思春期 2

 ***

 出張の朝、着替えの入った少し大きめのショルダーバッグを斜に掛け、テイクアウトのカフェラテを片手に品川駅から「のぞみ」に乗り込む。

 あっという間に過ぎ行く光景を、窓から目を細めてただ眺める。

 寒気に澄み切った青空から朝日はどこまでも降り注いでピカピカと家の、商店の、工場の窓に反射する。

 たまに目についた看板の名前が級友の名字だったりすると、ふとその子のことが思い浮かんだりもした。 

 そういえばたった一人になるのは初めてかも知れない。

  私が一人になっても『孤独』を感じないもう一つの理由があるとすれば、侑がいつも側にいるからだ。

 産まれた時から家族に守られて、優しい両親に、兄たちに囲まれて育って。

 それが中学で……侑兄に無理矢理抱かれて。直後は彼が怖かった。

 でも、時間が経てば私はきちんと彼を理解した。

 彼は私を傷つけようとしたのではなく、私に対する思いに突き動かされたのだと。

 それからずっと私の恋人で。かけがえの無い人で。

 侑兄に守られながら、また、いつでも侑兄を追いかけてここまで来た。セックスも……始めての人も侑兄だったし、侑兄しか知らない。……隆兄と、一度したけど、あれは侑兄との関係を守るためだったし……私は侑兄しか欲しくない。

 侑兄にとって私が全てで、私にとって侑兄が全て。この関係を壊さないようにずっと守り続けていた。

 守り続けていれば永遠に壊れない。

 そう思っていたのに……侑兄と私の心は絶対に変わらない。……それなのに、揺らいでいる自分がいる。

 自分が、どこに行けばいいのかわからなくなっている。

『……そうやって手塩にかけて育てた娘の孫見たいって普通思うだろ。好きな人と結婚して家庭を持って幸せになって欲しいって母親なら。そういうことを考えてるのかって俺は言ってるの……』

 隆兄に抱かれる前の言葉がはっきりと蘇る。

 そして先日仁兄からも父親の気持ちを代弁するような話が出た。それはつまり、私と侑兄との未来はないってこと?

 京都駅から徒歩五分のホテルで荷物だけ預かってもらい、その足で会場に向かった。地下鉄で二十分。

 広い会場には自慢のアイテムを陳列したブースが数多く設置され、それらの魅力的な服や小物に心も眼も奪われる。限られた時間でなるべく多くをチェックしたい。気持ちはビジネスモードにスイッチ。

 まず店長に指示された通りのレーベルをチェックし、コンセプトを聞き、名刺を交換し、気になる商品をオーダーする。物に対するスタッフの情熱に共感しながら、ショップのテイストの合ったレーベルをピックアップしていく。

 午後には中央のステージでバンドがフレンチポップを披露し、ミニファッションショーが開かれ、会場は一気に盛り上がった。

 ——楽しい。この仕事に就いてよかった。

 店長に誘われて流されるように決めた仕事だけれど、でも、自分で決断したことには間違いはなかった。

 肉体労働だし、華やかに見えて実は意外と地味な努力が必要な仕事。

 売り上げはすぐに数字に表れる。お客様のクレームもある。

 楽しいことばかりじゃない。でも、自分で決めたことなら、自分でなんとかする。

 そして何とかなる。今回の視察も店長が少なからず私に期待しているんだと思う。期待に応えたい。もっと責任を持ちたい。自分で、選べるようになりたい。

 ……仁の言いたいことって、こういうことだったの? 自分で選んで、自分で責任を持つ? 自分で責任を持つなら、侑でも……仁でも?

 二時にお昼休憩で四条まで出て、老舗のお蕎麦屋さんに入った。そのあと足をのばして、くずきりで有名な甘味処でお茶をする。

 しばらく並んでから、お薄と生菓子を頼んだ。お薄はすっと喉を通り、その爽やかな苦みに、物を見過ぎて疲れていた頭がスッキリとする。

 コーヒーは強引にぱきっと覚醒する感じで、お茶はじわじわと意識が戻るように感覚が覚めていく。

 会場に戻ったあとも閉場時間ギリギリまでブースを見て回り、翌日は午後早めに切り上げて少し観光をした。

 いつもと違う景色、違う光、音、匂い、食べ物、水。

 そういった全てが刺激となって、今まで気がつかなかったことや新しい思考を導き出す。

 ちゃんと自分のするべきことをして、きちんと食べて、体を動かして、よく寝て。

 そうすれば絡んだ思考は自然と解ける。

 疲れた頭と体では雑念が入り込んで邪魔をするだけ。秩序ある生活と健康な精神を持てば自分の行くべき場所は自ずと示される。

 大丈夫。自分を信じて……帰ったら、仁兄とちゃんと話し合おう。もう少し、私たちの曖昧な部分を、私の知らない仁を知って、決めよう。

 和菓子や漬け物、家族の分はどうしても食べ物になっちゃったけれど、お土産をたくさん買い、午後七時に上り方面ののぞみに乗った。

 しかし旅って、すごい。

 あっという間に頭の整理が出来てしまった。

 車内の灯りで鏡になった車窓にぼうっと浮かぶもう一人の私の瞳は黒く、吸い込まれそうに澄んでる。

 出張の翌日、午前中に約束をしていた「センセー」は私に仁のカウンセリングの進み具合を話し、それから簡単に私の普段の生活や仕事の話を聞いた。

 探る、というよりも軽いテンポで短い質問が挟まれたそれは、世間話の延長のようなものだった。

 精神科で何を言われるかと身構えていただけに、いささか拍子抜けしたほどだ。

『お兄さんは、よく妹さんの、あなたのことを話します。そのときの顔つきが、違うんです。彼は自分の感情を見せる部分と隠す部分のラインをきっちり決めるタイプなんですが、あなたのことを話す時は、それがぶれるようで……感情があふれると言うか。彼は本当はもっとあなたとコミュニケーションをとりたいと思っている、しかしなぜか未だにそれを許していない自分もいる。あなたに流れようとする感情を深く埋め、葛藤となんとか折り合いを付けていたはずなのに、お母様の死で彼の中のバランスが崩れたことにより、埋めていたものが出て来てしまった。だから彼は不安定になり、あなたへの思いが一番強い時期に戻ってしまったんです。私が今日岩崎さんとお話をしたかったのは、それをお伝えしたかった。妹さんである岩崎さんあなたが、お兄さんと今後コミュニケーションの機会を増やしていけば、再びバランスが安定すると思うんです。いや、バランスをとっていたひとつひとつのものは統一に近づく。掘り起こしたものを均して、新しい土壌が出来上がる……』

 仁兄が私のことを? 

 私の知らないところで仁が私の話をしている。

 私の名前を発している。私の顔かたち仕草を思い浮かべて描写している。

 私の声も、もちろん彼の耳に渦巻いている。

 そうやって彼が私の話をする度に私は彼の中に生まれている——そう思うと心の隅がくすぐったくなった。こういうの、初めてかも知れない。

 やっぱり、早く仁と話したい。彼の心に触れたい。

 そして、それが出来るのは私だけ。

 仁兄と話し合おうと決心をしたものの、あっという間にクリスマス戦線に突入し、新年のセールが終わるまでは息をつく暇も無く忙しくて、やっと落ち着いて最初の休みが取れたのは成人式も過ぎてからだった。

 起きて、パジャマにスウェットを被った格好で階段を下りると侑兄が出勤するところだった。

 チャコールグレーのコートの肩に黒いスポーツバッグを掛けている。靴を履きながら背中を見せていた彼は私に向き直ると、私の手を取った。温かい手。私の指先はいつも冷たいから、兄の体温は私をいつも落ち着かせる。

「おはよう、比和。僕、今日、明日と出張だけど大丈夫だよね」

「あ、そうだったね。大丈夫って、仁兄のこと? 最近あまり症状が出てないじゃない。あれ、仁兄もう出たの。侑兄より先なんて珍しい」

「いや、そうじゃなくて比和が……」

 三和土に立つ兄と上がりかまちの私の視線はほぼ同じ高さ。

 垣間見えた彼の気弱な表情に私はとまどう。

「私? どうして?」

「いや、なんでもない。行ってくる」

 侑は私の肩に顔を埋めるように強く抱きしめた。

 廊下の奥でもう一人の私が、兄の腕のなかの少し困っている私の背中を見ている。

 お風呂から上がって寝室に入る父に、おやすみの挨拶をして二階に上がった。

 ベビーピンクの厚めのウールの靴下で足音はほとんどしない。

 ひっそりと静まり返った家に仁の気配だけを感じている。

 自分の部屋の前、不在の侑の部屋を通り過ぎて仁の部屋の前に立つ。すう、とひとつ大きく息を吸ってからノックした。

「仁兄、ちょっといいかな」

「なんだよ、改まって気持ち悪いな。金なら貸さねーぞ」

 寝る前の彼は長袖Tシャツにスウェットパンツと、リラックスした格好でベッドに腹這いになり、文庫本を広げていた。こちらに顔を向けもしない。

「それなら侑兄のところに行くよ。……あのね、センセーと話したことなんだけど……」

「あ……あぁ」

 仁は始めて体を起こしてベッドの上でごそごそと胡座をかき、居ずまいを正した。

「え、と。座ってもいい?」

「いいけど……」

 ベッドの端に座り、体をひねって仁の顔を正面から見た。彼は探るような眼差しで私を見ている。

「センセーが、仁兄がたまに私の話をするって言ってた」

 たまに、ね……と彼は自嘲の表現を控えめに浮かべた。

 私なりに気を使ってみたんだけど、どうやら筒抜けのようだ。

 まあ、本人のことだからこっちが気を使わないまでも自分が一番知ってるか……。

「あ……うん。で、私のこと、何を話してるのかなって思って。だって、仁兄と私って全然接触がなかったじゃない。それでもセンセーに話すくらいなら、よっぽど私の悪口かなにかかなって。一応、話題にしてるなら、私にも少しくらい聞く権利、ありそうじゃない?」

 彼を覗き込む私を馬鹿にするように一瞥し、仁は溜め息まじりに口を開いた。

「他人に家族の悪口言ってどうするんだよ……。別に、おまえが聞いても面白い話じゃねえぞ……ただ、ガキの頃の話とか、中等部、高等部の時のこととか。おまえ、けっこうモテてただろ。悪い虫が付かないようにオレが嘘ついて追い払ってやってたらおまえにバレて、ブチキレたよな。そういうこととかさ……まあ、アレはショックだったっつーか」

 彼は一つため息をつく。

「でもそうやって考えたら侑のほうはいつもうまく立ち回ってて、いつの間にかおまえともうまくやってただろ。アレはもっとショックだったから、まあ家出たんだけど……あ、そんなことは話してないからな。オレ、ウチに戻って来てもうちょっとマシにおまえとやって行けるかと思ったけどやっぱ、アレだな。人ってそんなに急に変われないのな。おまえと話す時は相変わらず調子が狂う。おまえ外身はずっと女らしくなったけど、ぽやんとした鈍いところは昔と変わってねーし。呆れるくらい中学生のまんまでさ」

 なんだか急に告白じみたトーンは、不意打ちに私の胸をときめかせた。ちょっと、反則だ。

「中身は学生時代と変わってないのはお互い様だと思うよ……」

 慌てて言葉を返すものの、中学の思い出がフラッシュバックする。

 目を閉じれば、浮かぶ——中庭を横切る渡り廊下。

 バスケ部のドリブルと、バッシュが磨かれた床に擦れるキュッキュというくすぐったい音。剣道部のかけ声。放課後の教室、京とおやつを食べて、ベランダから見た薄くオレンジに染まった空。

 グラウンドでスパイクに履き替える仁の背中。侑兄のスケッチブックを滑る手——。

「まあ、言われりゃそうかもな。オレも成長してるようでしてないか。……なあ、比和。歳をとったら楽しいことなんか減るばっかりだ。スキルは増えるけどさ。遊びにしろ、仕事にしろ、人間関係にしろ。うまく行くやり方とか。でも中学高校大学って、ああいう、全力で自分のことだけ考えてればいいっていう時間はもう永遠に来ない。だから成長しても一番楽しい時でオレたちは止まっている。でも、それがあればこの先なんとかやっていけるんだ。侑は、一番いい時期におまえにのめり込んだ。とことん、好きなものに好きなだけ打ち込めた。だから、あいつはおまえからいつでも離れられるんだよ。いつかはけじめをつけられる。オレは……それが出来なかった」

 下を向いていた仁の顔が、急に私に向けられた。「一度だけしか言わねえからな」と前置きをした。強い眼差しに、私は狼狽えながら頷いた。

「彼女作っても、いろんな女とヤッても、オレはおまえをどこかで探していて。そうすると、もう相手のことがわからなくなった。オレの欲しいものがそこには無いとわかると、もう全てが面倒くさくなる。……そんな自分がイヤになって来るんだ。告白ついでにヤバいシスコンぶりをひとつ披露してやろうか。オレの歴代の彼女たちには、おまえと同じシャンプーとコンディショナーを使わせてた。おまえの匂いでやっと勃ったってカンジ。そんなんでオレの気持ちはおまえの周りでいつも彷徨っていた。お前のことを見ないように、遠ざけようと思っていても、引かれる力に抗えないときもあって……オレはいつもふらふらしてた。だから、今も彷徨っている。……おまえに執着するわけだ。一番いい時期を取り戻そうとして。ま、ある意味ホントに病気だよな。それがハッキリわかったからもういいんだけど。セラピー通してオレの中できっちり割り切れたよ。いつまでも彷徨ってるのも自分だって受け入れることが出来たし、そしたらこれから、そんなオレとうまく折り合いをつけられる。自分その部分を否定することもないし、無理にしまい込むこともしない。いずれは小さくなって昇華されるだろう。まあ、だからこうしておまえに開けっぴろげに格好悪い話が出来たわけだけど……これからはもうおまえに迷惑かけない……ってことでこの話はもうお終い。ご清聴ありがとうございました」

 彼は淡々と一人で話し、歯を見せながら私の頭をくしゃっと撫でた。その瞬間、胸の内に穏やかでない感情が渦巻いた。

 は? 何言ってるの? 何勝手に終止符打ってるの。

 私にそんな話振っておいて。私の気持ちなんかそこに含まれてない。私はあなたに流れ始めた気持ちに大分前から気がつき始めて、それを持て余していたのに。

 そんな私をそうやって簡単にあしらうの?

 私は頭上の手を払って頭を軽く振ってから、彼を見据えて静かに言った。

「……やろう。ね、やろうよ」

「やろうって何を」

「セックスだよ、ばか」

「お、おまえ兄に向かって馬鹿とか……てか、何言ってんの……おまえ、今の話聴いてた? オレはもう折り合いついてんの。いろんな意味で。侑がいなくてさみしいからってオレに絡むな」

 彼は困ったように笑いながら再び私の頭に手を伸ばした。私はそれを顔の横で払った。

「嘘だよ! 折り合い付いてるとか。人の気持ちなんて……誰かを好きっていう感情はそんなにあっさり切り捨てられるものじゃない。じゃあなんでそんな眼で見るのよ。侑兄と同じ眼だよ。侑兄と同じ眼で私を見てる。折り合いつけたって……カッコ付けないでよ。まだぐだぐだなくせに。仁兄がいつまでもそんなだから、私が安心して侑兄と一緒になれないって言ってるの。そんなに私が好きだったんなら一回やって気持ちの清算でもなんでもして、ケリつけて。ショック療法で治るかもしれないでしょ。治んなくてもヤッたってだけでも気が済むでしょ! いつまでもつまらない過去に捕われてるから病気になっちゃうのよ! お願いだから、もとに戻ってよ……私のために」 

 仁兄の表情が固まっている。

 美しい彫像のように目はどこも見ていず、微動だにしない。

 そんな姿を見て私は言い過ぎたことに気がついた。

 でも、一度発してしまった言葉は飲み込むことは出来ない。

「……そうか、どうしたっておまえには侑なんだよな。気持ちの整理ついた、ってオレが言ったところでそれは独りよがりでしかないもんな。おまえにとっては気持ち悪いよな。むしろ一発やらせてすっきり諦めさせたほうがマシだと」

「違う……そういう意味じゃない……ごめん、私がどうかしてたの。なんか、いきなり好きだったって言われてビックリしたし……仁兄、そんな素振り全然なかったから……あ、私、疲れてるみたい。思考がついて行かなくて……八つ当たりしてごめんね」

 私の支離滅裂な弁解を聴きながら、仁の眼に光が戻ってくる。

 口元には卑屈な笑い。

 私は怖くて腰を上げた。仁は素早く私の手首をつかんで引き戻す。ベッドのスプリングがやさしく私の背中を受け止めた。

「あ……」

 ベッドに押し付けられた両の手首が、痛い。仁が上から私を覗き込む。

 こういうこと、前にもあった……たぶん、そこから私の中で何かが少しずつ、ほんの少しずつ変わってきたんだ。

 仁の顔を見ながら、それを今さらはっきりと認識する。

「いいかもな。せっかくの申し出だ。確かにショック療法とか……うまいこと言うな」

「冗談よ……やめよう? お父さん、下にいるんだよ」

 私は笑おうと努力した。

「この時間ならもう寝てる。比和、オレが治ればおまえと侑が何の気づかいも無くうまくいくんだろ? そう言ったよな。なら、我慢しろ……」

 私の上に覆い被さったまま仁は遠慮無しに唇を貪り始めた。まるでそれが自分の権利でもあるかのように。 

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