四葉のクローバー

二十七歳の誕生日は、メールやSNSの掲示板に友人から『おめでとう』というメッセージが書き込まれ、そして大抵、一緒に『結婚おめでとう』と付け加えられていた。

 私はそれらのコメントに『ありがとう』と返事を打ち、ディスプレイの時計を見た。二十三時を少し過ぎたところだった。ラップトップを閉じ、広めのダイニングを見渡す。

 披露宴は三週間後。

 新しい家具が収まったマンションの一室は、他人の家のようだ。まだ自分の匂いすら落ち着いていない部屋だから、余計に心細い。

 岩﨑比和子(いわさきひわこ)が、水沢比和子(みずさわ ひわこ)になる。何度も考えたことだけど、やっぱりピンと来ない。

 突然、ローテーブル上のケータイが彼専用の呼び出し音を奏でた。

「比和子? 俺だけど。もう寝るところだった?」

 柔らかな声。今は遠いところにいるけれど、もうすぐ一番近い存在になる人。新しい家族になる人。

尚紀(なおき)。ううん、本読んでいたところ。ミステリーなんだけど、夢中になっちゃって」

 私、どうして嘘ついているんだろう。本は大分前にしおりを挿んでパソコンの横に置いてある。

「じゃあ、邪魔しちゃったかな」

「そんな。邪魔なんて……」

「誕生日おめでとう、ごめんな。一緒に祝えなくて」 

「いいのよ。仕事だし、仕方ないじゃない。これからずっと、来年も再来年も一緒に祝うのよ? でも、金曜から週末にかけて北海道出張なんてスキー旅行みたいな日程ね」

「それを言うなよ。今日だって牧場視察で一日中移動しっぱなしだ。明日も一日研究所見学……あ、そうだ。さっき送った写メ、見た?」

「あ、見た。四葉のクローバー。可愛いね」

「そう。牧場で偶然見つけたんだ。誕生日プレゼント、第一弾」

「ふふ、ありがと。ねえ、花言葉、知ってる?」

「いや……?」

「『私のものになって』」

「なんだよ。俺、またプロポーズしたのか」

「そういうこと」

「で……、返事は……?」

 彼の意外と頼りない声に口元が綻ぶ。

「もちろん、イエスよ」

「よかった。プロポーズは何度もするもんじゃないな。心臓に悪い」

 なにそれ。とお互いに笑う。

「あ、尚紀。明日、兄と会うから」

「ああ、いつもの。わかった。お義兄さん、具合どうなの」

「大丈夫、もう長いこと落ち着いてるもの。ただ、やっぱりたまに不安定になるみたいで」

 また嘘ついてる。私。

「大変だな、比和子も」

「ううん。家族だもん。ただ、尚紀の方がそういうの、いい気分じゃないかなって」

「どうして? だって、俺の兄になる人じゃないか」

「ありがとう。そういってくれるだけで嬉しい」

「当たり前だよ」

 こんな優しい人を私は裏切っている?

「じゃあ、ちゃんと戸締まりして寝ろよ。土産たくさん買って帰る。蟹、送ろうか?」

「えー、お菓子の方がいいなあ。バターサンドとか……あ、チョコレートのポテトチップ!」

 わかった。じゃあ適当に見繕うな。——雪国から届く尚紀の温かい声は私の胸に沁みる。

 通話を終えて、もう一度彼の送ってくれた画像を開く。

 青空をバックにした四葉のクローバー。それを持つ尚紀の指先も写っている。

 花言葉を教えてくれたのは、侑兄(ゆうにい)だ。  私が中一になったばかり、学校から帰って来た侑兄が「手を出して」と私の手の平に四葉のクローバーを置いた。わあ、どこで見つけたの。と喜ぶと彼は「道でね、偶然。比和は四葉のクローバーの花言葉知ってる?」知らないと首を振ると、

「『僕のものになって』だよ」

 そのとき、私がどんな反応をしたのか覚えていない。たぶん、『へえ』の一言で終わらせたのが関の山だろう。

 そのあと、仁兄(じんにい)に見せると彼は一瞥し、素っ気なく一言「それがどうかしたの」、隆兄(たかにい)は「四葉のクローバーって突然変異体なんだよ」とやさしく教えてくれた。

 七つ上の長男、隆宏たかひろ。双子の(ゆうじんとは三つ違い。そして末っ子の私。四人兄妹、それぞれ一葉の私たちも四葉のクローバー。

 四葉のクローバーは見つけた人に幸運を運ぶかもしれない。でも、自分に幸運を運ぶわけじゃない。ただ確かなのは、突然変異体であるという事実。

 それがある時、それぞれの心の中で何かが突然変異した。

 どのタイミングだったのかはわからないけれど。

 私は明日、仁兄と会う。そしてセックスをする。

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