時を駆けるうさぎ 1

 仁兄が家に戻って来たのは、彼が大学を卒業して半年ほど経ってから、彼のアパートの賃貸契約が切れたタイミングでだった。

 再び侑、仁、私の生活が戻ってきた。ごく自然に。

 もう、仁は脅威の存在じゃなかった。

 彼の纏うオーラが変わった気がした、と言ったら大げさだろうか。強いていえば、落ち着きがあった。それは侑の見せる「余裕」とはちがい、どこか「諦めた」感じの。以前には無かった、そういう雰囲気を持った彼はなんだかとても大人びて見えた。

 ある日、大学から帰ると仁兄がキッチンのテーブルで生地を練っていた。ワッフル素材のスモークブルーの長袖Tシャツを肘まで捲り、肩をすくませて、打ち粉をした生地に手を突っ込んで、一定のリズムで体を揺らしていた。

「な、何やってるの。仁兄、仕事は? お母さんは? 今日休みでしょ」

「打ち合わせで直帰。母さんは友達と映画に行った。見てわかるようにオレは今ピザを仕込んでいる。今からだと夕飯にばっちり間に合う」

「はぁ? ピザなら宅配でいいじゃない。ま、いーか。手作りピザ、美味しいよね」

「お前の分は、たぶん、無い」

 彼は顔も上げずに、生地をたぐり寄せては、腕をピンと伸ばしてテーブルの上で押さえ込んでいる。

 体が動く度に、茶色い前髪も揺れた。

「なにそれ。社会人になったかと思えば、まだそういう子供みたいな意地悪するんだ」

「いや、おまえバイトかと思ったし。バイトだと食べてくるだろ」

「えー、それでも普通多めに作るでしょ。いいや、私もやろう。楽しそう」

「じゃあ、オレがイースト準備してやるから手洗って、粉が付いてもいい格好してこい」

「お、ちょっと罪悪感あるとか」

「なわけねーだろ」

 イーストを混ぜ込んだ、まだぐちゃぐちゃの生地を練り始める私と背中合わせで、仁はフライパンにピザソースを作っていた。ニンニクをたっぷり入れて。

「なんか、本格的だね。もしかして、そのバジリコの鉢もこのために買って来たとか?」 

 シンク脇にちょこんと置いてある鉢の、繁る光沢のある丸い葉から、それだけで食欲をそそる芳香が漂っている。

 それが仁兄のトマトソースの香りに絶妙にマッチして、胃が空腹を訴え始めた。

「悪いか」

「悪くありません」

 私は声を殺して笑った。

「でも、打ち合わせして直帰っていい会社だね。お父さんところ、暇で危ないの?」

「バカ。今はたまたまオレの仕事が少ないだけで、立て込むと仮眠室が合宿所になる。給湯室でヒゲは剃れるが、シャワーは無いからそこは想像に任せる」

「なんか想像したくない……あ、仁兄ごめん、痒い。右目の、下のところ掻いて」

「自分で掻けよ」

「だって、手、べたべた……」

 彼は「ピザも焼かないうちから世話焼かせるな」、と変なことを言いながら体を私へ向けた。

「どこ」

「右目の、頬の上の方」

 きちんと爪の切られた指先が、軽く肌を掻く。あれ、仁兄、会わなかった四年間でまた背が伸びた? 

 心のどこかでまだ警戒を解いていなかった私は、まだなんとなく仁を避けていた。

 それでも一緒に暮らしていれば、いやでも彼の変化に気が付く。仁は少し痩せたようだった。

 不健康に痩せた、そういうことではなく、無駄なものをすっかり取り払ったような。

 野性味を帯びた、と言うか——例えば、飼い犬が森で迷い、そこで狼の群れに加わり共に生活していくうちに野生化した——戻って来た犬は尻尾を振りつつも、目覚めた本能の光は目にちらついていて。犬は隙を見せたら野生に戻り、のど笛を噛み切ることもある。

 天を仰ぐように仁を見上げているとそんなことが頭を横切った。

 ジャック・ロンドンの「白い牙」を読んでいたせいかもしれない。そして久々に二人の間に距離が無いほど近づいた実感で、どくんと心臓が跳ねる。

「あ、ありがと。もう大丈夫」

 直視に耐えられずに下を向くと、滑り降りた人差し指が顎にかかり上を向かせた。前髪の影のせいか、彼の瞳に憂いが浮かんで見えた。吸い込まれるようで目をそらすことが出来ない。

 声が出せないままでいると、すっと顔が下りて来る。

 顔全体が捉えられなくなり、美しい鼻梁が、そして静かな眼差しだけが迫ったとき、思わず目をつむった。唇の上に、吐息が掛かる。

 耳の奥で鼓動が脈打つ。

「……顔赤い。キスでもされると思ったか」

 兄の言葉にそっと目を開けると、まだ鼻の先で彼の瞳が揺れた。顎の一点に熱が集中しそうで、振り払いたいけどどうしてか動けない。

 彼はまだ指で顎を支えたまま、親指の腹を唇の上に滑らせた。はっと小さく息をのむ。思わず、物欲しそうに唇が緩んだ。

 顔に血が上るのをはっきりと自覚する。慌てて言葉を放つ。

「そ、そんなこと……からかうなんて……ひ、ひどいよ……!」

「しねーよ」

 指が、離れる。鼻先にニンニクの香りが残る。

 始めて気がついた。息をするのを忘れていたんだ。

「え? な……なんで?」

 そこは聞くところじゃない。何言っているんだろう。

「兄妹だから」

 フライパンのソースがぐつぐつ音を立て始めた。仁は背中を見せ、火を止めた。

「あとやっとくから上行ってろ。やっぱおまえ、邪魔」

 じゃあ、帰って来なければよかったのに。反射的にそんな言葉が浮かぶけど、それは私の本心じゃないから、言わない。

 彼の背中を見たとき、ほっとした自分がいたから。それに、何もされなかったはずなのに、何か自分の一部が仁に犯されたと感じた瞬間だった。仁の存在が、最も近づいた瞬間……私の領域に踏み込んで来たような。

 私が大学三年の夏前、家族全員が久々に食卓に揃った。そうだ。正確には家族全員とプラス一、隆兄の彼女が一緒だった。

 岩崎家で『ごちそうと言えばすき焼き』をした。隆兄が二十八歳。彼らはそのとき婚約していて、来年の春に結婚式を挙げることを両親に報告していた。私と隆兄は一度意味ありげな視線を交わしただけだった。『水に流す』そんな文字を私は彼の目に読み、彼は私の目に読み取ったに違いない。

 彼女は甲斐甲斐しく母親の手伝いをし、父や兄たちのグラスにビールを注ぎ足していた。

 ガスよりも私の眼力で火が通りそうになるほどに狙っていた肉を、仁がわざとさらったのをまだ覚えている。

 彼がそれをしらっと口に運ぶのを何も言えずに横目で見つつ、白菜に箸を伸ばした。

 彼女は『妹になる』私にも積極的にフレンドリーに話しかけていたけど、うまく答えようとすればするほど接客の模範的対応みたいになってしまった。

 彼女が嫌いなわけではなかったけど、単に興味が無かった。それよりも、仁が何か余計なことを言い出しはしないかと気が気ではなく、また、長男の彼女の、この家族の中ではやや浮き気味な会話に、丁寧に相づちを打つ侑の怖いほど穏やかな様子が気になって仕方なかった。

 その後、家族で顔を合わせたのは大学四年の春、隆兄の披露宴が最後だった。  

 ***

 大学卒業後、私はバイトからミナミ店長のショップに就職することになった。

 パソコンのキーを叩き、伝票の数字をチェックし、電話に出て転送ボタンを押して、上司に判子をもらう。目に見えず、微々たるものながら会社の利益に貢献し、自由時間をやりくりする人生を想像するだけでその未来に絶望していたから、ミナミ店長が声を掛けてくれた時にはありがたくお話を受けた。

 綺麗に磨かれて照明の光る店内に、納品された柔らかく、美しいデザインの洋服たちを並べ、可憐なミュールやアクセサリーをディスプレイし、お客様にフィッティングを勧めて会話を交わし、満足して買っていただく。

 お金を受け取り、ストックは減る。

 そういう、自分の目に見えて一日が過ぎる実感の中に安心を見いだしたかったのだと思う。

 私は母の死に目に会えなかった。

 店長の心遣いから、正社員になる前に休みを自由に取らせてもらえることになり、卒業旅行を兼ねて三月中旬から四月にかけて一ヶ月ほど、ロンドンに留学中の京のフラットに滞在することにした。

 語学学校に通いながら、美術館巡りやカフェ巡り、週末には少し足を伸ばして電車に乗ってロンドン近郊の田舎やお城を見に行った。

 そんな生活が三週間目に入ったころ。

 学校のあとシェパーズ・ブッシュにあるカフェに寄ってから帰ると、部屋で修士論文と格闘しているはずの京が険しい顔をして出て来た。

「比和、一時間くらい前に侑先輩から電話があったよ。戻って来たらとにかく家に電話するようにって。何時でもいいからスカイプ繋いでるからって」

 彼女の顔つきと声の緊張に胸騒ぎがした。今、日本は夜中の2時。私はキッチンでラップトップを開いてサインインした。

 急性心不全——。兄の声には疲れが含まれていたが、はっきりとした口調でことの顛末を簡単に語った。

 ——父と侑兄は出張で留守だった。母が倒れた夜、仁兄は友達と飲みに行っていて発見が遅れたこと。病院に運ばれて半日持たずに息を引き取ったこと。父と仁はまだ病院で、自分だけ先に家に帰って来た——それらはただ空しく私の中を通過して行った。足場が崩れて自分がどこかに落ちて行く。

『今から取れるチケットとって、とにかくすぐに戻って来い。カードで払って。でも、慌てることは無いから、比和。もう終わったことだから。比和になにかあったら僕は……』

 彼は一瞬言い淀んだ。これ以上不吉なことを口にしたくないという思いが伝わった。

『とにかく、こっちは大丈夫だから、落ち着いて』

 ——早く会いたい。

 彼の言葉を最後にサインアウトした。

 この会話の間に私は一体なんて答えていたのか全く覚えていない。

 多分、聞きたいことが多過ぎて何から聞けばいいのかわからなくなっていたか、『母の死』が頭の中でぐるぐる回ってそれ以外の思考が停止していた、のどちらかだと思う。ただ、サインアウト直前に『仁兄は……』と、口から出かかったが、結局それは飲み込んだ。

 すでに交信の切れたラップトップの前で顔を両手で覆って動けずにいた。

 とにかく現実味が無かった。兄の言葉通りに捉えようとしても、うまく行かなかった。

 気がつくと、京がお茶をいれたカップをラップトップの横に置いたところだった。

 隣に座った彼女は、私の腕に手を乗せた。そのときになってやっと自分が戻ってきた。

「お母さんが亡くなったって……心不全で」

 カップを包み込んで自分の前に持って来ると、その熱が冷えきった指にじんと沁みた。

「それは……」

 京は口をつぐんでしまった。こういう時にすらりと気の利いた言葉を出せるほど、彼女は多く死の場面に立ち会った経験がなかった。

 それは私も同じだったし、それだけでも幸せだったのだ。

「ご冥福を祈るわ。比和のお母さん、いつも明るくて、いつも楽しそうに働いていたよね。私、何度かコーヒー買いに行ってた」

「うん」

 ミルクティーを飲んでいたはずなのに、上る湯気に香ばしいコーヒーの香りを嗅いだ気がした。

「とにかく、気をしっかり持ってね。チケット、探すの手伝うわ。なんならネットじゃなくてオフィスに直接電話してもいいし。それから、荷物をまとめて。私が出来ることはするから」

「うん、ありがとう。京」

「いいのよ」

 彼女はテーブルの上でぎゅっと強く私の手を握った。そこから、力が流れ込んでくるようだった。動ける力が。

 日本に着いたのは夕方だったが、春の柔らかな空気が陽の沈んだばかりの宵に残っていた。スーツケースは宅配で手配し、バスに飛び乗った。飛行機に乗っている時よりもずっと気持ちが急いていた。

 和室に備えられた祭壇には藤色の覆い袋に入った箱が置かれていた。

 その中に、母が納められている。

 薄い線香の煙の向こうに、遺影に収まった母に会う。穏やかに微笑むその顔は、隆宏で、侑で、仁で、そして私だった。目の前が一瞬真っ暗になり、膝から力が抜けた。

 倒れかかった体を父が支えてくれて私はなんとか祭壇の前に正座し、震える指で線香をあげ、手を合わせた。供えられた白蘭の濃い芳香に煙がくゆる。

 ぽってりと膨らんだショルダーバッグを運ぶ侑兄の後ろについて二階に上がる。体を引きずるようにのろのろと彼の後に部屋に入った。

「お茶でもいれて来ようか。長旅で疲れてるだろ」

 侑兄は、つんのめるようにベッドに傾れ込んだ私を見下ろす。

「ううん、いい。少しこうしてる。後で下に行って自分でする。お父さんともちゃんと話したいし」

 侑兄は私の足下に座り、いたわる手つきでサマーウールのストレッチパンツの上から脚を撫でた。

「そういえば、仁兄は……」

「こんな時でも心配なのは仁のこと?」

 咎めるような侑兄の語気に少したじろいだ。

「で、でも、顔見てないし……家にいるんでしょ?」

「僕の顔を見ればいい」

 侑兄は拗ねた眼差しで私を責めながら、頭を低くして獲物に近づくネコ科の動物になって私の体に体重を預けた。

 まったくうちの男どもは爪を隠すのが上手だ。

 でも爪を出すタイミングは絶妙だ。そして様子のいい外見からは侑兄の内に危険因子が潜んでいるなんて皆、思いも寄らない。

 侑兄は病んでいる。でも、その因子を引き出してしまうのは、たぶん、私だ。

 彼の柔らかな舌は私の口内を侵略して、久々のキスは執拗このうえなく、甘く私を煽動する。

「や……だめだよ……」

 私の言葉を完全にスルーし、彼は普段見せない性急さでニットとブラを一緒にたくし上げると、露になった乳房にやんわりと歯を立てた。

 震えるそれを湿った舌で宥めながら彼の手は私のボトムスを開いている。

「こ、こんなときに何して……家で……」

「こんな時だから、だよ。比和……寂しかった。会えなくて、突然母さんが死んで……どうしようかと思った」

 こんな時なのに、私は濡れていた。

 侑兄は、私のどこに触れれば私がどうなるか熟知している。だから、すぐに濡れてしまう。

 彼はそれを知ってるから私を不謹慎だと責めたりしない。むしろ自分のせいだと後で自責の念を持つだろう。

 彼の指が、濡れていることを確認した後、脚を大きく開かせるとぬるりと侑が入ってきた。

 久々にねじ込まれるそれは熱く、圧迫しながら私の中を占領する。ずっしりとした重みにかき混ぜられると、恍惚に浸りながら彼の首に腕を巻き付け、もっと動いてくれと媚びるように腰を押し付ける。

 上に上に、お腹のほうに擦り付けられるように前後に揺り動かされると、もう声が漏れてしまう。激くなる動きにつられて声が高くなりそうになるのを必死で抑える。

 悩ましげに乱れ散る侑兄の息に胸は疼いて、体中で彼を抱きしめる。

 彼を搾り取る。

 侑兄は私の体がきしむほどにかき抱き、さらに深く沈み込む。私はその背中にしがみつく。

 私たちは、私たちの肉親である部分を今、強く求めていた。

 肉体に、匂いに、体温に、髪の一本一本に。

 私は何をしているんだろう。私こそ、おかしい。

 魂の綺麗なひとほど神様は早く天上に呼ぶと言う。だから、お母さんは天に召された。

 私は? 私の魂も純粋なはずなのに。

 純粋に求めているだけなのに。どうして呼ばれないんだろう。揺さぶられながら、涙を流した。

 遺影の前でなく、侑の胸の中で。

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