負け犬

 侑兄が大学に受かった日のことはよく覚えている。底冷えのする冬の朝。

 ずっしりと重そうな灰色の雲が空を覆い、湿っぽい空気が骨に沁みるようだった。

 私は学校でそわそわと落ち着きなく携帯を何度となく見、合格の知らせを今か今かと待っていた。

 一時間目が終わっても携帯はぴくりともしなかったから、我慢の限界を超えて、休み時間になると同時に渡り廊下の隅で、こっそり電話した。

 校内の温かい空気が窓を曇らせている。

 私は呼び出し音を聞きながら、曇った窓ガラスに指先で窓の端っこにこっそり『ゆう』と書いた。

「比和?」

 渡り廊下に響く、声に「男」と「女」の違いがほとんどない高いトーンの喧噪の中で、侑兄の声は携帯電話を通してもしっとり私の耳に染みた。

「侑兄! 全然連絡くれないから電話しちゃったよ」

「ごめん。授業の邪魔したくなかったから。受かったよ。今、下にいる……」

 下……?

 私は携帯を手にしたまま、階段を駆け下り、昇降口まで走った。誰もいなくて薄暗い。

 木のすのこをカタカタ踏んで。冷えきった取手を両手で握り、ガラスの重いドアを体で押開けた。いつの間にか粉雪がちらついていた。

 ぼんやりとした灰色の背景に、階段を上がってくる侑兄。

 黒いダッフルコートの肩の直線。銀色に全体が縁取られているように見える。

 彼はうつむき加減できれいな鼻筋を見せながら、一段一段、近づいてくる。私の気配に気づいたのか、ふと足を止めて、ゆっくりと顔を上げる。

 その瞬間、私の心臓は鷲掴みにされたようにキュウっと締め付けられる。それは私の一番大好きな角度。少し困ったような顔で、前髪の間から私を見上げる。

 彼の吐いた白い息が冷たい空気の中でゆっくりとほぐれる。

「わざわざ下りてこなくてもいいのに」

 静かに言い、私の前に立った兄は手袋をした手で私の頭を撫でた。

 なんだか胸がいっぱいになって、私は首を横に振るのが精一杯だった。

「僕、これから担任に報告しに行くけど……比和、今日は早退する?」

 早退して二人だけの時間を作ろう。語らずとも私は兄の意図を汲む。

 大きくうなずき、じゃあ、高等部の職員室の前で、と待ち合わせして別れた。

 私はその足で中等部の職員室へ直行し、頭痛と寒気を理由になんとか早退の許可を貰った。

 教室に入るともう授業は始まっていて、みんなの注目を浴びてしまった。

 担当の先生に早退の旨を告げて鞄とコートを抱えて、頭痛に苦しむ顔を作りながら教室を後にした。

 人のいない高等部の校舎は冷たくて、清潔で、巨大な冷蔵庫だ。

 高等部の職員室前にも人影はなく、天井の蛍光灯が寂しげに一直線に連なっていた。

 失礼しました、と職員室から出てきた兄に駆け寄る。兄は私の手をとる。その手の中に、金属の感触。

 すくいとって胸の前で手を広げると、銀色の鍵に黄緑のプラスチックのタグ。

 そこには『美術室準備室』の文字。

「僕の作品、持って帰るって言ったんだ」

「おぬしも相当な悪よのう」

 くすくすと笑いながら腕で頭を抱え込まれ、引き寄せられた。そのまま私は寒い寒い、と言って兄にまとわりつきながら美術室準備室に入る。

 そこももちろん、すごく寒かった。

「見て見て。歯ががちがち言うよ」

 机に適当にコートと鞄を置いて、兄にガチガチやってみせる。

「そんなに寒い? じゃ、温め合う?」

 返事をしないうちに、彼を見上げると顔が下りてくる。キスをしながら兄はコートを脱いで私の肩に掛けてくれる。すぐに脱ぐことになるんでしょ? でもその矛盾なやさしさが嬉しい。

 兄の後ろについてさらに中に入る。

 先生の作業机、まだ紐解かれていない重ねられた新しいキャンバス。油の匂い。ガリ版、インク。立てかけられたイーゼルなどが所狭しとならぶ物置のようなそこに、ひっそりと抹茶色のレトロなシングルソファがある。一体何年間そこにいるのだろう。

 それは一人で座るには大きく堂々としているが、革には張りが無くなり、肘掛けや背もたれの丸いカーブはすり切れ白く毛羽立っている。じっと最期を待つ年老いた動物のようだ。

 侑兄は後ろから私を抱いたまま、どさりと勢いよく座った。私は彼の肩に頭を持たせかけ、首をひねりながら言う。

「私が、してあげる。侑兄は王様だよ。合格したしね」

「え……う、嬉しいけど比和、歯の根が合わなくて噛まれるとちょっと困るんだけど……」

 半分冗談、でもあとの半分は本気なんだろう。くだけた口調でも、目は真剣だった。

「心配しないで。すぐに、熱くなっちゃう……でも、初めてだから侑兄が教えてね」

 私は床に膝をついて、彼のベルトを外す。

 あまりにも雄々しく屹立した彼自身は年不相応な精悍さで私を挑発する。

 口の中でその怒張をなだめるようにやさしく舌を絡め、顎を動かした。それはますます固さを増し、脈打った。

 兄の言われるままにしゃぶり、顎を動かし、強く吸い、指先で袋を包んだり、根元をしごいた。やがて兄の乱れる息でどこをどうすればいいのか言われずとも分かってきた。

「あ……っ、比和っ」

 彼は私の頭を根元に押し付けながら腰を動かす。苦しくてもがいても彼は許してくれず、やがて小さく呻いた後、爆ぜた。口の端から精が溢れ、流れた。まだ口に溜まっている苦みを飲み下す。喉の奥にいつまでもいがいがしたものが残った。侑兄は少し肩で息をしながら、怠惰に手を伸ばして私の顎を指の腹で拭った。

 私は彼の前に立ち、黒のタイツをショーツごとするりとおろすと、侑兄はまだ物憂げに、そそり立つ自身にコンドームをするりとかぶせる。準備の出来た彼の上に沈み込む。

 待ちわびたように彼の熱い情熱が私を激しく何度も突き上げ、余すところなく充填し、私の中は収斂した。

 私は彼のかたちを確かめるように腰を振り、内壁にこすりつける。じゅぶじゅぶと卑猥な音に羞恥心をあおられることはあっても、動きを止めることは出来ない。「比和……ひわ……」名前を呼ばれ、奥に打ち付けられながら骨が軋むほどに抱きしめられる。

 幾度となく快楽のさざ波が体を通り過ぎ、溺れかけては、波の間から顔を出し、喘いだ。彼から発する熱が椎骨の小さな起伏を一つ一つを登って行く。ブレザーもセーターもはぎ取られ、まくり上げられたブラウスとブラは不格好に体にまとわりついていた。

「あ……あ、あっ……んっ……ン」

 仰け反った喉から歓喜の声が漏れそうになるのを、歯を食いしばって我慢する。

 細かく全身が震える。侑の頭を抱えて胸に押し付ける。兄の乱れた息が感度をさらに高めた。乳房は荒々しく揉まれ、乳首は狂ったような舌の動きで満遍なくなぶられる。乳房は咀嚼される。むきだしのお尻を両手でつかまれ、私も侑兄もいつの間にか恥じらいを捨て、お互いが果てるまでただ貪婪(どんらん)にお互いを求めていた。

「学校では今日がやり納めだな」

 膝の上に乗ったままぬくぬくと彼の腕に抱かれて体温を味わっていると、ぽつりと言葉が落ちてきた。私は顔を上げ、そして黙って見つめ合う。

 たまに彼は真顔で冗談とも本気ともとれることを言うから、なんて返せばいいのか困ってしまった。

* * *

 新学期が始まり、学校生活も落ち着いたと思ったら中耳炎になった。

 始めは風邪かと思って、風邪薬を飲んで放っておいたらだんだん耳が痛くなって、頭も痛くなって、そのうち熱も上がって。侑兄に急き立てられてしぶしぶ病院に行くと、炎症がかなり進んでた。抗生剤を貰って家で安静にって言われた。

 薬を飲んで、寝ながら漫画を読んでいたらいつの間にか寝ていたらしい。

 ノックの音で目が覚めた。ドアの隙間から廊下の光と一緒に兄が入って来、逆光で影になった横顔を見せながら片手でドアを閉める。ふわりとコンソメの香りが鼻をかすめた。とたんに、熱で緩んでいた体が空腹に目覚めて胃の位置をはっきりと教える。

「大丈夫か。母さんがおまえにスープ作ったから、持って来てやったぞ」

 聞こえにくいうえに、声が一緒なんだから

「起きられるか」

「起きられない」

「しょうがねーな」

 近づく背格好も、日が落ちた部屋では見分けがつかなかったから

「あ、ホントだ。まだかなり熱あるな。食欲無いか?」 

 額に置かれた手つきもやさしくて。

 まさか、仁兄が来るとは思っていなかったし。

 だから、いつもの調子でつい、言っちゃったの。病気時の、甘えモードで。

「ん、食べる……でも、お水飲みたい。侑兄、飲ませて? 口移しで」

 え……。

 声にならない声が、なんだか分厚い鼓膜を通して聞こえた気がした。でもそれは束の間で、ベッドの端に座った兄の短い答えが届いた。

「いいよ」

 側で聞けばはっきりとわかる。双子でも、全然違う。気がついた時はもう遅かった。背中に嫌な汗が滲んだ。

「声出すなよ。今日、侑は小出とサッカー見に行ってるだろ」

 ああ、すっかり忘れてた。国際試合見に行くって言ってたっけ。

「そうか、やっぱり侑とね。なんかお前ら仲良すぎだもんな。いつから? お前が中坊ん時から? 侑もたいがい趣味がいいよな」

 仁の体が上から被さる。ずっしりと重くて息をするのが苦しい。私はもがきながら彼の肩を両手で押しやる。たちまち手首をつかまれ、首筋に息がかかった。唇がそっと耳の付け根まで滑る。そして強く吸われた。 

 不覚にも体がそれにぴくん、と反応した。

「うわ、感度良すぎ。何? あいつに躾けられた? なんで侑がよくてオレじゃだめなの? 一緒だろ。顔も、体つきも、声も」

「やめてよっ! どうしていつも私に意地悪するの? 嫌ってるのわかるけどこんなことするなんて質悪いよ」

 顔をそらしても、耳元に彼の声が低く追ってくる。

「好きなヤツ程苛めたくなる、って社会通念だろうが。言わせんなバカ」

「なんて……」

 思わず兄を見上げる。落ちた前髪の奥で怒りとも見える目の色に再び恐怖が湧く。

「おまえみたいに鈍いの、相当ムカつくわ。人の気もしらねーで」

 侑と瓜二つの美しい顔をした男は、それだけ言うと間近で私をただ見下ろしていた。

「やめた。病人に付け込むほど、女々しくないし」

 仁兄は体を起こした。呼吸が楽になる。その瞬間、空気と一緒に恐ろしい予感が流れ込んだ。

「待って……言うの? お父さんとお母さんに……」

「言えるわけねーだろ……あ、でもそうか」

 仁兄はそのままになっていた手首を再びつかんで、覆い被さり、唇を重ねた。少し乾いたそれが、私の下唇をそっと食んだ。

 引っ張るようにして食み続ける。上も、下も。濡れた舌が這う。

 あ、全然違う。

 抵抗することを諦めて緩んだ口元から、柔らかな小さな肉片の質感が忍び込んでくる。

 ゆっくりと、執拗に舌は口内を彷徨い、私の舌を吸うけれど、そこにぎこちなさが伝わる。

 似ていてもそれは他人の唇だった。お互いを知り尽くした侑兄のとは全く違う。

「口止め料くらいはないとな……飯、喰えよ。おまえの王子様が帰ってくるの待ってたら冷めるからな」

 ゆっくりと体を起こして彼は言った。

「侑兄は温め直してくれるもん」

 目が慣れたぼんやりとした薄暗がりの中で、仁が私を蔑んだ眼差しで見下ろしている。

 この目、知っている。

 子供のとき、かくれんぼをしていて、押し入れに隠れた侑兄と一緒にいた私を見た、その目。

「だろうな。……ま、せいぜい楽しんでくれよ。……どーすんだよ、この勃っちゃったやつ……」 

 彼は顔を背けて立ち上がると、それ以上何も言わずに部屋を出て行った。 

 パタン、小さな音を立ててドアが閉まる。

 パタン。私の心の扉もしっかり閉めた。

 これは、なかったことに。

 仁はいなくなったのに、全身の毛穴からどっと汗が吹き出した。やっぱり怖い。両親に言わないって言ったけど、それだって彼の気分が変わればどうなるか。そしたら……。

 その出来事から一週間後だった。仁が急に部屋を決めて、家を出たのは。 

 それから四年間、大学を卒業するまで彼は一度も私の前に姿を現さなかった。 

 ——仁、離脱。

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