新しい家族

「ほんとうに、よかったの?」

 夢から覚めるように思い出がすうっと引いていく。割り込んで来た尚紀の声が現実と私を繋ぎ始める。

 老舗旅館の広縁から見おろす庭の景色がかたちを取り戻す。

 満月が夜霧にしみてしっとりとあたりを浮き上がらせている。ぽってりと丸く剪定された庭木。薄く苔の生えた灯籠、敷き詰められた玉砂利。

 すう、と大きく息を吸う。

 いつの間にか向かいの籐椅子に座っていた尚紀に顔だけ向ける。

「うん。私の方こそごめんね、モルディブのお友達に会えなくて。内藤さん、コテージも探してくれたんでしょ」

 私の体調を考え、新婚旅行は尚紀の学友がスキューバダイビングのインストラクターをしているモルディブをキャンセルし、尚紀とっておきの、この山奥の温泉旅館になった。

「そんなこといいって。海外で何かあったらそれこそ大変だ。それにまた今度行けばいいんだし」

「子供が生まれたら、しばらく海外旅行なんて無理よ」

「お父さんには知らせたの?」

「うん。隆弘と仁にも。侑にはメール送ったけど……尚紀、本当にありがとう。兄のこと。いつも気にしててくれて」

「他人みたいなこと言うなよ。俺も本当に家族になったんだから当然だよ。仁義兄さん、子供のこと、喜んでた?」

「それはもう」

 尚紀の口元が優しく緩む。

「よかった。あぁ、ちょっと外でタバコ吸ってくる。散歩もしてこようかな、せっかく満月だし。比和子も一緒に来る?」

「あ……部屋にいてもいい?」

「構わないよ。ゆっくりしてろよ。なんならもう一度風呂にでも入ってくれば。ここの露天、何度来ても雰囲気が本当にいいよな」

「うん、ありがとう」

 部屋を出て行く、浴衣の生地がぴんと張った背を見送る。

 そして私は一人になると、月光浴をしながらまだ新鮮な記憶をさかのぼっていく。もう少し、もう少しだけ。

 それは、私にとって生涯一番大事な日の思い出になると思う。

 親族との食事会の時には、体調不良を理由に欠席した侑。

 式の一日前には尚紀とホテルに泊まったから、果たして本当に侑が来るかどうか私には確信が無かった。

 ——コンコン

 新婦控え室の白いドアが固い音を立てる。

 ヘアメイクさんが開けると、侑が鏡の中に現れた。

 ネイビーのオルタネイドストライプのスーツにかっちり身を包んで、侑が立っていた。上品なスーツの光沢はまるで侑から滲み出ているよう。

「侑兄……」

 久々に彼の名を呼ぶ声は掠れていた。呼吸が止まる。

 心臓が、締め付けられる。覚悟はしていたものの、本当に、この距離で会えるなんて。目の奥がじんわりと熱くなる。

「お兄様ですか。初めまして。ヘアメイク担当の宇佐見です。この度はおめでとうございます」

「ありがとうございます。こちらこそお世話になります」

「まだお時間ありますから、ごゆっくり。ご入場の際にはお声をおかけします」

「お願いします」

 スマートに挨拶を交わした侑兄はドアがきちんと閉められたのを確認して、ゆっくりと私に近づいてきた。

 穏やかな眼差しで。ずっと私しか映さなかったその瞳に、再び私が息吹く。

 私はずっとその眼差しに甘く縛られていた。

 私も必死でその瞳を追いかけていた。

 その後遺症なのか、やっぱり心が震える。彼が一歩近づくごとにゆっくりと私の顎が上がる。

「綺麗だよ、比和。今すぐに犯したいくらい」

 その言葉に、体の芯が痺れた。

 彼の手の感触が、肌の上に蘇る。

 仁にあれだけ塗り重ねられても、まだ、それを覚えていたなんて。

 記憶は残酷だ。私は何も言えずにただ彼を見上げる。

「悪いけど、祝福の言葉をかけにきたわけじゃない」

 手を伸ばせば触れられる距離に、彼はいる。

 ドレッサーに腰を預けるように彼は立っている。

 薄い冷笑。侑の得意な。目は、笑っていない。

「あのね……ずっと、侑兄のことは頭にあったよ。いつも。どこにいても……」

「罪悪感で、だろ? 僕を振った……仁を好きになったから。そんなのすぐにわかったよ。僕は比和だけを見ていたから……でも、ある日、突然僕は比和のことが見えなくなった」

「え……」

「僕は比和のことならなんでもわかる。ていうか、比和のことしかわからない。ある日、比和の中から僕が消えた。一瞬で。……仁がずっと比和のことが好きで。僕はそれを知っていた。仁のその気持ちを知ったら、比和は仁のもとに行くって言う確信もずっとあった。比和の目を、仁から逸らすことに必死だった。もちろん、僕は比和を愛してる。でも、比和を抱くたびに仁の顔がちらついて。その仁に対して優越感に酔っていたことも確かだ。でも、比和をいくら抱いても仁は穏やかに笑ってるんだ。比和の気持ちが仁に傾いても、僕は比和を抱き続けた。でも、そのうち、まるで仁とヤッている錯覚さえ起こった。なんでだとおもう?」

「……わからない」

 侑は静かにため息をついた。

「比和の目に、仁が映ってたから」

 私は密かに息をのむ。

「……だから、このまま二人からずっと逃げていようと思ったけど……。比和はそういうの悲しむかなって。僕は比和を幸せに出来ないけど、不幸にもしたくないから」

 わかってる。侑は私を不幸にしたこと無いし、これからもしないって。

 胸が苦しい。言葉が、出て来ない。

 でも、多分、侑には言葉なんかいらない。こうやって、視線を交えているだけで、全て語って来た。

 ——コンコン

「……誰だろう」

 私はドアに顔を向け、そして再び侑を見上げる。

「仁じゃない? どうぞ」

「えっ……」

 姿を見せたのは、その、仁だった。

 私も一緒に選んだ、ディレクタズースーツ。黒の一つボタンのジャケットにシルバーのベストを合わせて。

 タイも白に近いシルバー。それらは仁の魅力に輝きを増して。

 ああ、どうしてこのひとが今日私の相手じゃないんだろう。

 侑の姿を見た仁の顔に緊張が走る。

「なんでおまえこんなところにいるの」

「花嫁、さらいに来た。お約束だろう?」

 侑が私の前に立ちふさがる。

「ふざけるなよ」

「ふざけただけだよ」

 すっと視界が開ける。

 侑の『ふざけた』態度に困惑して仁は言葉を失っているようだ。

 侑と仁。一緒にいるところを見たのは何年ぶりだろう。侑は物心ついた時からどこかで仁を避けていたみたいだから、二人が並んでいる絵は本当に、子供の時の物しか浮かばない。

 右と左。美しいシンメトリー。

 スーツの色さえ違えども二人はまるで申し合わせたように、癖の無い髪を軽くワックスで後ろに流して。

 直線の伸びる高い腰の位置、広い上背。

 正装は圧巻で、見惚れてしまう。こんな兄たちを誇りに思わない妹がどこの世界にいるだろう。

「比和に話があるんでしょ? どうぞ。でも、僕は出て行かないよ。二人きりにするほど、お人好しじゃないんで」

「あー、おまえの性格今更確認しなきゃいけないほどボケてないんで。……でも、じゃあどうしよっかな……ていうか、比和子、おまえすげー、綺麗じゃん。やっぱ惜しいかな……」

 うなじに手を回し、言い淀む仁。

 私はここぞとばかりに、ずっと胸に秘めていた言葉を吐き出した。

「仁兄……私、赤ちゃん出来た」

 肌で感じるほど、控え室の空気が張ったのがわかった。この言葉の意味するものを、二人は即座に理解したのだと思う。

 一瞬止まった時間が、動く。仁が最初に口を開いた。

「あ、ああ……おめでとう。なんだ、今日はダブルでお祝いだな。あいつも、喜んだだろ……」

 私に確認をするような、縋(すが)るような声色だった。瞳が泳いでいる。

「仁兄の赤ちゃんを?」

 自分でも驚くほどに冷静だった。

 欲しいものが手に入った今、怖いものは何も無い。

 ただ、一つだけあるとすれば。

「なんで……おまえ、だって、ピル飲んでるって……」

 仁の顔色がみるみる変わる。ショックを隠しきれないで表情を強張らせている。そんな顔を見せられたら……傷つく。

「嘘ついた」

「嘘ついた、っておまえ……それがどういうことか……」

「わかってる」

「わかってて、おまえ……」

「でも、欲しかったんだもん……仁兄の赤ちゃん」

 声が震える。そんなに、責めないで。

 私を拒否しないで。

 侑としては受け入れるくせに、仁では私を受け入れない理屈ってないよ。

「欲しかったって……おもちゃじゃねーんだし……」

 さらに続きそうなすったもんだの押し問答に似たやりとりを侑は言葉で割った。

「正直に言えよ、仁。嬉しいんだろ」

 声は冷ややかではあったけど、瞳は、笑っている。彼にとっても衝撃の事実なはずなのに、まるで落ち着き払っているのは侑だからだ。

 私は厳しい顔の仁をじっと見上げる。

 仁の優しさに付け込んで罠に嵌めたのは私だけど、本当に望まないなら……ただ、悲しい結果だ。

 判決を待つ罪人の気持ちで彼の一言を待つ。

「……嬉しいよ」

 頬が嬉しさで緩んでいるのがわかるけれど、まだ憮然とした表情をつくろうと努力をしている仁が可愛い。

 そんな彼を見ると張りつめていた緊張がするりと解けて、泣きそうになった。そんな矢先、ぷっ、と隣で侑兄が吹き出した。口元を拳で抑えて仁に流し目を送っている。

「……なんだよ……」

「仁パパ」

「ぱ……ぱぱぱぱ?!」

「だってそうだろ?」

 あははは、と我慢しきれなくなった侑兄は腰を折って笑う。こんなふうに笑う侑兄、始めて見た。

 どんなことがあってもどこか繋がっているところがあって、結局こうして笑える兄弟っていいなって思う。

 双子だから特別なのかな? 

 なんだか二人の間に入れない雰囲気がつまらない。そんなことを思いながら彼らを見ていたら、侑が正面に来て、体を屈めて私を抱きしめた。

「おめでとう。比和。このことなら僕は心から祝福出来る」

「ありがとう」

 私は侑兄の首に腕を回す。久し振りに、本当に久々に触れた。私のと、懐かしい侑の体温が馴染んでうっとりする。

「侑! おまえこの時とばかり産まれる前から刷り込みすんなよ! パパはオレだっつーの」

「……心の狭いヤツだな。比和、考えを変えるなら今のうちだよ。仁か僕か。お腹の子は僕の子のようなものだからね。遺伝子的にも」

 侑は仁を睨みながら名残惜しそうに身を引く。質のいいスーツの感触が手の下を滑っていく。

「最後の『も』ってなんだよ! いちいち嫌なヤツだよ、やっぱり。……あ、比和、ちょっと右手出して」

「なに?」

 私はまだグローブをしていない手の平を仁兄に差し出した。

 彼はうやうやしく取り、ジャケットのポケットから取り出したものを、勿体ぶった手つきでするりと薬指に嵌めた。

「……指輪?」

「そ。ヨーロッパで結婚指輪を右手に嵌める習慣の国もあるんだ。だから、ホラ、オレとお揃い。オレ、おまえが侑を好きでもいい。やっぱりオレはこんなかたちだけでもおまえをオレのものにしたい。なあ、あいつに内緒で先にオレと結婚してくれ。な、いいって言ってくれよ」

 彼は彼なりに結論を出して指輪を持ってここに来たのだろう。

 自信にあふれ、誇らしげに口角を上げる仁がまさにガッツポーズの体で見せた右手の薬指には、同じデザインのシンプルな指輪が落ち着いていた。

「抜け駆けか。おまえ、そういうイヤラシいことするヤツだったんだな……僕のこと悪く言えた口かよ」

 胸の前で腕を組んで、侑は非難の目で仁を睨んだ。

「うるせえ、おまえに言われたくねえ。丁度いい。おまえは証人だ」

「神様は僕と仁の見分けなんかつかないんじゃない? ……って、まあこれ以上仁を苛めても誰得ってカンジだし、仕方ないから誓いのキスくらい許すよ」

「マジで!? サービス良過ぎて怖いな、今日の侑は。あとで面倒な仕事回してくるとかあり得る」

「……ぐずぐず言ってると、僕がしておくけど……?」

 すかさず侑が手を伸ばして私の顎に指を掛ける。

「マテ! それ以上は許さん!」

 本気で怒り出しそうな勢いの仁を笑う侑を押し退け、彼は私の前に進むと、少し困った顔を見せた。

 そんな仁に私は微笑む。ここまできて遠慮してどうするのよ。

 仁の両手がむき出しの肩にそっと置かれる。ゆっくり近づく顔はやっぱり、好きな人。そっと瞼を閉じる。

 やさしいキス。ぴりぴりと全身で反応しちゃう。

 控えめに舌が絡まり、何度か唇を食まれた。

 顔が離れて、どちらとも気だるいため息を漏らす。

「好き。仁が好き。私、今すごく幸せ」

「オレも。……おい、これ、カメラ回ってて「どっきり」とかじゃねーだろうな」

 そう言って歯を見せて笑った仁は実はものすごく照れて頬をほんのり染めていた。

 まだ色づく気配をみせない楓の下を、月明かりに照らされた尚紀の輪郭が窓の下に近づいてくる。

 ふと立ち止まり、私のいる部屋を見上げている。

 光はその表情を浮かび上がらせるには頼りない。

 手を振ってみようか。でも、そうはせずに、じっと、息を潜めて尚紀の存在を感じる。

 彼は今、何を考えているのだろう。

 双子の兄のことならすぐにわかるのに。

 それでも、きっとこれから尚紀のこともわかるようになるだろう。

 ああ、そうだ。クローバーのお礼をまだ言ってなかった。戻って来たらちゃんと言おう。

 大丈夫よ、尚紀。私が、私たちがあなたをちゃんと幸せにしてあげる。

 私が、あなたの幸運のクローバーになる。

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