新しい男 1

 仁は『侑』になって私を抱く。

 私が仁に『侑』を求めることは、仁にとっても兄妹でセックスをすることの罪悪感を軽減する効果があるのかもしれない。仁は意外とモラリストで繊細だから。

 そんな仁は一度侑の仮面を着けてしまうと、思いやりと高慢を絶妙に交えて慇懃に通じる。その手腕はまさに侑の営みそのもので、もしかして彼は侑と私の行為を一部始終見ていたのじゃないかと一瞬疑ってしまうほどだった。

 一方私は、今まで仁が侑に、侑が仁に似ているなんて一度として思ったことは無かったのに、最近の仁に時々、侑が重なる。仁と侑の線がぶれている。

 それは侑に似せようとしている仁が一枚上手だから?

 でも彼は普段は全く「仁」で、彼は私を抱きたいときだけ、私が彼を求めるときだけ、巧妙に侑になりすます。

 仁が彼の中で自由自在に侑を操ることに戸惑いを感じている。

 私が最初に仕掛けたはずなのに関係が一年近くになろうとしている今、その仁の余裕な態度に、彼の手のひらで転がされている気がしなくもない。

 私はまだどこかで侑を探している?

 そんなに簡単に消えるわけが無い。いくら仁のことが好きでも侑は初めての人で、そして過ごした時間は長く、とても濃いものだったから。

 アップデートすればサクサクと仕事をこなす機械のように、気持ちを切り替えられればどんなにいいかと、ふと考える。重い過去なんかまるで関係無く、いくつウィンドウを開けてもフリーズ知らずの器用な私。

 珍しく金曜に隆兄が帰って来た。

 私が出勤前に、庭の牡丹を仏壇の花瓶に生けた日の夜だった。

 玄関で帰省を告げる彼の声に下りてみると、スーツのジャケットをソファの背にかけて、仁の横にどっかり座っていた。テレビを見ていた仁は迷惑そうに長男を一瞥し、体をずらした。

「うわー。隆兄、珍しい。どうしたの。追い出されたの?」

 隆兄は返事をせずにローテーブルの上のコンビニ袋を差し出した。それが私の問いの答だった。隆兄は都合が悪いと返事をしないのが常なのだ。

「わ、この匂いはピザまん。大好き。肉まんも。ありがとう。今お茶煎れるね」

「土産があると態度が違うな。うちの可愛い妹は。父さんは? 風呂か」

「うん。今入ったところ」

 お盆に載せた湯のみを隆兄、仁、私の前に置いてから、お土産の袋をカサカサと開けた。隆兄はネクタイの結びに指をかけて緩めながら、お茶に手を伸ばした。

「比和、俺の後輩と会ってみないか」

「え?」

 じんわり温かいピザまんの敷き紙をじりじり剥がしていた私は、突然の兄の言葉をもう一度聞き直そうと顔を上げた。ローテーブルの角を挟んで隣に座る隆兄の顔は真剣だった。彼は私に何か言わせる隙を与えずに話を続けた。

「水沢尚紀。大学の研究室の後輩。再来週の日曜日、一緒に飯喰いに行くぞ。シフト替えてもらえるだろ。そのために少し先にしたんだ」

「ど、どうして? いきなり来て何よ? 香奈さんと喧嘩したからって男が実家帰ってくるってなにそれ。それにねえ、『会ってみないか』っていう疑問形と『喰いに行くぞ』っていう命令形は同時に成立しないんですけど!」

「おまえの意見は聞かない。おまえ、いい加減に早く結婚しろ。俺は身を固めた。順番から言えば次は侑か仁だが、ヤローはどうでもいい。父さんが何も言わないから俺が言うが、今までおまえは男の一人も家に連れて来ない。電話もかかって来たためしがない。侑や仁に聞いてもおまえの生活に男の影も幻もにおいも無いって言うしな。それどうなんだよ。年頃の、麗しい乙女がだな。不健全じゃないか? そこでオレはお前のために一肌脱ごうと考えた。そして脱いだ。ちゃんと段取りして来たぞ。水沢尚紀(みずさわ なおき)。二十七歳。おまえにぴったりだ。スポーツ万能、顔よし頭良し、……まあそこは、オレには劣るが、家は老舗の和菓子屋で躾よし。そうはいってもご両親は意外とうるさくない。次男坊。腹も出てない。身長178センチ、体重……」

「ちょ、ちょっと待って!」

 立て板に水、そして寝耳に水とはまさにこのこと。な、なんでいきなり結婚?!

 一口かじったピザまんを突き出し、慌ててストップをかけて話を遮るも、彼は私をまるっきり無視して仁の脇を肘で小突いた。

「おい、仁、テレビ消せよ。おまえもいいと思うだろ? 俺の見立てた信頼のおける男なら安心して比和をまかせられるよな」 

 南極のドキュメンタリーを見ていた仁は面倒くさそうにリモコンを突き出して、音を小さくした。

「いや、消せよ。気になるだろ、皇帝ペンギン」

「なによ、好きなんだ、けっきょく南極。じゃあ、見てからにしようよその話」

 私はピザまんを口に運びながら、揃いのひとりがけソファから隆兄の隣にわざとぐいぐい体を割り込ませて座り、テレビに身を乗り出した。

「比和、誤摩化すな」

 隆兄はめずらしく長男の威厳な態度を示した。

 テレビを消した仁は、リモコンをローテーブルに置くと、そのまま手を肉まんに伸ばしながら言った。

「まあ、一度会ってみればいいじゃん。会わなきゃわからないだろ。嫌かどうかなんて。そーいうのって服と同じなんじゃないの? 試着しなきゃわかんねえ、みたいな」

 仁の一言にうなじの辺りが冷たくなる。

 会ってみろ? 本気で言ってるの? 

 最低でも週一で侑になりすまして私とセックスしてるくせに? どの口がそんなこというのよ。

 ピザまんのトマトソースがやけに酸っぱく感じる。おいしくない。さっきまでふんわりとした皮は急に口の中でもそもそと不愉快な口触り。

 それでも、ゆっくりそれを噛みながら、隆兄の向こうの仁を横目でにらむ。仁はすました横顔を見せて、片手で首筋をさっと払った。まるで蚊でもいたかのように。

「おお、うまいこと言う、馬鹿だと思っていた弟が。わかるぞ、お前、それ比和のブティックとかけたんだろ。よし、いい機会だから仁も結婚しろ。うちの会社に牙と爪を研いでいる独身女子が溢れているぞ」

「オレはしねーよ。ていうか、隆兄、いまどきブティックとか聞かないだろ」

「なんだ、お前も侑と同じか。あいつも『比和が結婚しないうちはしない』とかほざいてた」

 心臓が大きく跳ねた。

「なにそれ、いつ侑兄に会ったの?」

「この前。一緒にメシ喰ったけど。お前に水沢のこと紹介するのどうかな、って思ってさ。あいつのほうがお前のことお前よりよく知ってるから。話したら、あいつが『いいんじゃない』って言ったからオレが今ここにいるんだ。オレ、あいつ家出てるの知らんかったわ。家出ればまあ、結婚も早いよな。一人暮らしの寂しさって、経験しないとわからんもんだ」

「そうやって周りから固めてるのね? 隆兄は」

 口直しにと二つ目の、手にしているあんまんを、そのあっけらかんとしている顔に投げつけたくなった。だいぶ冷めたそれでも、まだ中の餡はアツアツのはずだ。少しくらいダメージが与えられるだろう。

 そんな殺気を感じないのか、それともここまでいくと面の皮が厚い兄は小さな妹を見くびっているのか、のんびりと言った。

「おまえさ、クリスマスも過ぎたんだからさ、少しは焦ったら?」

「クリスマスって……何? 二十五のこと言ってるの? 隆兄、さすがに古いよね。時代は変わっているんです。今は大晦日まで余裕ですよ」

「ばぁか。大晦日で慌てても遅いんだよ。除夜の鐘が鳴って魔法がとけてよく見たら、皺だらけのばあさんになって貰い手なくなって後悔するってのがオチだ」

「隆兄、それシンデレラと浦島太郎が混ざってる……んじゃね?」

「おお、わかるか、オレのこの創作センス。現代女子の厳しい婚活事情をスパイスに、童話に絡めてみた」

「余計わかんねえ。スパイスとか」

 膝を叩いてげらげら笑ってる兄たちを見ていたら、頭に血が沸々と沸き上がってきた。

 とりわけ、仁兄の『一度会ってみればいいじゃん』には。なにそれ! 

 侑兄だって、『いいんじゃない』?! 

 人がいないところで随分無神経な言葉じゃない?!

 置き去りにしたのは誰よ! 

 あの時の私の気も知らないで!! 

 もう、嫌だ!!!

「この愚兄ども! わかったわよ! 会えばいいんでしょ、会えば! 嫌だったらすぐにその場で断るからねっ!」

「おお、やっぱ怖いな、比和が怒ると。ギロチンだな」

「ぶほっ! なにそれ。二十一世紀にギロチンってアイテム出しちゃいますか」

「だって、その場でぶった切るんだろ? なあ、そういうことだろ、比和」

 そんな言葉にいちいち返す思いやりも無く、私は勢い良く立って踵を返した。

 仁がすかさず隆兄の言葉を追った。

「ていうか、比和怒ったのあんたのせいでしょ。それより帰らなくていいのかよ、え? マジ追い出されたの? 隆兄、それ香奈さん妊娠してるんじゃない? ほら、野生の雌は妊娠したら雄を巣から追い出すぜ?」

 おお、仁、オレはお前を馬鹿だと思っていたけど、まともなこと言うようになったなー。そうか、それで気が立ってるのか、香奈は。やっば……どうしよう。どうしらいいですかね、仁先生。

 『馬鹿』二度目なんですけど。それにその鈍さが鬼門だと思うね、隆兄の場合は。まあ、美味しいもんでも買って帰って謝るのが基本だろ……。

 二階に上がる自分の力強い足音の合間にそんな会話を背中で聞いた。

 かろうじて保った理性で、手の中のあんまんを握りつぶすに至らなかった、自分を褒めたい。

 約束の日、隆兄と駅で待ち合わせをした。

 珍しく車じゃないのは、お酒を飲む気満々だからだそうだ。奥さんは仁の予言した通りやっぱり妊娠していて、晩酌もつき合わなくなったし、子供が生まれるってことで、外に飲みにいく回数も激減した、その埋め合わせを今日する心づもりらしい。

 東京タワーや六本木ヒルズの天望が売りのホテルの中華レストランの入り口で、時間通りに来た本日のメインゲストの後ろ姿をめざとく見つけた兄が「水沢」と声を掛けると、彼は振り向きぱっと顔を輝かせた。

「岩崎先輩、お久しぶりです」

 よく通る、柔らかな声だった。

 隆兄情報だと、数字では仁や侑の方が身長は高いはずだけど、たいした違いは無く思え、清々しく微笑んだすらりとした彼に、しなやかな青竹のイメージが重なった。

 ライトグレーのタイトなシャンブレーシャツ。レンガ色のチノパンに、パンツの色よりもやや濃いデザートブーツを合わせていた。

 腕には黒い麻のジャケットをかけて。

 大して歳が変わらないことを考えるとやや、落ち着いたコーディネートだと思わなくもないけれど、確かに良家の御坊ちゃまっぽくも見えなくない。

 入り口で軽くお互いに自己紹介をしていると、くすんだ水色のベストに同じ色のタイトスカートのウェイトレスが近づいて来て窓際の席に案内された。

 席に着くと私はとりあえずその一望に感動したような振りをする。

 五月の強い午後の光に、高層ビルの形は雲だか霞にけぶって空に同化していた。

 隆兄がメニューを手にし、いくつもの点心を呪文を唱えるように一通り注文した。

 すぐに前菜が数種類、男性たちが頼んだビールと私のプーアール茶が来て、乾杯する。

 何に乾杯? と聞くのは無粋だから、というより墓穴を掘りそうだったからそこは黙って、手のひらにすっぽり収まる小さな湯のみを形だけ持ち上げた。

 それから、私はテーブルいっぱいに並んだ湯気立つ小さなせいろを漁りつつ、シャツの下の胸を盗み見て仁と比較してしまう。

 胸の筋肉は仁よりもきっと半層ほど薄いだろう。

 でも、ちらりと襟口からのぞいた鎖骨はまっすぐで、首から肩のラインと結んで作られる直角三角形にポジティブな評価を出した。

 彼は畜産試験場で交配の研究をしてると、さらりと言った。

「うちで、クローン牛が生まれたときに『おお、これがクローンか』なんて最初は感動したんですけど、よくよく見ても牛なんか普段から全部同じに見えるよな、なんてあとで冷静になっちゃったりして。まあ、でも世話してるとそれぞれ個性があって面白いんですけどね」

「まあ、そうだよな。千と千尋もあれ、最後よく父さんと母さんがわかったよなあ。奇跡だよなあ。豚なんか特に見分けがつかなさそうだし」

 ビールを一杯飲んだ隆兄は次は紹興酒を飲みながら、とんちんかんな応対をしているけれど、彼はにこにこと笑って話し続けた。

「先週、仲間と河原でバーベキューしたんですけど。リンゴに五寸釘を刺して、アルミホイルでくるんで火のそばに放置すると、釘が熱くなるから芯まで火が通るんです。形が崩れるくらい柔らかくなったリンゴに、蜂蜜かブラウンシュガー、シナモンで味つけると最高にうまくて」

「一日中いて、時間の流れを楽しむんです。風の香りや、川のせせらぎの音が昼間と夜と違って聞こえてくるんですよ。そうそう、うちにドイツ人の研究員が契約で働いているんですけど、彼の家族も呼んだら奥さんがこんな大きいボウルにパン生地を持って来たんです。焼く前の」

 そう言って彼は胸の前で空気を抱くように、両腕で輪を作った。

 その動きは、成人した男のくせになんだか少年のような無邪気さを持っていた。

「で、生地をちぎって枝の先に巻き付けるんです。それを炭の上に掲げて、じっくりと焼くとパンが出来るんです。あ、餅でやれば「どんと焼き」と同じなんですけど、やっぱり国が違えばやることが違うなって思わず感心しますよね。中にあんまり火が通らなくて、でも表面はカリカリで。子供たちなんかわざわざ焦げた黒いところを齧るんですよ。普通に食べたら絶対にうまいって思わないんですけど、でも自然の中で仲間と食べたら五割増でなんでもうまく感じますね。。これから夏にかけてシーズンだから、今度よかったら岩崎先輩も。比和子さんも。穴場もあるんですよ」

『比和子さん』と不意に名前を呼ばれて、思わず上げた視線が交わる。他人に名前を呼ばれたら、不快な風が体を通り過ぎていった。

 そして私の中の何かが一つ、取られてしまったような気がした。

 何度も呼ばれれば、そのままいつのまにか彼の手の中にたぐり寄せられてしまいそうだ。

 アラーム、アラーム。隙を見せちゃいけない。

 そんな私の警戒心を感じ取ってかはわからないけど、彼は無理に私に話を振ろうとせず、緩いペースでお酒を飲み、胸のすくような気持ちの良い食欲を見せて食事をしながら隆兄と仲良く話している。

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