新しい男 2

 それでも、私の存在を全く無視しているわけではなく、たまに私の方に顔を向け、返事を待つような素振りも見せた。

 そんな時は一応適当に相づちを打って過ごした。それ以外は黙ってせいろと口の間で箸を泳がせ続ける。

 あ、アメリカの連ドラ、CSI科学捜査はんのアーチーに似てる。えーと、俳優ってなんて名前だっけ……。

 隆兄の正面に座ったはす向かいの彼を横目で盗み見しつつ、思った。短めの、でも柔らかそうな髪と、生意気にも見える薄い唇。

 程よいボリュームのある仁の甘い唇とは違う……。

 そしてきりっと詰まった眉毛のしたのくっきり二重の瞳は会話の途中で一度偶然あったきり、その後二度と合わせられなかった。

 やましさのない明るさと、意志の光が強すぎて。

「お花見、行かれました?」

 水沢さんはずっと隆兄と話していたので、油断していた私は突然振られて驚き、小籠包を箸の先に掴んだまま言葉に詰まった。

「え、あ、はい。お店の女の子たちと。別にお弁当とか持っていったわけじゃなくて、仕事帰りに夜桜見て、少し飲みに行っただけですけど……」

「そうですよね。わざわざ人ごみで見るようなものじゃないですね。桜といえば一般にソメイヨシノだと思うんですけど、桜は四百くらい種類があるんです。そのなかでも、ソメイヨシノは葉が出る前にわっと花が咲くので、豪華な感じがするでしょう。でも、桜の木では寿命が短い方なんです。あ、ソメイヨシノは江戸彼岸と大島桜をかけた品種ですけど、京都の吉野とは全く関係がない」

「へえ、そんなの習ったっけか」

「いや、別に講義でやったわけじゃありません。同僚に桜オタクがいて、聞きかじった話なんです」

 彼は隆兄に顔を向け、口元をほころばせた。

「なぜ寿命が短いかって言うと、弱いからなんです。接ぎ木で増やしているから。だから、例えば二百年、誰も接ぎ木をしなければソメイヨシノという桜はなくなってしまうんですよ。『自家不和合性』って言葉聞いたことありますか。ちょっと専門的ですけど」

「ないです」

「同じ個体の正常なめしべに受粉しても全く同じものが育たないんです。似たようなものしか。つまり、よく成らせようとするなら、他の品種の花粉を受粉させないと自分の花粉では育たない種なんですよ」

 ——心臓が凍った。

「へ……え。そうなんですか」

 かろうじて答えた私の顔は固まっていなかっただろうか。

 声は震えていなかっただろうか。

「そうだよなあ、やっぱ犬も雑種が丈夫で可愛いし、ハーフだって全然違う人種同士だからDNAが切磋琢磨されて、容姿にしろ能力にしろいいとこ取りな感じだもんな」

「隆兄、それをいうなら自然淘汰じゃないの」

 やんわりと訂正しつつも”自家不和合”って言葉が頭の中でDNAの螺旋になって渦巻く。

 自家不和合性、自家不和合性、自家不和合性…………その言葉、きらい。

 その後の彼らの話も上の空で、料理の味もよくわからず、それでも隆兄が頼んだタピオカココナツミルクを無理して食べ、口に残ったべたりとした甘さをお茶で流した。

 どうする、まだ早いし茶でも飲んでいく、と隆兄はホテルの入り口で水沢さんと別れた後、さらりと聞いてきた。

 ちょっと、隆兄……。私は少し呆れて、彼を見上げた。

 私、プーアール茶とジャスミン茶をポットで飲み干したんですけど。これ以上何を飲めって言うの。こんな鈍い兄もすんなりと結婚できたんだから、世の中はわからない。それとも本能が自家不和合性に警鐘を鳴らして必死で違う種を求めたのでしょうか。

 腕時計を見るとまだ十五時半前だった。二時間ほどの食事会。でもなんだか疲れた。

「いい。お腹くるしくてもう何も入らない」

 でも、仁に飢えてる。早く家に帰りたい。仁は休みだけど家にいたかな……いてほしい。待っていてほしい。

「どうだった、水沢」

 まばらに人が行き交う駅のホームで電車を待ちながら、隣のほろ酔い加減の兄が聞いてくる。

 おお、直球で来ましたか。まあ、それが目的だったもんね。それしか言いようがないか。

「別に……普通じゃない」

「な! よかっただろ! そうなんだよ~。いいヤツなんだよ、水沢。久々に会ったけどなんか余裕がでてきたっつーか、いい感じになったなー」

 ちょ……、『普通』をどう聞き間違えたら『よかった』に変わるんだろう。私は隆兄の脳内変換機能の酷さに呆れたけど、なぜか訂正の言葉は出て来なかった。あの、桜の話は嫌だったけど。

 でもかえってそれがひっかかって、良くも悪くも「水沢尚紀」という人は私の中に少しは残ってしまった。

 隆兄はあの自家不和合性の話をどう思っただろう。まさか彼があんな話をするとは隆兄も予想だにしなかったはずだ。

 でも、それで『おお、うまいこと言った』なんて少しでも思っているのかな。でも……隆兄は知らないはず。

 侑と別れた私が今度は仁とセックスしてるって。

「お前の連絡先、教えておいたから」 

「え! 勝手にそんな……! 兄と言えど、個人情報リークするなんてどうかと!」

「お前から教えるって展開、期待できないからなあ。ていうか、今日お前、あいつの連絡先聞く気配だって全くなかったじゃねーか」

 彼は酔いで緩んだ顔で、私を見下ろしながらしゃあしゃあと言ってのける。

「もう、知らない。妹の人権無視して勝手なことばっかりして。いいもん。心当たりない電話には出ません」

 頬を膨らまして彼を睨むと、サージのパンツのポケットに突っ込んでいた手をぽん、と私の頭に載せた。

「まあ、それでもお前が幸せになればいいと思ってるんだけどな」

 そういうの、反則です。と言う言葉を飲み込み、代わりに大きなため息を漏らす。それは電車の到着を知らせるアナウンスにかき消された。

 水沢さんとは……エイリアンと遭遇したようだった。

 本当に、他人だと思った。

 たとえ同じ言葉を話しても、馴れないイントネーションとか表現の仕方でいまいち理解にとまどう、その距離感。テレビを見ているようだった。

 自分の関係無いところで、自分の生活に関係無い人がしゃべっている。でも、何度も見ていくうちに知らずと出演しているタレントについて知識が増えていたり、いつの間にか好感を持ってしまったりする。

 洗脳。洗脳は危険。

 やっぱり彼とはもう会いたくないような、でも連絡が無かったらこれもまた悔しいような複雑な気持ちだった。

 他人に予定を合わせる、お茶の時間を合わせる、買い物に行く場所を合わせる、電話をかける時間を合わせる、デートの場所を東か西か、北か南か……なんて難しいのだろう。

 今まで侑兄と一緒にいて、そういうこと全て合わせてもらっていたのが始めてわかった。

 いや、そうじゃない。ただ、侑兄は知っていただけ。

 私の予定、私の好きな食べ物嫌いな食べ物、よく聴く音楽、好きな作家、画家、好きな体位、嫌いな体位、もろもろ。

 デートひとつにしろ、侑兄なら映画に行く日に急に雨が降っても、撮りだめしておいた映画を家で見ればいい。

 外食しなくても一緒にご飯を作ればそれはそれで楽しかった。

 隆兄と同伴食事会の一週間後、恐れていた尚紀からの誘いが来た。

『観たい映画があるんですけど、興味があればどうですか。デートと言う響きが嫌ならワリカンで』

 そっか。デートじゃなくて始めから「誰か」と映画に行く、ならいいかも。

 前評判もよく、気になっていた映画のタイトルということもあって、とりあえず約束をする。でも、始めからワリカンていう言葉を出して来る彼も変な人。

 映画館の近くの本屋で待ち合わせをし、『パッセンジャー』を観た。

 映画の後、速攻家に帰るわけにも行かず。

 彼に頼まれてデパートのステーショナリーフロアで彼が小学生の姪にバースデープレゼントを選ぶのを手伝い、そしてそのデパートの中の、有名な紅茶店でお茶。

 今日の彼は白いボタンダウンシャツ、紺のチノパン、足下はレッドウィングと見事なアメカジだった。

 でもそれがこれ以上ないほど彼に似合っていて、あまりにも彼の魅力を引き出すスタイルに度肝を抜かれた。

「私、男の人と付き合った経験があまりなくて……」

 桃の香りのする紅茶を一口飲んでそう言うと、尚紀は不思議そうな顔をし、小さく噴き出した。

「私、何か変なこと言いました……?」

「いや、ごめん。岩崎先輩も、あ、隆宏さんもそんなこと言ってたから、兄妹揃って面白いな、と思って」

 『水沢さんは年上なので敬語はよしてください』という私の訴えを彼は承諾していた。

「兄が?」

「うん。『比和子はあまり男と付き合ったことが無いし、過保護でいろいろピントがずれてるかもしれないけど、頼むよ』って。俺、そういうのはあんまり気にならないけど」

 隆兄は必死だ……可笑しくもあり、先回りをして全てをお膳立てしているその無粋さに小さな怒りも感じた。

「共通の恩師が亡くなって、葬儀に出るかで久々に岩崎先輩から連絡が来て。電話を切るときにちょっと聞かれたんだ。『おまえ、今彼女いるの』って。まあ、彼女はいなかったから『一癖も二癖もある俺に合うような女はいませんよ』って答えておいたんだ。そしたら先輩、『おお、丁度いいのがいる』ってひとこと言って電話切っちゃって……ちょっと悪い予感がしたんだけど……別に、彼女欲しいって言ったわけじゃないから」

 彼はその時のことを思い出したのか、笑いを含めた困り顔をしつつ、紅茶を一口飲んだ。

 はいはいはい。で、今、その「悪い予感」があなたの目の前に座っている、ってわけですね。わかります。……隆兄めぇ………!

 今すぐどこかのカスタマーサービスに電話して、隆兄のハードウェア全取っ替えして欲しいと強く思った。

 あるいはリコールで引き取ってもらってもいい。

 でも、ちょっと待って。

 『彼女』はいなかったから。『一癖も二癖もある俺』って、これ、フラグ? 少しひっかかる……。

「聞きたい?」

 私の胸の内を見透かしたような質問。彼は斜に構える感じで目を細めている。

 なんか、居心地が悪い。

 この人、第一印象と違うんですけど。かちゃかちゃ、と近くのテーブルでソーサーにカップが当たる音が意外と耳障りだ。いかに高価な陶器でも。

「べつに、話したくなければ、無理しないでください。私も彼氏が欲しいと思っているわけじゃないので、お互い様でいいじゃないですか」

「……比和子さんって、負けず嫌い?」

 彼はかろうじて笑いを抑えているようだ。

 そういうのも、なんだか不快。ふつふつと嫌なものが浮いてくる。

「そんなこと、水沢さんには関係ないと思いますけど」

 もう、帰ろう。あと一口。残ったこの紅茶を飲みほして。私はカップに指を掛ける。

「ごめん。挑発するとか、そういうつもりは全く無くて……気を悪くしたなら謝ります。ごめんなさい」

 ぺこり、と彼は頭を下げた。

「でも俺、わかる気がする」

 向かいに座る彼は遅い午後の柔らかな光の中で微笑む。小生意気な口元のその笑みから太陽の温みが伝わるような。

「なにが……ですか?」

「比和子さんみたいに綺麗な人は高嶺の花、っていうか、男の方がけっこう警戒して寄り付かないよね。確か、岩崎先輩の他にお兄さん二人いるって聞いたけど、すっごく甘やかされて育ったんだろうな、って雰囲気でてる。実際俺も、岩崎先輩から写メ見せてもらったとき、迷ったからなあ……」

 ちょっと、この人、さっき自分が謝ったこと忘れてない? 

 反省している人の言葉じゃないよね、これ。なんで兄がさらに二人いるイコール甘やかされてる、になるの? 

『大事にされた』っていうボキャブラリーはないのだろうか。

「ですよね。いきなりで無理矢理な話ですものね……すみません。強引な兄で。空気読めない兄で」

 そりゃ、先輩といえどもいきなり好みでもない女を紹介されても、困りますよね。

 イヤミたっぷりで返したつもり。

 あれ、私……やっぱり負けず嫌い!?

 思わずハッと我に返る。だめだめ。これで取り乱したら相手の思うツボだわ。

「じゃなくて、反対の意味で。オレの履歴書見たらけっこうな優良物件だと思うんだ、自分で言うのもなんだけど。世間の嫌われ者、喫煙者だけど一応このルックスだから、まあ、モテるかモテないか、っていったらモテるほうだし。でも、正直束縛したがる彼女とか苦手で。時間があれば仲間と遊んだり、一人で郊外に車飛ばして自然に癒されるってほうが好きで。だからまあ、彼女がいたとしてもけっこう放置しちゃうから長く続かなかったりで、だからつい、

お互い合意の上で遊ぶ女友達とかいて。彼女といるよりも自分の時間楽しむほうが性に合ってて……うん、だから、今回も本人に会ってきちんとお断りしようと思ったんだけど」

 一瞬彼はまるで店内で誰かを探すように目を泳がせた。

 それからぴたりと私の上に視線をとどめて言った。

「やっぱり、惜しいかな。もう少し、これからも俺と会う時間を作ってくれませんか」

「え……」

「……困った顔は、また雰囲気が違って、可愛い」

 すぐに彼は恥じた様子でまつげを伏せた。

「ごめん。俺、結構思ったことすぐに口に出しちゃう質なんで……」

 でももう、怒りに着火した私にそんな小細工は通用しない。静かに、じわじわとその火は私の心を焦がすから。

「私は……そんなふうにいきなり自分のことべらべら話す人、苦手です。モテるならどうぞ、他の女性と付き合ってください。私たちは絶対に合わないと思いますから。水沢さんのお見通しのように、自分で言うのもなんですが私は兄たちに相当スポイルされているので、扱いにくいと思います」

「でも、始めに言っておかないと後で『こんな人だとは思っていなかった』っていう展開は困るから。本気で付き合う前提ならなおさら」

 怯まずに彼は真剣な眼差しで言った。

 怒りで頭が沸騰しているはずの、こっちが怖じ気づくくらいの。

「その展開はないと思うのでご心配なく」

 私はお財布から千円札を出してテーブルに置くと、彼に止める暇も与えず店を出た。

 そうしたのは怒りでも呆れからでもなくて、ただ、彼には敵わない、と本能が警告を出したからだと思う。

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