幸せのヒント 2

***

「比和さ、今度オレおまえに合わせて平日に休みとるから、動物園にでも行かねえ?」

 私が尚紀と同棲し始めても、もちろん、「侑」としての仁と密会は続いていた。私に、必要不可欠なものだから。

「何? 急に。それは侑兄として? 仁兄として?」

 彼は仕事中にこんな電話をする余裕があるのか、とマンションの不慣れなキッチンで一人、鍋のパスタをかき混ぜた。

「まー、お前の好きな方でいいけど? ただ侑だとエロフラグが必然的に立つけどな。そのオプションをお望みなら」

 なんだか私がいつも彼をほしがっていると見透かされているようで悔しい。わざと素っ気なく、

「じゃあ、仁で」、ソーダ割りで、と続きそうな、できるだけ商業的な口調で指名する。

 待ち合わせのコーヒーショップでは既に仁が新聞を読んで待っていた。

 平日の昼なのに、人がごった返す商店街をそれて、美術館に向かって歩いて行くと、だんだん視界に緑が広がってくる。入場券を買い、動物園の中へ入るととたんに獣の匂いが強くなる。

 大きい動物が好きな仁はゾウ、キリン、サイ、を見て満足げだ。売店で買ったコーラを片手に、ふれあい広場の柵越しに、しゃがんでいる子供たちの丸い背中とその間をちょろちょろ縫うモルモットやウサギを眺めた。

 何の前触れも無く仁が口を開く。

「オレ、自分が自分であることをちゃんと感じる。お前のおかげ。ありがとな」

「いや、先生のおかげと、それ以上に仁兄が努力したからでしょ。私は何もしてないよ」

 仁は黙って鼻の頭を指先で掻いた。

「心療内科で出された薬の量がパ無くて。一応、飲んでみたけど、だるかったりなんか余計気が滅入ることもあってさ。体の自由が利かないってすげー苦痛だったから、薬全部捨てたんだよ。そんで、ちょっと情緒不安定で、体も本調子じゃなくてなんか混乱してて、なんでオレがこんな目に遭わなきゃ行けねえんだ、コンチクショウ! って思ってるときにお前がいきなり部屋に来てガタガタ語りだしたから……オレのあのときの告白。まあ、今思えば八つ当たりともいえるか」

「え、えええ、え」

 驚き、のけぞる私を楽しそうに見下ろして彼は続けた。

「あのさ、比和。オレおまえが好きだ。そんで、侑も好きだ。大昔、家族で動物園に来たの、覚えてるか? 隆兄は一人でどんどん見たいもの見に行っちまうし、侑はおまえをここにつれていこうと、おまえと走って行くし。オレはもちろん、あとを必死でついて行ったんだけど。なんでかって、おまえが侑に取られるって思ったからじゃなくて、仲間はずれが嫌だったから」

 仁は喉を反らせてコーラを飲む。

 動くのど仏に私の視線は釘付けだ。ああ、そこにキスしたい。

「オレさ、侑のふりしておまえと寝てると、なんかマジであいつがオレの中にいるみたいでさ。あいつの気持ちがすげえわかるんだ。侑は腹をくくっておまえと別れたんだろうし、おまえも結局は関係を絶った。……あのあと侑、そうとう参ってたからなあ。おまえは当然知らないと思うけど。けっこう仕事ミスってたし、一人でムリにいろいろ案件抱えこもうとしたり……。それはさすがにあとでチームにしわ寄せが来るって眼に見えてたから、オヤジが許さなかったけど。一度無理矢理飲みに付き合わされて、あいつ、隣で一言も喋らないで飲んでるだけだったし。なんか、アレはオレ一度経験してるから、密かに『なんだ、やってることオレと同じだこいつ』なんて思ったりさあ。そうそう、二日同じシャツ着てた時もよくあったし。あの侑が。な、わかるだろ、凹み具合がさ」

「侑兄……怒ってるかな。私のこと」

「なんで? おまえあいつを怒らせるようなことしたの?」

 なんて言えばいいの? ねえねえ、それマジで聞いてる? 仁お兄さま?

「侑がおまえを怒るとかあり得ねえから。これまでもこの先も。あいつはおまえの決断をリスペクトしてるはずだと思うけど?」

 別れた理由、言ってもいい? 

 声を大にして。仁王立ちで。何を決断したのか? 

 決断って、尚紀との結婚のこと? 

 勘違いしないでね。ああ、でも言ったらきっと彼は私から離れて行く。

「おまえが侑と別れた寂しさに付け込んで、オレ一人がいい思いしてるわけだろ。だからさ、おまえが侑のこと吹っ切れたならこんな茶番、いつまでも続けなくてもいいんだ。今のオレ、おまえにも侑にもどっぷり甘えてる。なあ、大事だから二度言うぞ。オレ、比和が好きだ。おまえが泣いていたらティッシュ持ってきてやるし、頭が痛かったら鎮痛剤を飲ませてやる。いきなり生理が来たら生理用品買いに行ってやるし、腹減ったらメシ作ってやる。愚痴を言いたければオレに言えばいい。……だから、いろいろ大丈夫だぞ」

「いやいや、そんなこと尚紀がやるからいい」

「うわ、やな嫁……」

「そういう風に育てられたんです」

「人のせいにするとか……ま、いいけど。一理ある」

 乾いた風に遊ばれる毛先が頬をくすぐる。

 仁の前髪も揺れ、透き通った金色の光線をやさしくはね返す。

「仁には仁にしか出来ないことがあるよ」

「うん?」

「だから、侑兄になることとか……」

「ああ……」

「あと……」

「ん?」

「ううん、なんでもない」

 視線で促され、ふれあい広場を後にする。

 背中に子供たちの高い声が弾けて、小さくなって行く。

「侑はたぶん、今でもおまえが好きだ。だけど、侑が側にいればいつまでたってもお前もあいつから離れない。現に今だって……だから、オレが必要なんだろ」

「は?」

「だからさー、結婚前って不安になるだろ。赤の他人と暮らすんだ。自分にあつらえたような人間なんてそういねえ。だから足りないところをオレが補ってやるから」

 仁は真っ直ぐ前を向いたまま、私に何かを言わせる隙も与えず、続ける。

「あいつと子供作って、家庭作って、明るい顔みせてればあいつも子供も幸せで、それを見ておまえも幸せになれるんだって。自然とそうなるんだって。……おまえが幸せになるってことが父さんも侑も隆宏もオレの幸せでもあるわけだし」

「なんかすっごい綺麗ごとのような気もするし、妙に納得するところがあるのが悔しいんだけど……じゃあ、私が侑のことが忘れられないのに、私以外の家族を幸せにするためにひとり不幸なんですって言ったら、仁は、私を哀れんで、その『家族の幸せ』とやらのためにずっと侑を演じてくれるわけ? 侑への気持ちが昇華するまで側にいてくれるの?」

「比和がそう望むならね。まあ、時間が経てばその役も必要なくなるとオレは踏んでいる」

 そうか、哀れんでくれるのね。

「そんなこと言いに、わざわざ動物園まで来たの?」

「いや、オレが単に比和と二人きりで太陽の下でデートしたかっただけ……今までもなかったし、もうこんなこと、これからも一生ないと思うから」

 一生ない……。確かに、そういうことだよね。

 科学は発達し、文明も発展したのに未だに未来予知はままならない。ノストラダムスの予言だって眉唾ものなのに。

 それなのに。仁の予言にはものすごく説得力があった。

 それは、絶対に外れなさそうな予言に思えた。

「二人きりは……確かにないかも。今度はじゃあ、侑も一緒ね……仲間はずれは、よくないでしょ」

 仁は曖昧に笑った。

 動物園を出て、のんびりと帰路につく。

 道に沿って連なる木々の葉の間からきらめく光がコンクリートの上でまだら模様を作る。

 光の粒はまつげの上で転がって、ぽろぽろとこぼれ落ちる。だから、視界が揺れて見えた。

 ずっと黙って歩いていた仁が突然口を開いた。

「だめだ。もしオレたちの子供が生まれたとしても、あいつの子供として育てるんだろ。その子に何かあってもオレは何も出来ない。オレはその子に対してなんの責任を持つことも出来ないんだ。何かしたくても出来ない。それって、すごく残酷じゃないか? それよりも、その子供はあいつとおまえの子として育てるんだろう? でもそうじゃないことはおまえが知っている。子供に真実を言えない後ろめたさを、いつ子供が感じ取る日が来る。子供は敏感だからな。自分の母親が自分に何かを隠していると一度疑うと、全てが信じられなくなる。それって、哀しいだろ。おまえにとっても子供にとっても」

 あ、やっぱり彼には筒抜けだった。

私がこの前カフェで話したことと、『仁にしかできない』の続きが繋がったんだ。

「でも、愛することには変わらないと思う。愛されてることは子供に伝わるでしょう」

「おまえのわがままはなんでも聞いてやる。でも、ホントに、それだけはだめだからな。そんなバカなこと真面目にお前がするとは思わないけど」

「仁は、意地悪だね。じゃあ、侑に頼もうかな……」

 仁の足が止まる。

 一歩私が前に立った状態で彼を見上げると、苦しそうに顔を歪めていた。

 顔に当たる光線が眩しい、という感じにも見えたけど、そうじゃないんだろうな。

「ごめん」

 私は言い過ぎたことを認めて謝った。再び、歩調を合わせる。

 このまままっすぐ帰るか、買い物でもしていこうか。実家にいた時はそんなこと考えなくても一緒に帰って、一緒に買い物もして、ごはんも一緒に作れたのに。

 私は立ち止まって梢に茂った青々とした葉を仰ぎ見た。仁も立ち止まって、同じように顎をあげた。私は再び歩き出した。

「こうやってばーんて道がまっすぐに延びていて。ずっと向こうまで見渡せて。両側に木がずうっと並んでいて。そう言うのが好きなの。ロンドンの公園とか、少しバスで市街地から離れたらそういう景色がどこにでも見れて」

「うん」

「……こんな話をいきなりしても、わかってくれるのは家族だからだと思うの」

「うん。でも、あいつもそのうち慣れるよ」

 私たちの間には五センチの隙間。意図すれば腕が触れる、でも、偶然じゃ触れ合わない距離。仁が仁でいるときには彼から私に触れようとしない。体だけじゃなくて、心にも、そこには五センチの隙間があるのかもしれない。

「ねえ、侑兄は、私が妹じゃなくても好きになってくれた?」

「当たり前だろ」

「私も」

「うん、わかるよ」

 私が仁を「侑」で呼べば、それはもうアレの合図。瞬時に、侑になった仁が私の手を包む。一瞬で消える五センチの距離。もう言葉はいらない。導かれるように角を曲がって、それなりのホテルに入る。

 私が滲み出るところをゆっくりとかき回していた指が抜かれた。しっとりと薄く潮をまとった指が私の唇をなぞる。

「僕はいつでも比和のそばにいる。だから、あいつと結婚しても安心して」

 侑の言葉を使って慰めているつもりなんだろうけど。

「ほんとに?」

 答える代わりに仁の顔が一層近づき、舌が私の唇を撫でる。

 私は彼の頬に両手を添えて、もっと深く誘う。

 でもね、そばにいるだけじゃダメなの。

 仁の、まるごとが欲しいの。

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