検事 久賀丞已(警視始関晃穂 紹介編)

 篠塚雅季は数字を記入していた精算書から顔を上げ、警察官になってから愛用しているウェンガー社の腕時計に目をやった。

午後十時十五分。自分一人しかいない、がらんとした部屋を見渡してペットボトルの水を一口飲んだとき、突然、目先のドアが開いてダークスーツ姿の始関晃穂(しせき あきほ)が入ってきた。

「お疲れさまです」

ピンと背を伸ばした雅季に、始関は軽く頷いた。あまり贅沢でない広さの刑事部屋が、長身の始関がいることでさらに狭く感じる。

「篠塚くん。当直ご苦労さん」

「始関さんこそ、こっちに戻ってしまっていいんですか? 池ノ下署の合同捜査本部は……」

「今日、本庁から応援が来て少し楽になったから。それに、さっきの電話気になったから様子見に来た。酔っぱらい同士の傷害だって? サムと根古里(ねこり)さんは取調べか」

死体遺棄事件で先週から合同捜査本部にかり出されている始関が『なにかあった?』と電話を入れてきた際に、雅季はちょうど居酒屋から通報があった旨を伝えた。

「はい。今、一人ずつ事情を聞いています」

始関は課長室に戻らずに雅季の隣、青鞍沙武(あおくら さむ)の席に座った。広がっていた書類を脇に避け、顎に肘をついて天井を見る。

「それ、精算書?」

「あ、はい。溜めてしまっていたので」

雅季は落ち着かず、ボールペンを置くと椅子の上で姿勢を正した。

本庁勤務後、FBIで研修を受けた警視、始関晃穂が半年前にこの鳴海署の課長に就任されたのは、彼の父親である官房長官との確執が原因らしいという噂を、雅季は就任直後に総務の絹田(きぬた)ロナから聞いていた。『身長185センチ、三十四歳、独身でキャリア。あ、彼女はキャビンアテンダントらしいですよ。私、一昨年の本庁のバスケ大会で警視が飛ぶの見てからファンだったんですよね~。感激ですよ~』。給湯室で会議後の湯のみを洗いながら、ロナは鼻歌を歌うように履歴書にも載っていない情報を披露してくれた。しかし、『飛ぶ』って何だろう。飛ぶって。

始関は何も言わずに宙を見つめている。気まずい沈黙に堪えかねた雅季が口を開いた。

「コーヒー、いれて来ましょうか」

「ありがとう。でもコーヒーは飲み過ぎたから、さすがにいいかな」

「じゃあ、お茶でも……」

雅季が立ち上がろうとすると、始関は初めて素早く反応した。右腕をジャケットの上から軽く押さえられただけなのに、始関の縋るような視線に合うと雅季は動けなくなった。

「篠塚くん、何もしないでここにいてくれる。ちょっと、いいかな」

「はい……え、し、始関さん?」

雅季が座りなおしたとたん右肩にいきなり始関に頭を載せられ、全身が強張った。

「セクハラで訴えてもいいから、少しだけこのままで」

「は……はい」

普段からゼニアのスーツを着こなし――これはロナの情報――、睡眠時間がほとんどないハードな捜査が続いてもいつもキレッキレの始関の行動にしては軽卒すぎる。雅季は困惑し、落ち着こうとスカートの膝の上でぎゅっと拳を握った。

「あのさ、捜査本部が所轄と本庁の連中で雰囲気悪くてね。みんな自分が手柄たてたくて仕方ないみたいで。情報は出し惜しみするわ、無理な仮説にこだわって無駄な動きするわで……」

雅季は自分の耳を疑った。始関が自分に愚痴……いや、気持ちを吐露するなんて。

「相変わらずですね……」

叩き上げの刑事たちとキャリア組が捜査上で衝突するケースは、警察官を六年やっていれば珍しい話ではない。むしろそればかりだ。

「犯罪を減らして安定した社会を作りたい、という目的は一緒なはずなのにどうしてこう温度差があるんだろう」

「いや、もう目的から違うんですよ」

――もっと、ましなことは言えないのか――雅季は言ってから自分に苛立った。そんな胸中に構うことなく、始関は雅季の肩の上で顔を伏せたまま訊ねた。

「篠塚くん、平熱何度?」

脈絡のない質問に戸惑いながらも、雅季は上司の質問に答えた。

「36.1です」

「僕36.3。よかった、大体同じだ。篠塚くんとはあまり温度差がない」

――そういう問題では。

雅季はその言葉を飲み込んだ。そんなこと、警視だって百も承知だ。ただ、こんな数字だけでも、確かなものに縋りたいのではないか。

そう思ったとたん、手が勝手に動いていた。雅季の左手の下で、ぴくっと始関の頭が動いた。だが、それ以上の変化はない。

「セクハラの……お返しですから。これで、おあいこです」

ほとんど頬に触れそうな頭頂から額の方へ『いいこ、いいこ』の手つきでゆっくりと動かす。

『警察』という特別厳しい階級社会で、上司の頭を撫でるのは自分が初めてだろう。今、青鞍や根古里が部屋に入ってきてこの光景を見たらどう思うだろう。でも、この行為が今この場では自然な気がした。ほとんど額を隠す前髪はやや硬めだが、艶やかで撫でていて気持ちが良い。

お世辞にも新しいとはいえないエアコンが、低い音を立てて風を吐き出している。

――始関さんの頭、重いな……いっぱい中身が詰まってるからかな。それとも、いろいろ考えすぎてるから? そう言えば、久賀さんの頭はどうだろう。腕枕をしてもらうのは自分ばかりだ……。

始関の頭を撫でていると、どうしてか自分の気持ちが穏やかになっていく。自分が慰めているつもりで、相手に癒されているようだ。

緊張が解けた雅季は、率直な疑問をぶつけていた。

「始関さん、もしかして、寂しい……ですか? 嘘はだめですよ。虚偽申告で勾留しちゃいますから」

言ってから、少し調子に乗りすぎたと雅季は焦ったが、くくっと始関の喉が鳴るのを聞いて、ほっとした。

「寂しいですよ」

「彼女は機上の人ですか」

「何? 予防線張ってるの?」

「いえ、そういうわけでは……」

今度こそ失言だと、唇を噛む。自惚れていると思われたか。雅季は始関の頭を撫でている手を止めた。

「続けて。そうじゃないと、僕だけが訴えられる」

「あ……、はい」

まだ戸惑いながらも雅季は愛撫を再開した。

「あのね、篠塚くん。君は辛い経験をしたけど、それをほとんど乗り越えたと僕は思ってる。半年間君を見ていてそう思った。だから、君にはこれから楽しいことしか起こらないから。僕が保証する。僕なんか辛い経験があまりないから、楽しいこともない」

あ……。雅季の手が今度こそ止まった。始関は知っている。自分の忌まわしい過去を。小学生のときに見知らぬ男にわいせつ行為を強制されたことを。

「どうしてそれを」

「一緒に仕事をする部下のことをちゃんと知りたいと思うのは、当然じゃないかな」

そうだ。調べればすぐにわかることだ。それに、不思議と始関に自分の過去を知られても気後れや不快を感じなかった。

確かに彼が言うように、あれだけ自分を縛り付けていたトラウマという鎖はとうに外れていたのかもしれない。今まで他人にこうして指摘されなかったから気がつかなかっただけで。

――でも、きっとそれは久賀さんのおかげで……。久賀さんが現れてから……。

「篠塚くん、ダダ漏れだよ」

「えっ……、私、久賀さんのことなんて考えてませんから!」

「僕は久賀検事の名前は出してないけど?」

「あっ……」

始関はそこでやっと頭を上げた。少し近いな、と雅季は顔がよけい熱くなるのを感じる。切れ長の目がおかしそうに細くなる。薄い唇の口角がくっと上がった。

「い、今のは交渉のテクニックですか!?」

FBIで交渉人としても研修を受けた始関は特殊捜査班係長補佐も兼任していた。

「いや? こんな単純な手にひっかかる人、初めて見た。篠塚くん、刑事に向いてないかもね」

「すみません……」

「僕だから、隙を見せたんだよね?」

「え?」

目を瞬いた雅季の前で始関は伸びを一つすると、立ち上がった。

「取り調べ見てくる。朝までよろしく」

「あ、はい」

ドアノブに手を掛けて、始関は肩越しに振り返った。

「さっきの、写メ撮っておけばよかったな。セクハラの証拠写真として提出すれば、久賀検事、速攻起訴しただろうね」

「始関さんを、ですか? それとも私を、ですか?」

始関は顎に手を当てて、「ふむ」と一瞬考える素振りを見せたが、すぐに雅季に向いた。

「本人に今聞いてみたら? 向こうも仕事してるでしょ、どうせ」

「えっ……、いえ、私仕事中ですから……」

それに何をどうやって聞けと言うのか。雅季は慌ててボールペンを手に取り、書面に顔を伏せた。

「三分。それなら電話許可する」

雅季がぱっと顔を上げると、上司の姿はもうなかった。

一つ溜め息を吐き、腕時計を見ると十時半だった。始関との時間は十五分足らずだったのに、とても長かったように感じる。

始関晃穂は不思議な人だと改めて思う。その存在感――経歴も含め――はものすごいのに、つかみ所がない。女性、男性問わず課員たちは始関に憧れを持ちつつ、その冷淡な外見に怖れをなしている者も少なくない。

――威圧とは違う。ああ……そうか。

雅季の脳裏に始関の『寂しいですよ』という声が蘇った。

すごく素直な人なのだ。その素直さがかえって諸刃の剣となって人を寄せ付けないのだ。不器用なだけ。不器用だけど、それを受け止めてくれる人が一人でもいたら、嬉しい。

雅季はスーツのジャケットから携帯電話を出した。

番号を呼び出し、発信ボタンを押す。腕時計を見る。――三分なら確かめるにはじゅうぶんだ。

「あ、お疲れさまです。あの、ちょっと聞きたいことがあって、今いいですか? あの、……私の頭、重いですか? え? それ、ひどい……。あ、はい。明日ですか? ええ……」

電話を切ると雅季は書類の山に向き直り、気持ちを引き締めた。

久賀を頭から追い出した当直の夜は、長い。

【イラスト / マリエさま】