巣立ち 2

 仁兄と一度セックスしたものの、その後も変わらず、私たちの間には清く正しい兄妹関係が一年近く築かれていた。

 いや、『兄妹関係はもともと清く正しいもの』というのは当たり前の話なんだけど。社会通念では。

 サービス業で週末も出勤の私と、個人事務所の過酷な勤務体制下、働き盛りの男とは同じ家で暮らしていても不思議なくらい顔を合わせることが少なかった。

 たまに遅く帰って来た彼から軽くお酒の匂いがする時もあった。女の子と飲みに行っているのかもしれない。

 うん。不思議じゃない。

 れっきとした年頃の男性だから。そんな仁は顔を合わせれば、いつも機嫌が良かった。

 ——出来た兄。

 皮肉でもそんな言葉が彼には相応しい。

 侑兄が出て行ったあとは、私に気を使ってか、仁はたまに事務所での侑の様子を報告してきた。

『今日の昼飯、侑と焼き魚定食喰いに行った。さわらの西京焼き、うまいなアレ』

『バイトの子が仕入れたおやつのドーナツ、あいつオレが出ている間にオレの分も喰ってさあ。ダブルチョコだったんだけど。普通とっておくだろ。オニだあいつ』

『自分が出したネットコンペで問い合わせが来たって、よっぽど嬉しかったのか、愛用の”のっぽんボールペン”くれたんだぜー。オレ欲しかったんだよな。知ってるかー? のっぽんて双子なんだぜ? おまえにはやらねぇ』

 なんなの、このひと。

 一応、恋敵だったんじゃないの? なんで一緒にランチしてるわけ? なんでボールペンもらって喜んでるの? 懐いちゃってる?

 侑もなんなの? 

 出てったきり私には何の連絡も無しで、それで仁とは仲良くしているわけ? 再び姿を現わされても……私はどうすればいい? 

 電話が、メールが来たところで、どんなリアクションをとっていいのかわからない。

 きっと、侑はそんな私の気持ちをお見通しだ。

 私を困らせるくらいなら、あの人は潜ったままでいるだろう。

 そして、もし私が再び飛び込めば、何も聞かずに全てを受け入れてくれる。

 侑は知っている。

 仁が自分から私に手を出さないって。だから、彼は仁に対してなんでもなく振る舞える。

 雄同士ではなく、血を分けた仲の良い双子の兄弟として付き合える。侑と仁は、たぶん私が理解出来ないもので繋がっていると思う。

 たまに、彼らはどっちがどっちか自分たちでも混乱する時もあるんじゃないのかな。……って、あるわけないか。

 そして高校生の仁兄が比和子に会いに出てくることは無くなり、二度目に会ったセンセーは『寛解期』だと言った。とりあえずセラピーは終了で、それでもきちんと様子を見るように、と。

 仁は苦しみを乗り越えかけている。

 確実に前に進んでいる。でも私は……私の時間が遡っている気がしてならない。

 あの頃に戻ってやり直したいと思っている自分の存在を強く感じないではいられない。

 中学の、あの夏に戻って。やりなおしたい? 

 どうなれば後悔しなかった? 

 このままあの時にもどったら、今は幸せになれていた? 

 今頃、誰か血のつながらない男と微笑み合ってた?

 ねえ、仁兄は私を抱いたら、本当に自分の気持ちに蹴りをつけられたの? 

 終止符を打って、思い出の欠けた部分をきっちり補正して、満足したの? 

 もう、私が欲しいなんて思わないの? 

 もっと私が欲しいと思わないの? 

 私に惹かれていた少年は姿を消してしまったの? 

 私の中の比和子は今必死で仁を探しているというのに。

 心にぽっかり穴が空いてしまって。それを埋めてくれるのは仁兄だと思っていたのに。

 仁兄しかいないのに。

 あの熱を思い出して、眠れない夜は自分一人、指先でしっとりとした熱を冷ますのに。

 仁兄を知ってしまって。このままで振り出しに戻るのは、いや。

 もう少しで、そのシャツの袖がつかめそうなのに。お願いだから、振り払わないで。

 私にはわかる。このままじゃ、本当にずっと兄と妹でいるって。

 電車のレールのように、枕木の上にどこまでも延びるそれは、一対でも決して重なることが無い。交わって、その上を走る「家族」という電車が脱線しないために。

 仁兄はもう二度と私を抱いてくれない。……『仁兄』は。

 隆兄は家庭を持ち、侑は私との関係を絶ち、仁の精神状態は安定している。

 客観的に見て、家族を取り巻く全ての状況は良くなっているはずなのに、私の胸の内はどうしてか落ち着かず、気がつけば疑問が次から次へと止めどなく溢れ出している。

 そしてそれに対する答えを教えてくれる人は誰もいない。

 私だけ、フラストレーションの日々。

***

 ミナミ店長はたまに仕事のあとスタッフの女の子たち(といっても私かエレンかさつきちゃん)を誘って飲みに連れて行ってくれる。

 今日も仕事が終わると、店長の年下の恋人が給仕のバイトをしている『スペインバル』、スペインスタイルの飲み屋のバーのカウンターに二人並んで座った。

 お酒と、イワシの唐揚げ、生ハム、トルティージャを頼んだ。

「なんか最近、煮詰まってる?」

 店長はカクテル、私は白ワインで乾杯をしたあとの一言めがこれだった。

 彼女は商才もあるけれど、なにしろ勘がいい。

「わ、わかります?」

「わかるわよ。比和ちゃん顔にすぐ出るから」

「え、仕事に差し支えるくらいですか?! 不覚!」

「んー、そうでもないんだけど、ほら、商品畳んでいるときとかたまに、手を止めて『はー』ってため息ついてるし、その、肩のあたりに……」

「つ、憑いてますか?! 店長、見える人ですか?!」

 ぷ、とミナミ店長はグラスを口に持って行きながら吹き出した。氷がカラリと音を立てる。

「違うけど、私は古い女だから。で、恋人の事でしょ?」

「ええ! いきなりピンポイントですか!」

 ミナミ店長はロングアイランドアイスティーを喉を鳴らして飲んだ。

 彼女はグラスを置き、アクアのシャドウで彩られた大きな目でじっと私を見つめている。

 私はごまかすように少し微笑んだ。言葉を選びながらぽつりぽつりと話し始めた。

「ずっと好きだった人と別れました。すごくすごくすごく好きで、一緒にいた時間もとても長くて、私の一部みたいになってた人なんです。その人と別れたとたん、いつも側にいた、えーと、……幼なじみみたいな存在の人に気持ちを打ち明けられました。彼のことはそんな風に見た事が無かったから、すごくびっくりして……でも、振り返ってみると、確かに私をいつも見ていてくれてたって思い当たる節がいくつもあって……私はそんな彼に辛くあたったことが多々あったし、傷つけたこともあったのに、彼はずっと側にいたんです。それが……彼の優しさが見えなかった……包まれていた優しさにいまさら気がついて、自己嫌悪も遅いんですけど、なんか、……もうどうしていいか分からなくて……」

 ちょっと待って? 店長が挟む。

「じゃあ、その人と一緒になるの? だって、比和ちゃん最初の人と別れたんでしょ? 今フリーなんだからその幼なじみ君と付き合っちゃえばいいじゃない。どうして悩んでいるのかわからないんだけど」

「うーん、それは、だってAが駄目だからBに、ってすぐに気持ちって切り替えられます?」

「まあ、大学受験だって滑り止めがあるんだから? いいんじゃない?」

「それだけじゃないんですよね……まあ、悩むところはいろいろあるんですけど、一番大事なことは、彼の中で完結したらしいんです。私への気持ちが。『好きだった』って、過去形で打ち明けられましたから。だから、もう、どうしようもないんです。私のほうが始まっちゃったら、だめなんです。せっかく彼が悩み抜いて出した答えを無にしちゃうし、もともと、一緒になれないように出来てるんです」

 『一緒になれない』と言葉に出すと、本当にそうなんだと胸が詰まる。

「ええ? 何なのそれは。ちょっと、ちょっと。欲求不満ねえ、その完結の仕方って。消化不良だわ。ねえ、もし比和ちゃんがその人のこと好きならね、自ら飛び込んじゃえばいいのよ。彼の胸のなかに。彼はもしかしたら、完結させたんじゃなくて、まだ未練タラタラだからこそ、自分で区切りを付けるために、過去形で比和ちゃんに心中打ち明けたんじゃない? 一応、自分では結果を出したけど、”さあ、比和子はどうなんだ”って。でも比和ちゃんに決断を迫るわけに行かないから、聞けない。……私はそんな気がするわ。だから、彼は比和ちゃんの出方を見ているような気がする……辛酸を舐めてきた年上女としての勘ですけどね!」

「いやーだ、店長、若いのにー辛酸を舐めるとか、優雅な店長からそんな言葉、信じられませんー」

「『若く見える』と『若い』は似ているようで全く違いますから。ええ、三十も真ん中あたりにくると今まで見えなかったものが、いきなり見えちゃったりするから、もー、そりゃあ恐ろしいわよ」

 私の胸のわだかまりを吐き出させてくれて、なおかつ引きずらないようにさらりと話題を変えてしまうスマートな手腕を持つミナミ店長は、やはり頼れる憧れの女性だ。

 きっと、彼女はまったく姿を見せなくなった侑兄と私の間に、何かあったとうっすら感づいていたに違いない。

 それからそのことは一切話題にせず、代わりにミナミ店長の男性遍歴を肴に飲み続け、〆にホタテのリゾットを頼み、デザートの変わりに『バラキート』を初めて飲んだ。その飲み物はスペインでも特にカナリア諸島で愛されるスタイルだと店長の彼氏は説明してくれた。

 十センチあるかないかのすとんとしたシンプルなガラスのコップに、下からコンデンスミルク、コーヒー、飾りにホイップクリームと綺麗に三層になっていて、その上にシナモンパウダーと、小指の先ほどのレモンの皮が乗っている。立ち上るぴりっとシナモンの香り。こっくりとした甘いコーヒーのあとに、レモンのさわやかな香りが鼻に残る。ラムかな? リキュールの気だるい舌触り。甘くて、爽やかで、熱くて。美味しい……。

 どうしてレモンの皮なんだろう。どうしてライムじゃないんだろう。それは、飲んでみれば分かる。飲んでみなければ分からない。

 グラスワイン三杯で気持ちがよくなった。そしてバラキートのラムが意外に効いてた。

 足が軽い。駅からは温かい春風をかき混ぜながら家までふわふわ歩いて行けそうだったけれど、さすがに日付も変わる時間だったから、タクシーで帰った。

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