「あ、ごめん……」

 そんな顔を見せられたら謝るしか無い。

「いや、謝るのは僕のほうだから。ごめん。僕の球がひわに怪我をさせるなんて」

「ゆ、侑兄のせいじゃないって! 仕様がないよ。運が悪かったのよ……あ、私お茶買いに行くの。一緒に行こ?」

 さっきからちらちらと同じクラスの女子や廊下を通る同級生(特に女子)の視線を感じて、落ち着かない。私は侑兄のブレザーの袖を引っ張った。

 学生のひしめく購買部で私はお茶を買うと、侑兄がお金を払ってくれた。私たちは旧校舎へ続く人通りの少ない渡り廊下へ足を向けた。人はいなくて空気だけがぼわんと膨らんでいるような空間は、水族館のよう。中央の窓がひとつだけ空いていて、中庭でバレーボールをしている女子の声が聞こえる。

「もしかして、わざわざ謝るためだけに中等部の校舎に来たの?」

 私は廊下の窓に寄りかかりながらお茶の蓋をひねる。力を入れるが、固くてなかなか開かない。

 隣の侑兄は黙ってペットボトルを取って、蓋を開けてくれた。

 それを傾けて飲むのを横から彼は柔らかな視線でじっと見ている。

 キャメルのブレザー、ホワイトカラーにボルドーのネクタイが大人な雰囲気。

「それもあるけど……見せて、打ったとこ」

 返事もしないうちに兄は私の前髪をそっと分けた。

 春の健康診断時177センチの兄の胸が目の前に迫る。なんだか息苦しくて背を反らすと、見事に頭を窓にぶつけた。

「あいた」

「触ってないけど」

「窓に頭ぶつけたの」

 上目で睨んでやると、兄は困ったように笑う。

「今日はよく頭をぶつけるね」

「どっちも侑兄のせいですけど」

 ごめん。と兄は私を抱き寄せて、後頭部を撫でた。まるで幼子をあやすように。やがてその指が私の髪を梳き始めた。そんなことされるのは初めてだった。

「だから、早退して病院に行こう。CT撮ってもらうとかちゃんと検査しないと。打ち所が打ち所なだけに」

「ちょ、『行こう』ってなに。『行ってこい』ならわかるけど」

 とまどい、兄の体を引きはがす。彼は疲れたように窓枠に寄りかかった。昼下がりの日差しが髪を赤く見せる。

「だって、心配だから」

「子供じゃないんだから」

「生理もまだ来てないくせに」

 私は、侑兄が目だけで笑いながらそんな生々しい単語を口にしたことに驚いた。動揺しながらも、そのときは何故か自棄になって答えていた。

「そ、それって立派なセクハラだよ。ていうか、もう来ましたから」

「いつ」

 彼の目から笑みが消える。

「先月」

 母親には言っておいたけれど、男ばかりの家でさすがにお赤飯は勘弁してもらったのだった。

「そうか」

 彼は考え込むように足下に視線を落とした。そしてすぐに私に向き直り「今から病院に行ってこい」と静かに言った。

「わかった」

 そう言わないと、たぶん、いや、きっと彼は私を担いででも病院に連れて行くだろう。

 放課後、保険証を取りに一旦家に戻り、着替えてからバスで丘の上にある大学病院に行った。

 検査よりも待ち時間が長く、結局家に帰ったのは十八時前だった。キッチンに行き、母が仕事前に準備した鍋の中を確認する。豚汁だった。

「病院、どうだった?」

 二階から下りて来た侑兄がテーブルの向こうに姿を現した。

 私は帰りに寄ったコンビニの袋と病院でもらった袋をかさかさと揺らして、麦茶のコップを手に兄の脇を通るとダイニングのソファにどさりと座った。

「思ったよりも空いてた。待たされたけど。異常無しだったよ。ねえ、ちゃんと保険で払われるよね。高いんでしょ? MRI」

「だって、怪我してるんだから。保健の先生だって、あの時の証人だってたくさんいるし。みんな見てたからなあ」

 みんな、仁兄が私を抱えたところを見てた、ってこと? 侑兄と仁兄の口論も?

 疑問が喉から出かかったが、そんなことは訊かずに「あげる」と病院でもらった湿布の袋のひとつを兄の前に押しやった。

「それ……?」

 侑兄はガラスのローテーブルの上の、袋から覗いている駄菓子を目で指す。

「あ、それ? コンビニで買ったきびだんご。仁兄好きでしょ。今日、迷惑かけちゃったから、お礼」

「仁に……好きなんだ?」

「うん。だって、保健室に運んでくれたって京が言ってたから」

「あぁ、そうだね」

 侑兄はまるで興味を失ったように、冷めた顔をすると居間から出て行こうとした。私は慌ててその背中に声をかけた。

「ご飯、食べようよ」

「僕、後で食べる。仁がそろそろ帰ってくる頃だろ。一緒に食べれば」

「はぁ? なにそれ……」

 言い終わらないうちに兄の、階段を上る軽い足音が聞こえた。

 それから間もなく部活から帰って来た仁兄は、制服のままキッチンに入ってきた。私がちょうど豚汁を温め直していたところだった。

「あれ? 侑は?」

「なんか、機嫌悪いみたい。ご飯も食べないで上にいる。仁兄、一緒にご飯食べよう」

「は? おまえ喰ってないの?」

「一人じゃ美味しくないもん。お腹減ったよ、早く食べよう」

 仁は露骨にイヤな顔をする。いつからか、仁は私に対して素っ気ない態度をとるようになっていた。別に喧嘩したわけでもない。何か嫌われるようなことを言ったのか、したのか、残念ながら特に心当たりがない。

「オレ、汗流したいんだけど。先に喰えよ」

「待ってる」

「しょうがねーな」

 完全に無視されるほどでもないので、私も彼の顔色を伺ったり、気を使ったりはしない。

「これ、おまえが作っただろ」

 ほうれん草の白和えを一口食べて仁兄は言った。それは彼を待つ間に私が作った一品。

「そうだよ?」

「甘いんだよ。おまえの味付けは。侑が作るとなんでも薄味で、隆兄は化学調味料を使いたがる。ほんとお前らにはセンスが無い」

「今度から気をつけるよ」

「いいよ、別に。期待してねーし」

 それでもせっせと箸を運ぶのは、厳しい部活の練習でお腹が減っているからだろう。

 テーブルを囲む六脚の椅子。父は仕事でいつも遅い。

 隆兄が一人暮らしを始めてからは、食卓に三人以上揃うことのほうが珍しくなった。現に今日だって兄二人が家にいるのに、ここにいるのはそのうちの一人だ。

 接客好きの母は私が中学に上がると、コーヒーショップのパートを始め、つい最近社員に採用された。

 遅番の日は私たちと夕食を食べることはない。パートを始めた頃は、思ったよりも家のことが出来なくなるとわかり、辞めようか悩んだこともあったみたいだ。

 兄たちと私が応援するということで、母の背中を押した。それから兄妹で家事を分担していた。 

 隆兄が家を出てからは、陸上部で帰りが遅い仁兄は週末の掃除、そして食事の支度はほとんど私か、侑兄がしていた。そうはいっても、母は必ず主菜は用意していたから私たちは何か一品、副菜を作るだけだった。

「そういえばおまえ、いつ保健室から戻ったの」

 急に話しかけられ、慌てる。

「ああ、えっと……三時間目には間に合ったよ。もしかして迎えに来てくれたとか」

「行くわけねえだろ。子供じゃあるまいし」

「だよね。普通来ないよね……」

「ああ……」

「あ、でもね、私生理来た」

 侑兄に言って仁兄に言わないのはなんだか仲間はずれにしているような後ろめたさを感じて、つい告白してしまった。

 仁兄の箸が宙で浮き、ひと呼吸の後、彼は思い切りイヤな顔を私に向けた。

「飯喰ってるんだけど」

「あ、ごめん……」

 仁兄とはこうしてすぐに会話が途切れる。もう、慣れたけど。というか、今のは確かに私が悪かった。私は大きめのお椀で顔を隠すように、汁を飲む。

「ごちそうさま」

 私がまだ終わっていないのにも拘らず、仁兄はさっさと食器を片付けて二階へ上がってしまった。一人になると、急に食事が冷めてしまった気がした。

 キッチンを片付けてテレビを見ようと居間に戻ると、置きっぱなしの袋に目が止まる。

 あ、そうだ。きびだんご……。

 仁の部屋をノックしてからドアを開けると、兄の視線は肩越しに私を認め、すぐに机上の教科書に戻ってしまった。

「なに?」

「えっと、きびだんご。好きでしょ? 今日保健室に運んでくれたって聞いたし……お礼というか」 

 私は仁兄の横に立ってその駄菓子を三つ、机に置いた。彼が顔を上げないので、私は脇のベッドに膝を立てて座った。

「用が済んだら行けよ」

「あのさ……、私、何か仁兄にした?」

「なに? おまえがオレに何かしてくれたってこと? ないな。ていうか、湿布ダサい」

「仕様がないでしょ、まだ腫れてるんだから。でもさ、昔はさあ、アイス分けてくれたよね」

「おまえが毎回ぐずるから仕方なく、な」

「一昨日、私のダッツの抹茶食べたの仁兄だよね」

「名前書いとかないとわからねえだろ。そんなこと言いに来たのかよ、前振り長いんだよ」

 くるりと椅子を回して彼は私に何かを投げた。ぱさ、と手の平に落ちたのはきびだんご。

「やる。生理が来た祝いとしてとっておけ。あ、あとダッツの代わり」

「なにそれ、やっすー! ていうか、これ、私が買ったんだし!」

 仁はふん、と鼻で笑って再び机に向かってしまった。

「昔はもっとやさしかったよねー」

 ぺりぺりと駄菓子の包装を破る。

「なに? オレも侑みたいにおまえの後を付け回せってか? その足下に喜んでひれ伏せってか」

「侑兄はそんなことしてないよ」

「少なくともオレにはそう見えるね。隆兄だってそうだ。おまえには甘くて。地方の大学に行って正解だよ。家にそんなのが二人もいたらおまえはいつまでたってもお姫様気分から抜けられないだろうからな」

「私、そんなふうに思ってないもん」

 そこで振り向いた仁兄は一瞬目を見開いた。そして惚けたように人の顔を直視している。

「何よ?」

 仁兄は我に返ると、珍しく言い淀む。

「お、おまえ、唇にオブラート、ついてる……」

 そんなに間抜けだったかな、とぺろりとその薄い膜を嘗めとった。仁兄はそれを見ると口をつぐみ、またくるりと椅子を回して背中を見せた。

「グロスべたべた塗ってるからだ。そんなに男の気を引きてーか」

「ちがうよ、リップクリームだよ。グロス取りあげたの仁兄じゃない。忘れたの? それにさあ、グロスくらい仁兄の彼女だって塗ってるでしょ」

「高校生と中学生のガキを比べるな。いいかげん、もう行け。おまえと違ってオレは忙しいんだよ。ああ、一応コレは喰ってやる」

 そう言って仁兄はきびだんごを振った。

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