それから二、三日の内に何度か尚紀からメールやら来ていたようだけど、メールは読まずに削除。
電話にも応対する必要も無く無視。それもぴたりと止み、やれやれ、諦めたか。と胸を撫で下ろした頃、隆兄から電話があった。
「おまえ、水沢が詫びいれてきたんだけど。『俺の無神経で比和子さんを怒らせた』って。『謝りたくても電話に出ない、メールの返事もない』って。お前ねえ、少しは男に寛大になれ。相手は侑でも仁でもないんだからな。世界でもあの二人だけだからな、お前の我がままし放題を許すのは」
じゃあ、その二人だけいればいいです。という言葉を飲み込んで。
「だって、私、あの人苦手だもの。ほんと、彼わかってる。確かに無神経だわ」
「おお、ヤツを受け入れたか」
「は? なんでそうなるの」
でた。いつもの隆兄の一発変換大失敗。
「無神経だって認めたんだからさ、相手のそういう部分、わかったんだろ。じゃあ、今度はお前がそれに対して挑んで行けば面白くないか? やられっぱなしでいいのか? まあ、あいつはあのルックスでも確かに一癖二癖あるヤツだけど」
「あれ、隆兄知ってたの?」
「おまえ、俺をなんだと思ってるの。そんなのも見抜けないかと思ったか。相当見くびられてるな」
「すみません」
「とにかく、付き合うか付き合わないかまあ、お前が決めることだが、やられっぱなしでいるのは岩崎家の恥だ。といっても白旗はもう上がっているわけだから、もう一度その負け犬の顔ぐらい見てやってくれ。それだけでも男はどれだけ救われるか、お前には想像出来ないだろうけどな。水沢は特にあと引くヤツだから」
なんなの白旗とか、猿蟹合戦でもあるまいし……第一、なんで私が彼の救いになるのよ?
そう思いながらも、隆兄のひたむきさ溢れる語気に顔が緩む。
「そこまで隆兄が言うならね。いい? 隆兄が言うから、仕方なく。だよ」
ああ、ああ。なんでもお前の好きなようにしろ。とにかく連絡取ってくれ。そう言って電話は切れた。
それでも、私は一晩考えて水沢尚紀にメールをした。
そう、これは勝者の余裕で。お情けで。
『もう、怒っていません』
携帯を閉じて、少し後悔した。
一体私は何を期待しているんだろう。
隆兄のフォローのあと、何度か定期的に彼とはデートを重ねた。そのころ、仁も何かと忙しくて休みも仕事していることがほとんどだったから。
相手にされない私は、尚紀と約束をする他なかった。
あとで思えば、これは仁なりの『親離れ作戦』だったのかもしれない。
尚紀と過ごす時間は決して退屈じゃなかったが、お茶をしたり、ドライブをしたり、素敵なロケーションのレストランに行ったり、海に行ったり山に行ったり、その間に電話をしたりメールをしたり、とイベントが盛り沢山で少し疲れる——のが他人と付き合うことだということを再認識した。
それでも、そのうちに私はデートの約束をすればそれなりにその日を心待ちにしていた。
水沢尚紀というひとは、自負しているだけに実にスマートだし、柔軟性があった。
服のセンスも良かった。ご飯の食べ方も上手だし、とりわけ、はにかんだ顔が可愛かった。
交配の仕事をしている、と彼が言ったとき、肝が冷えた気がした。もしかして、私の秘密が暴かれるのではないかと、恐れた。この私の「身内に発情する特異なDNA」が。そんなことある分けないのに、今思えば可笑しい。
尚紀を見ていればわかるけれども、家族から守られている人は、強い。
本人は意識していなくても、支えられているという種が根付き、自信という名の大木は信頼の実を結ぶ。
そしてそれを彼は他人の為にもぎ、与えることも出来る人だった。こっちが欲しいか欲しくないかにも関わらず。
私も侑や仁に守られていたけれど、それは家族からいつの間にか男女のものに移り変わり、そうなると守られれば守られるほどそれを失ったときの不安も大きくなる。
男女の関係は複数持つことは難しい。
私が仁を男と意識した時、実際、侑を失った。
結局今の私は侑扮する仁に抱かれ、オーガズムを貪る。
それはもう、仁はお姫様に奉仕するようなねんごろな愛撫で狂わせたと思えば、あるときはあり得ないくらい私を開いて辱め、また獣の野生を持って突き、私の理性のすべてを食い荒らした。
それでも私はいつもびしょびしょに濡れる。そこに仁は溺れる。
侑はいなくなっても侑を媒介して私たちは繋がっている。
侑の呪縛。
***
尚紀と山奥へドライブに行った。
ごろごろ石の転がる、穴場だという水の澄んだ河のほとりだ。
石を積んで釜戸を作り、網を乗せてその上にスープの入った鍋を置く。それは放置しておけばいいらしい。
「火がおちても大丈夫。炭火の熱は意外と強いからじんわり、弱火でコトコトってかんじかな」
それから少し散歩をする。ぽつりぽつりと河に沿って家族連れや、釣り糸を垂らしている人を見かけた。ごつごつと靴底を通して足の裏にあたる石の感触がきもちいい。
「あの……、最初のとき、『なんてこの人自信家で高慢なんだろう』って思ったんです。自分はモテるけど彼女はいらないとか、話してたじゃないですか。でも、あれから何回か会ってますけど、もうそういうところが出て来ないな、って。無理してるんですか? 私がキレるから」
「ああ、二回目に会った時ね。だって、そんなやり方でもして牽制しておかないと、比和子さん、ゼンッ然、俺に興味持たなかったでしょ」
「え?」
「言ったことは嘘じゃないけど、身近な女性をつまみ食いしてあとあとトラブル処理する暇はないし、実際、今は研究のほうが面白いから……でも、比和子さん、こんな手に引っかかるなんて意外とシンプルだね」
……シンプル、って「単純」て言葉をカタカナにしただけよね。悔しい……でも、最近やっとわかってきた。
こういうやり方と言い、口の利き方といい強がって、実はとてもシャイだって……仁みたい……次男坊だからかな。
「今、すっごく悔しいとか思ってるでしょ。そんなセコい小細工でこんな山奥までこんな男に付いて来ちゃったって」
「思ってません」
「思ってる」
「思ってませんってば」
「顔に書いてある」
彼は粒ぞろいの歯を見せて笑っている。
「書いてません」
「自分で見れないでしょ」
口では敵わない。
そう思ったらゲンコで軽く彼の腕を叩いていた。一回、二回、三回……黙ってやられっぱなしだった彼に、その手首がやんわりと掴まれ、驚きで目を上げるとちょっと照れたような顔があった。
それが予告だったらしい。そのまま手を繋ぐと、彼はゆっくり歩みを進めた。それを振り払うほど私は子供じゃなかったし、河のせせらぎが大きくて。なんだか、潤ってる。心が。
シャンパンのミニボトルを二人で空けた。
放置していたボルシチは具が崩れる手前でしっかりと火が通っていた。ほうろうの器によそう前に「もう一仕事」と彼はリンゴに釘を刺してアルミホイルに包んだものを炭の中に枝で押し込んだ。ああ、これが噂の焼きリンゴ。
私がトートバッグからおにぎりの入ったランチボックスを出すと、「なんか意外」と悦びながら頬張った。
いちいち、一言余計なひと。そう思っても憎めない。きっとボルシチマジック。
自然の中で美味しいものを食べて警戒するのを一瞬忘れてしまっただけ。
茂みで乾いた枝を集めて暗くなる頃にたき火をした。
彼持参のアボカドディップはチップスによく合う。小さく切った数種のチーズをつまみながら木立の向こうに見事な夕日が隠れて行くのを見送る。
尚紀はくすぶっている小枝を一本引き抜き、顔を少し斜めにして咥えたタバコに火をつけた。
すっかり暗くなってしまうと空気が割れるような虫の大合唱が始まった。急に立ちあがると、虫の声はぴたりと止み、一体どこで見ているんだろうと不思議に思う。何度か二人でそんなことをして遊び、落ち着いて熱いお茶を飲む。たき火をじっと見ながら会話が途切れがちになる。
そうするとまた虫たちがジーーッ、ジーーッと静かにそれぞれに羽根を震わせ始める。
ひとつ星を見つければ、次から次へとそれらは現れ、やがて満点の空の下。
しばらく黙って虫の羽音に包まれていた。
「正直、ここまで来るとはおもわなかった」
インスタントコーヒーの入ったアルミカップを手に尚紀は呟くように言った。
「私、手がかかるから」
「いや、俺が」
あれ、やっぱりこのひと素直かも。
それともこの自然がそんな気持ちにさせるのかな。木々に囲まれ、せせらぎと虫の羽音。
星。そんな空間の無限の広がりは、私たちがこの世でたった二人のような錯覚を起こさせる。虚勢をはったり、自分を飾ったりするのは無意味だと知らされる。心がほどける。
空気が冷えて来て寒いと彼に身を寄せると、ディパックから予備のウィンドブレーカーを出して肩にかけてくれた。それは私の心をふんわりと暖める。でも兄の囁きほどに心を焦がすまでではないのが寂しい。
家に帰れば、仁が足りない熱をくれる。だから、大丈夫。
そんな安堵を感じながら、尚紀とひっそりキスをする。
暗くて顔がよく見えないから、ちゃんと、出来た。