時を駆けるうさぎ 2

 母が倒れた夜、仁兄は偶然駅でてつやくんに会ってそのまま飲みに行き、家に帰ったのが午前二時頃だった。

 キッチンに倒れている母を見つけて、救急車を呼んだ。父に連絡して、侑と父は朝一で出張先から戻って来た。

 彼らが病院に着いた時にはすでに意識はなかった。その数時間後に母は息を引き取った。

 ——オレが飲みに行かずに早く戻っていれば母さんは助かったんだ

 そう言って仁兄はずっと泣いて目を赤く腫らしていたという。

 私が戻った数日間も彼はまるで気配を消していて、何度かご飯だと部屋のドアを叩いたが、何やらはっきりしない返事が聞こえて来ただけで、運良く家の中で会ってもその打ちひしがれた姿に声をかけることは出来なかった。

 初七日が過ぎ、仁も仕事に行き始め、塞ぎがちではあったけれど三度の食事もし、私を含め残った家族と普通に接するようになった。

 それでもふと瞳を曇らせることを私は知っていて。

 この人は本当に参っている、と胸が痛んだ。

 人生の伴侶を失った父も一時期さすがに意気沮喪ではあったけれど、仕事を早めに切り上げて家で整理のいろいろ、親戚、弔問客、お手伝いをしてくれた方々へのお礼や挨拶に時間を割いていた。

 母の愛用していたものを手にしては『ああ、お母さんはこれが好きだったね』とか、食事時には『お前たちがいてくれて本当によかった』そんな言い方をよくしたけれど、それは今思えば、父なりに自分の中で母の死を受け入れる為に必要だったのだと思う。

 でも私はまだ母を過去の人としたくなかった。

 まだ、家の中でなんとなくその面影を追いたかった。たぶん、それは侑も仁も同じだったと思う。

 だから敢えて私たち兄妹は母の話をすることはなく、自分たちの中で時間をかけて母の死を消化して行った。

 それでも、今までそこにあった母の存在が急に無くなったことで恒久なものは何も無いとはっきりと知らされた私は、自分にも起こりうる死の可能性についてたびたび考えざるを得なかった。

 私はいつ、どんな死に方をするんだろう。

 明日? 一年後? 二十年後? 五十年後? 

 どうやって? 病気で? 事故で? 

 エジプトの王たちは自分の死後のことを考えてピラミッドを造らせた。自分の体は消滅しても、未来永劫自分のことが語られるように。

 ——じゃあ、私が残せるものって? 子供、欲しいな……

 そのとき始めてとてもリアルに「子供」と言う文字が頭に浮かび、その突飛で強引で安易な発想に自分自身一瞬呆れて口元が綻んだ。

 ……が、その時に頭の中に植え付けられた発想の種は、自分でも気がつかないほど、ゆっくりと根を張っていった。

 ***

 仁兄の様子がおかしくなったのは、母が亡くなって二三ヶ月経った頃だった。

「ごちそうさまー。あ、そういえば比和子、おまえ宿題終わらせたのかよ。ぐずぐず飯喰ってると今日中に終わんないぞ」

 仁は食べ終わった食器を重ねて腰を上げている。

 私は意味が分からず、向かいの侑兄を見た。彼も、箸を宙で浮かせたまま、胡乱な目で仁を見上げている。その視線に気づいた仁兄は言った。

「なんだよ、侑、おまえ手伝わなくてていいからな。宿題は自分でやらないと意味がねーんだよ」

「し、宿題って?」

「とぼけんな。数学の光石(みついし)は毎回宿題出すの知ってるんだからな。今日、数学あっただろ」

 光石……私の中三のときの数学担当だ。中学を卒業してから六年も経つのにどうして今更。

 仁兄はからかっているのだろうか。 

冗談にしても訳が分からない。侑に助けを求めて口を開きかけると、それを遮り、侑は先回りした。

「まあ、そういうことだから、比和、今日は自分でやってみな。どうしてもわからなかったら、僕が教えてあげるから」

 私は口を半開きのまま侑兄を見た。彼は真剣なまなざしで、ゆっくりと大きく頷いた。

「食べたら、すぐに部屋に戻りな。比和」

 後で行く、と流しで食器に水をかけている仁に悟られぬよう、侑は口だけ動かした。

 私はキッチンを出て行く仁の背中を見送りながら、味のしないみそ汁を飲んだ。

 侑兄は私の部屋へ来ると、ベッドに並んで座ると話し出した。

「少し前から様子がおかしいのはわかっていたんだ。事務所でも、突然くすくす笑ったり、そうかと思えば机に頬杖付いてぼーっとどこか一点を見つめているんだ。そして必ずペン回しをしている。「こっちの世界」に戻ってくるのに長い時は一時間くらいかかることもある。事務所内はそんなに冷房きつくないんだけど、すごく寒がってセーター着てたりね。……みんな、僕たちの不幸を知ってるから何も言わないけど」

 侑兄は小さなため息をついた。

「精神科に連れて行ったほうが彼のためにもいいとおもう」

 侑は話をそう括り、片手で私の頭を胸に抱き寄せた。

 私には不安になればいつも抱きしめてくれる人がいる。

 転んだら手を差し伸べてくれる人がいる。……仁兄には? そんな人がいるのだろうか。

 鼻の奥がつんとして、思わず泣きそうになるのを誤摩化すために侑兄の背に腕を回した。

 涙の意味を追求されてもきっと答えられないと思ったから。  

 数日後、様子を見て侑が父に、私が仁兄に話をすると、彼は私たちが案じたよりもずっとすんなりと提案を受け入れ、仁は総合病院で専門医の指導するセラピーに通い始めた。

 その間も彼は突然「高校生」に戻ることが何度かあった。

 彼の行くところは小学校でも大学でもなく、決まって高校だった。

 部活の話や、テストの出来、面白い授業の話やその頃よくつるんでいた友達の話。リアルタイムでは私とまともに会話しなかったのに。

 屈託無い様子でそれらを話す彼に、その度に私も「中学生の妹」に戻って合わせた。

 セラピーの数が重なると少しずつではあるけれど落ち着きを取り戻して行く様子が伺えた。仕事場での奇異な行為もぐっと減ったという侑兄の報告に私はほっと胸を撫で下ろした。

 季節の移ろいには目まぐるしいものがある。

 特にアパレルの世界は世間と季節感がかなり違うから、始めのうちはその感覚にいまいち慣れずにショップに立つ自分のコーディネートによく頭を悩ませた。

 九月に入って秋冬物の立ち上げ。

 閉店後に商品の入れ替えやフロアのディスプレイを終わらせてから店長とエレンと従業員口を出ると二十三時を過ぎていた。

 家に着くのは日付が変わるか変わらないかという時間だろう。

 侑兄は事務所に缶詰で、父はその付き合い残業というメールを電車の中でチェックした。家には仁がいるはず……でも、もう寝ているかもしれない。

 玄関の鍵を開け、家に入った途端なにやら尋常でないものを感じた。

 何かはわからない。

 音の無い暗い家に帰るのは、母が亡くなってから始めてのことではない。それでも廊下の奥に目を凝らすだけで私は三和土から動けずにいた。

 視線の先にぼうっと洗面所から漏れるおぼろな光が廊下に滲み広がっている。

 異様な雰囲気はそこにあった。その光の中に、人がいた。舞台上、倒れた役者に注ぐスポットライト。

 そんなふうに仁は洗面所から体半分出た状態で廊下に倒れていた。

 体中の毛穴が開いて嫌な汗が吹き出した。

 まさか、仁まで……そう思うと飛び出すように体が前に動いていた。

「仁兄! 仁兄!」

 ぐったりとした体を膝の上に抱き起こすと、仰向けになった彼は淡い光を受け眉間に皺を寄せ、「……うん」と小さく唸った。

 なんだ……寝てる。

 緊張が解け、体中から一気に力が抜ける。

「お酒くさ……」

 静かな寝息に混じって強いアルコール臭。それから少しすえた臭いが鼻を突いた。

 ——ああ、シャツ汚してる。そっか、もどしちゃって顔洗ったあと、力尽きたか。

 濡れた前髪の毛先を分けた。

 広く開いたワイシャツからグレーのTシャツが覗いて、襟口が吐いたもので少し汚れているようだった。

 さすがにこの大男を一人で二階に運べないので、なんとか背中に担いで居間まで引きずり、ソファに寝かせる。仁は、体力の限界まで遊んで、電池が切れて眠ってしまった幼子のように全く起きる気配がなかった。

 もしかしたら、母の死後あまりよく眠れていなかったのかもしれない。

 テレビ脇のスタンドだけ点けて、穏やかに寝息を立てている顔を見下ろす。睫毛が長い影を作っていた。シャツの襟ぐりから覗く美しい鎖骨が対で直線に浮き上がっている。それには見覚えがあるような気がしたし、一方で全く知らない男の一部のようでもあった。

 汚れたまま寝かせておくのも可哀想なので、着替えさせようとシャツのボタンに手を掛けた。

 ひとつ、またひとつ、小さなボタンを外していく度に、どうしてか鼓動が高鳴る。

 ——こんなこと、侑兄にはよくしていることじゃない。そう。侑兄と一緒。侑兄と……

 呪文のように胸の内で唱えながらワイシャツを脱がせ、Tシャツの裾に手を掛けたところで、替えがないのに気がついた。自分の動揺ぶりをひっそりと笑いながら二階に上がった。

 彼の部屋に入り、明かりを点けてぐるりと見回す。

 馴染みの薄い部屋。製図台と、ベッドと本棚。本棚の半分はマンガでぎっしり埋まっていて、あとは建築関係の本と文庫本、別の段には、私にはよくわからないキャラクターのミニフィギュア、飛行機のミニ模型だとかがひとつのコロニーのように隙間無く陳列されている。

「なんで下戸なのにあんなになるまで飲むかなあ……」

 クロゼットの収納引き出しを順に開け、Tシャツが詰まっているなかからひとつを引っ張り出した。

 広げると紺地にスポンジとピンクのヒトデが肩を組んでいるキャラ絵がプリントされている。

 こんな可愛いの持ってたんだ。

 笑いをかみ殺しながら、腰を上げようと顔を上げると、視界の先に何かをとらえた。——もしかして。 

 どきどきしながらクロゼットの奥に手を伸ばしてそれを取る。……こんなところにいたの。

 私のもーも。

 そうだ。ピンクのタオルケットはさんざん私に愛されたあと、クタクタになったそれを母が小さなウサギのぬいぐるみにしてくれたんだった。

 そしてそのぬいぐるみで侑兄と遊んでもらってたとき。『ままごとなんてつまんないから、公園にいこうぜー』誘いに来た仁に背を向けて人形遊びを続けていたら、仁が突然ウサギを引っ張った。

 それは取り合いになって、結局腕がもげちゃったんだ。私がギャン泣きして、侑が代わりに彼の猫のぬいぐるみをくれて……それから、ウサギの存在を忘れちゃったんだ……。

 柔らかなタオル地の手触りが懐かしい。ウサギは記憶の中のものよりも随分くたびれていた。

 黒いボタンの、もの言いたげな瞳。

 もげた腕の部分はセロテープでぐるぐると胴体に巻かれていた。時間が経ったテープはかさかさになり、端は黄ばんでところどころ反り返っていた。

 子供の応急処置なんてこんなものよね……。

 可笑しいのに哀しかった。ウサギをぎゅっと胸に抱いた。

「ずっと、気づいてあげられなくてごめんね……」

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