侑兄は私と兄妹で良かったと言った。
仁兄は私と兄妹であることを残念に思っているようだ。
この違いって、なんだろう。
私の仁兄への気持ちは、一度だけ体を重ねることでなんとか収まる予定のはずだったけど、残念ながらどんどん大きくなるばかりだった。
仁はまるで何事も無かったように振る舞っている。ほんとうに、あれは本当だったのかと思うくらいにもう、それは見事に。
一人だけそうやって大人ぶって。なんでも綺麗に割り切ろうとするなんて。
——ずるい。
冷蔵庫からビールを出す仁の背中に、居間で映画に見入る横顔に、サンタクロースの髭よろしくシェービングクリーム塗れの、鏡に映る顔に向かって何度その言葉を胸の内で吐きかけただろう。
でも、目が合うと彼はにっこりと微笑む。
——視線で殺す気か。
悪態をついてしまうほどに憎いひと。
愛しいひと。そのTシャツを、脱がしたい。
髪に触れたい。……でも結局私には手に負えない。
その後、一度、侑兄とのセックスを避けた。
かつて一度も、たった一度も無かったことだ。
生理中だって言ったら、もちろん私のサイクルをきちんと掌握している侑兄は眼差しに訝しげな色を浮かべた。でもそれはすぐに消えた。私は慌てて言いわけで防御する。
「あ、ピル飲み忘れちゃって。飲み始めてまだ慣れないから。最近忙しかったし」
「そっか……」
それでも、やっぱりその次の週には侑兄に抱かれた。
そして、ちゃんと感じたし、私も侑兄も達した。
もしかしたら私はいつもよりも興奮していたかもしれない。
また、同じことの繰り返し。
私の中の仁が薄れて消えて行くのもきっと時間の問題。そう思っていた。
桜前線がニュースで聞かれるようになった。庭木の黄緑色の小さな芽が可愛い。
仕事が休みだったから久々に予約したサロンに行き、カットとトリートメント、カラーリングと一気に済ませた。商店街で夕食用にコロッケとメンチカツを買い、ミステリーの文庫本を帰ってきた。
さっぱりさらさら、女度上がったのは満足だけれど、それだけで午後いっぱい潰れてしまった。
お米をセットしたあと、家族が帰って来るまで誰もいない家でポテトチップス片手に映画観賞。こんな気の抜けた時間も『魂の洗濯』と私は呼ぶ。
「比和」
一人きりだと思っていたのに、いきなり後ろから名前を呼ばれて体が跳ねた。
慌てて振り返ると、侑がスーツのジャケットを手に立っていた。
「びびびっくりした! 何?! 上にいたの?! 仕事は?! 打ち合わせで直帰?!」
侑は私の質問には何も返さず、とても落ち着いた様子で片手で前髪をかき上げた。
「僕、今夜父さんに食事に誘われてる。多分、春川のお嬢さんも来ると思う。あっちも親同伴でね。行くならそろそろ出掛けなきゃいけない」
一瞬、『春川のお嬢さん』が誰だか思い当たらず、ひらめいた時にはまさに頭の中で『ぴーん』と鳴った気がした。
お見合い相手……『春川のお嬢さん』。そんな存在、すっかり忘れていた。侑兄は理由無く人を誹る男じゃない。でもその口調は慇懃ではありながら、彼女をどこか誹謗するような冷淡さもあった。
「何で今日?! 今? そんな急に……」
「咄嗟に決断を迫られたら人は直感で、正直な答えを出すと思うんだ。比和が行くな、と言ったら僕は行かない。父さんも向こうも怒るだろうね。多分、もう春川さんも僕とは会わなくなるだろう。僕はそれでも構わない。比和は……」
何言ってるの? 侑兄。
ちょっと待って。言っている意味がよく分からないんだけど。それはどういうこと?
親同伴? 大人の男女が食事するのに親同伴?
ああ、テレビがうるさい。考えがまとまらない。
私はリモコンを取り、テレビを消した。ソファを挟んで彼は静かに私を見ている。そのとき、やっと彼の意図が分かった。
つまり、「もう白黒させようよ」そう言いたいんでしょ。侑兄は。
『春川のお嬢さん』は単なるきっかけみたいなものだけれど、つまり、大人になった私の意志でこれからもずっと侑兄と一緒にいるのか……。
私に決めさせるなんて、ずるい。
そう言いかけて、口を固く閉ざした。
だって私の中では答えは決まっていたから。仁兄と話をしたときに、心は答えを出していた。セックスした時に、確信した。
そして……聞かれたから、答えた。
「……食事に、行って来て」
侑兄は一度ゆっくりと瞬きをし、普段と変わらない声色で言った。
「じゃあ、また。……来世でね」
「……異世界でもいいね」
笑えない、とてもくだらない冗談だったけど、何かを言わないと崩れそうだった。
彼は肘にかけていたジャケットに滑らかな裏地の衣擦れの音をさせて腕を通した。彼が居間を出て行く背中と、玄関を出て行く姿が重なる。
如才ない男の上背が薄い光と一緒にドアの向こうに消えるのが眼に浮かんだ。
私と一緒に選んだポールスミスのスーツを着て。私が何度も脱がしたブルックスブラザーズのシャツを着て、他の女に会いに行くんだ。
玄関のドアが閉まる音で私の思考がシャットダウンした。
かくん、と膝の力が抜けるままにソファに座り、しばらく自分を映すテレビの液晶画面をぼーっと見ていた。
傾きかけた陽の、黄色い光の中をさっと小さな鳥の影が横切った。我に返ると同時に、私の体は弾けたように動き出していた。玄関のシューズボックスの上にある鍵をつかみ、物置から自転車を出し、跨がる。
住宅街を、商店街を走り抜け、とにかく自転車を走らせた。
どのくらい走ったのか……侑兄を追って駅へ向かっていると思っていたのに、気がつけば反対方向へ向かっていた。それだけ気が動転していたのかと、一人おかしかった。
もう、間に合わないんだ。
橋が見えてきた。がむしゃらにペダルを踏むのをやめて、橋のたもとまでゆっくり漕いだ。
視界の水位が上がって来ているのは、涙のせいじゃない。川が、見えて来ているからだ。そう思おうとした。
河川敷の砂利道で自転車を降り、とぼとぼと引いて土手の中腹まで下りると、それを横倒してから側に腰を下ろした。
川面が桃色に輝いていた。私は立てた膝に腕を載せ、顎を預けてそこにいるはずの無い兄たちの姿を見た。
小さな双子と、それよりも背の高い隆兄。川岸の空地で三人が野球をしていても、小さい私は仲間に入れてもらえなかった。
仕方なく土手に体育座りをすると、雑草がスカートの中の脚をくすぐった。仁が空振りして、侑はボールを取り損なって尻餅を着き、隆兄は必死でボールを追いかけ、セイタカアワダチソウの茂みに突っ込んで行った。
そんな光景を高みから見てるだけでも楽しかったのに。そんな関係はもう今じゃ夢だったのかと思う。
彼らの面影は、だんだん滲み、ぼやけて川の流れに消えていった。
溢れた涙は鼻の脇、口角を通り過ぎてぽたぽたと落ちた。
いきなりジャケットのポケットが震えて、心臓が止まりそうになる。携帯、入れっぱなしだったんだ……ディスプレイは仁兄の着信を知らせていた。鼻をすすりながらそれを耳に当てた。
「なに?」
「オレの運転で、飯食いにいくとか、どう?」
「車なんてないでしょ」
車なんて誰が言ったよ、と携帯からではなく、上から声がし、見上げると真上に仁の顔が覗いていた。
濃いネイビーのスーツ。ボタンを一つ開けて開放的なライトブルーのシャツ。ノータイ。普通のリーマンのなりなのに、どこか普通のリーマンぽくない。
チャラけた、とはまた違う。そしてなぜか足下はくたびれ気味のケッズのスニーカー。
ポケットに両手を突っ込んで私を見下ろしている兄の目が、薄ら笑いで三日月になる。
「あ、あれ?! 仁兄、なんで?!」
「おまえのことならなんでもわかる……ていいたいところだけどな。ま、種明かしすると、GPS機能」
「ええ?! いつの間に?!」
「まあ、女子高生の身の安全を案じてだな、おまえが風呂入っている間にGPSオンにしておいた」
「な、なんで本人に断りなく裏でこそこそするかなあ! 子供じゃあるまいし」
「まあいいじゃん、実際今、おまえ救えた」
「救えたとか、別に困ってないのに正義の味方気取りするな。スニーカーなんて履いて」
「泣きはらした顔でそういうこと言うな。革靴で走れるか、馬鹿」
「馬鹿は言った本人が馬鹿なんですぅ」
再び自閉のポーズ、膝を抱えて背中を丸める。
「……あのさあ、よく考えたんだけど。おまえが侑を好きでも、オレにとっておまえは一人の愛すべき妹っていうのは変わらない。だから兄として、泣いている妹にハンカチ渡したり、頭撫でたりして慰めるのは当然オレの役割だ、と思っておまえを探してみた」
「じゃあ、ちょうだいよ、ハンカチ」
「持ってねーよ」
「意味ないじゃん」
「商店街でもらった消費者金融のティッシュならある」
「なにそれ……」
そう言いながらも、手の平を肩の上でひらりと後ろに翻すと、その上にぽふっとポケットティッシュが置かれた。
本当に、金融会社の広告が入っている。それで思い切り鼻をかむ。斜め後ろに立つ仁兄が苦笑しているのが気配でわかる。
ほっとする。正直、仁兄が来るといいなと、来るかもしれないと心のどこかで思っていたのは、彼が来てもさほど驚きもせず、文句を言いながらも素直に受け入れられた自分がいたのが証拠だ。
そのとたん、どうして捨てられた子供のように自分が泣いていたのか、その理由がよくわからなくなっていた。
「侑、行かせたんだな。おまえ、ちゃんと考えてたんだな」
ああ、そうだった。侑兄が行っちゃったから。
「仁兄には当然こうなるのわかってたんでしょ」
でも、どうして私は死ぬ気で止めなかったんだろう。止めたら行かない、ってわかっていて。
侑兄もそう言っていたのに。
侑が背中を見せて出て行った時は本当に、心臓が抉り取られたように自分の中がからっぽになった。そしてすぐに寂しさがその穴からじわじわ滲み出て来た。それは、嘘じゃない。
「……侑にだって別の選択肢はあったはずだ。いや、もうやめようぜ……なんか食いに行こう。腹減ってたらろくなこと考えないからさ」
でも、今は。仁が私の側にいて。
ずっとずっと前から側にいて。いつも見ていてくれて。
すでにサブリナパンツは露でしっとりと水分を含んでお尻に張り付いていた。
「ばか、こんなときに食べられるわけないでしょ。一人にしておいて。それも優しさだよ」
「お前の意見は却下。いいから、行くぞ。いつまでもここにいられないだろ」
仁兄は私の傍らに倒れていた自転車を起こして向きを変えた。腕を引っ張り上げられ、重い腰を上げる。自転車を引く兄の後についてのろのろと土手を登って道に出た。
「はい、乗ってください、お客さん」
仁兄はサドルを跨ぐと、肩越しにニッと笑った。
夕日なんか背負っちゃって。日に透けた髪の色が無駄に綺麗なんだよ……。それに爽やかに笑う雰囲気じゃないでしょ……空気読め。
そう思っても、なんだか疲れてしまって、言葉を発するより言いなりになった方が楽だった。
私が後ろに座ると、仁兄はペダルを踏んだ。
ぐん、と体が後ろに引かれ、慌てて兄の生地に張りのあるジャケットを掴む。仁の使っているベチパーのウッディーな香りが夕日に包まれながら甘く鼻をかすめる。
「しっかり掴まってくださいねー」
のんきな声に頬が緩みつつ、すぐに思い直して、見られることはないのに渋い顔を作って兄の腰に腕を回す。
お腹の、シャツ越しの固い筋肉の感触に心臓が早鐘を打つ。体の奥がきゅっと縮む。それは、食欲にとっても似ているけれど……。
「ていうか、仁兄、仕事は?」
「定時で帰って来たが?」
「そっか……陽が、延びたね……」
耳をぴったりと仁兄の背中につけて彼の鼓動を探す。
——ねえ、仁兄はどこにも行かないよね?
件の食事会の直後、侑兄は地方の設計士対象のセミナーに参加して二週間ほど家を空け、帰って来たと思ったら事務所の近くに部屋を借りて一人暮らしを始めた。
段ボール箱に自分の荷物を詰める侑の背中に「私のせい?」って聞く。
「いや、一人暮らししてみたいから。仁ばっかりずるいじゃないか」
肩越しに少し微笑んだだけで彼は再び荷を選り分けている。
「あの人と結婚するの?」
「どうかな」
侑の部屋の入口に体を預ける私に、もうかけるべき言葉は無い。
いや、ひとつだけある。
——行かないで。
今からでも取り返しがつくのか。きっと、遅くはない。侑兄は『比和は寂しがりやだな』っていいながら抱きしめてくれるだろう。でも、その言葉は喉の奥に引っかかって出て来ない。侑の背中が、遠い。