蜜は愛より出でて愛より甘し 6-2

 *

 殿下が戻るまであと三日……。ピアは深く長いため息をついた。

 ここ数日、ジュリアスにもうすぐ会えるという喜びと、言葉にならない不安が交互に訪れては、ピアの胸をざわめかせている。不安の種は、もちろんアンソニーのことだ。

 一体どんな顔をして殿下に会えばいいのだろう。いつ、どうやってアンソニーの話を切り出そう。

(殿下にはアンソニーとの過去の話はしたけれど……)

 その時のジュリアスの動揺ぶりは目に余るほどだった。おまけにアンソニーのことを告白をした夜は『昔の男のことなんか忘れてくれるね? ピアには僕だけだね?』と念を押し、アンソニーの痕跡を全て消し去るように何度も何度も激しくピアを抱いた。

 そのことが思い出され、たちまちピアの心臓は早鐘を打った。

 「アンソニーとよりを戻した」などと打ち明けたら、ジュリアスは怒るだろうか。落胆するだろうか。軽蔑するだろうか。しかし、どの顔もピアにはうまく想像できなかった。ジュリアスはピアにまだ本当の怒りや落胆、軽蔑を表したことはない。今までずっとピアには笑顔を向けていた。

(でも、軽蔑された方がいいのよ、きっと。殿下とは遅かれ早かれお別れしなければいけないのだから……)

 いや、きっとジュリアスは悲しむだろう。悲しんでほしい。彼の美しい瞳が陰ることを想像しただけで、ピアの胸は切なく痛んだ。

「……だろう?」

 低く通る声が耳に入り、ピアは急に現実に引き戻された。

 顔を上げると、青空の下に息をのむほど美しい緑に覆われた田園風景が広がっている。横には、白馬にまたがった乗馬服姿のアンソニーがピアをじっと見つめていた。

「ご、ごめんなさい。なんて仰いましたか? この景色にすっかり見とれていて……」

 アンソニーはふっと微笑むと、「この辺りの遠出は初めてだろう?」と繰り返した。

「はい。今までは街まで散歩に行くのがせいぜいでした。あとは殿下と宮殿内の乗馬道をぐるりと回るくらいで……」

 それでも宮殿の敷地内はこぢんまりとした森が収まる広さなのだが、郊外への遠乗りは初めてだった。

 今日はアンソニーに誘われての遠乗りだった。

 執事には遠出のおおよその目的地を伝えて宿泊許可ももらってあり、時間を気にすることなく、この美しい自然を堪能できるはずなのだが、あと数日でジュリアスとの再会を迎えるピアの心は、そのことばかりに捕らわれていて、周りのことは目に入らなくなっていた。

 さらに、ジュリアスに出した手紙に、返事がこないのも寂しかった。

 もしかしたら、滞在中に行われる夜会などで、素敵な女性に出会ってしまったのだろうか。会議に参加した国王に同伴した王女様とすでに懇意になられたのでは。そういうことは十分あり得る。今回急に呼ばれたのだって、もしかしたらそんなお膳立てがあってかもしれない。

 彼との将来を望めない自分がそんなことで心を痛めるのは完全に矛盾しているが、アンソニーのことに加え、そんな懸念がピアの頭の中ではずっと堂々巡りだった。

 アンソニーが手を伸ばして、ピアの頰をそっと撫でた。その仕草は、常に自分の方へ注意を留めておくようにと仄めかしているようだった。そんな風に感じてしまうのは、未だジュリアスへの想いを捨てきれないという、彼への罪悪感があるからだろうか。

「それでは、この先の谷で休憩しよう。とても美しい場所があるんだ」

「アンソニーはこの辺りに詳しいのですね。以前も来たことが?」

「いや、初めてだよ」

 きっぱりと即答し、アンソニーは馬を進めた。その声音が普段より素気無い気がする。自分がぼうっとしていたのが気に障ったのだろうか。ピアは首を傾げたが、今感じている後ろめたさでそう聞こえたのかとも思い、すぐに彼の隣に並んだ。

「競争をしようか。この林をまっすぐ抜ければ、谷だ」

 そう言って、アンソニーはまだピアが返事もしないうちに馬の腹を蹴り、走らせた。

「アンソニー、待って……」

 ピアも慌てて自分の鹿毛を急き立て、その後を追う。

 アンソニーと競り合いながら走っていく間、周囲の木々やこんもりとした茂みが緑の流れとなって過ぎて行く。髪が風になびき、たちまち清々しい気分になった。ほとんど互角に走っていたのだが、最後はピアに花を持たせてくれたのか、アンソニーの馬は速度を緩めて、ピアの視界から消えた。代わりに、すぐにパッと木立が開け、ピアの馬は谷を見下ろす草地に出た。草地はなだらかな谷に続き、その一面は黄色や白やピンクの野の花で覆い尽くされていた。

「素敵……まるでお花の絨毯だわ」

 草地に面してそびえる崖からは、小さな滝が飛沫を陽光に光らせて谷に水を注いでいる。

「この谷には以前、小さな街があったのだよ。今となっては跡形もないけれども」

 アンソニーは馬から降り、続いてピアが降りるのを手伝ってから近くの木に馬を繋いだ。

 そして、草地が斜面になっている場所から谷を見下ろした。ピアはそんな彼を横目でちらりと見た。

 おそらく、気のせいじゃない。

 さっきの素っ気ない言葉の響きと、今見せている寂しげな横顔は。

 いつも穏やかで、ピアといるときは陽気な光を湛えている彼の瞳には、明らかに哀愁が漂っている。

「降りてみようか」

 ピアは、伸ばされたアンソニーの手を取り、林沿いにゆっくりと花の絨毯を踏んで谷の方へ下って行った。途中、アンソニーはしゃがんで花を摘み、小さな花束を作ると、その中から純白の花を一本選び、ピアの髪に飾った。

 谷の下まで行くと、ひらけた台地の中心を滝から流れた川が通り、その川には石橋が掛かっていた。

「石橋があるということは、確かに街があったんですよね。どうして無くなってしまったのかしら……」

 ピアはそう言いながら、石橋の前で足を止めたアンソニーを見上げ、ハッとした。彼はまるでピアの存在など忘れてしまったかのように、橋の向こうを見据えていた。形の良い唇をきつく結んだその横顔は、緊張で強張っている。

「アンソニー?」

 もう一度声をかけると、彼は夢から覚めたように一瞬目を見開き、すぐにピアに微笑した。

「すまない。なんとなく見覚えのある景色だと思って、思い出そうとしていたんだ。何か言ったかい?」

「いいえ……」

 どことなく話しかけづらい雰囲気に、ピアはかぶりを振った。

 アンソニーはピアの手を引いて先に進む。歩きながら周りをよく見てみると、石畳の道や、縁の割れた噴水、半壊したレンガの壁や家、枯れた井戸など、確かに街の痕跡があちこちにあった。

 さらに進むと、低木の茂みに囲まれるように、ほぼ形を残した小さな石造りの教会が建っていた。

 片方が倒れた扉から中に入ると、屋根はすっかり落ち、午後の強い光が空っぽの礼拝堂にさんさんと降り注いでいる。全ての窓ガラスは割れ、いくつか残っている祈祷席は、長年の雨風にさらされてすっかり色が褪せ、表面を虫に食われた、みすぼらしい姿になっていた。

 アンソニーは祭壇があっただろう正面の方へゆっくり歩いていった。ピアは近くの祈祷席に腰を下ろした。座面の、ガサガサの木肌を指先でなぞると、ふと指先が小さな傷に触れた。誰かがいたずらで文字を彫ったようだ。さっと土埃を払い、不恰好な文字を辿った。

「イザ、べ……ル、と……ソ、ニン……」

 ピアが口の中で二つの名前を呟いた時、アンソニーが隣に立ってじっとピアを見下ろしていた。

「さすがの神も、この街を守りきれなかったようだ……」

 彼が身を屈めてピアの座っている隣に花束をそっと置く。その口調は平常を装っているようだったが、ピアの胸にはなぜか悲しく響いた。そんな、普段の彼らしからぬ態度には、きっと何か理由が何かあるはずだ。もし、それが自分のせいなら改めたい。そう思い、ピアが問いただそうと口を開きかけた時、「ピア!」と天から聞き覚えのある澄んだ声が降ってきた。声のした方を仰いだピアは、一瞬自分の目を疑った。

「殿下……」

 隣のアンソニーの呟きに、丘の上に立つジュリアスは、自分にだけ見えている天使ではないことを知った。彼女がまだ半分信じられない気持ちで見ている間にも、ジュリアスは丘を馬で駆け下りてきた。二人の護衛が慌ててその後を追う。

 ピアも思わず教会から飛び出していた。どんどん近づいてくるジュリアスを見つめるピアの胸が高鳴り、すぐに馬の蹄の音と重なった。

 ジュリアスは二人の前まで来ると、静かに馬を降りた。予期せずして現れた想い人を目の前にし、ピアの胸に熱いものがこみあげる。

 会わずにいたのはたった三週間ほどだというのに、ジュリアスは少し背が伸びたようだ。

 濃紺の乗馬服の上着がしなやかな体にぴったり合っている。ピカピカに磨かれた黒のブーツは、まるで皮膚のように、引き締まった脚に馴染んでいる。彼は以前よりもずっと堂々として見えた。

 しばし、二人は無言で見つめあった。こんなに胸がときめいたことがあっただろうか、とピアは思った。

「ピア……」ジュリアスが一歩踏み出した時、ピアの背後から冷ややかな声がした。

「ジュリアス殿下、初めてお目にかかります」

 教会から出てきたアンソニーに気づいたジュリアスの目に、にわかに敵意が表れた。その鋭い眼差しに、ピアの背筋が凍りつく。

「あなたは一体……」

 アンソニーはジュリアスをまっすぐ見据え、はっきりと名乗った。

「アンソニー・テンハーゲンと申します。ピアの古くからの友人です。ここでお会いできるなんて、神のお導きのようだ。殿下には折り入ってお話したいことがあったのですよ」

「古くからの友人……」

 アンソニーと対峙するジュリアスの体から緊張が漂う。ピアは足に根が張ってしまったかのように動けず、二人の間でただ立ちすくむばかりだ。

「私に、話だって?」

 ジュリアスは訝しげに眉を寄せた。

(アンソニーが殿下にお話……?)

 ピアにも全く見当がつかず、胸に新たな不安が頭をもたげた。しかし、アンソニーは全く落ち着き払った様子で「少し散歩しましょうか」と、先に立って丘の方へ歩き出した。ピアとジュリアスは顔を見合わせ、その広い背中について行った。

「この辺りは、アグロン王国にはゆかりある地というのはご存知ですか?」

 石橋のところでアンソニーは足を止め、ぐるりと辺りを見渡す。

「いや……知らないな」

 ジュリアスはピアに問うように見つめた。ピアもそのような話は聞いたことがない。街の存在も今日初めて知ったのだ。

「そうでしょうな。この街は二十一年前、ジュリアス様がお生まれになるより前に無くなったのですから。ネイーダ国との戦いの時です」

「ああ、その戦争なら知っている。確か、情報作戦で敵を翻弄して大勝したと聞いているが……それがこの地とどんな関係が?」

 アンソニーはくるりと向きを変え、ジュリアスを正面から見つめた。

「その情報のせいで犠牲になったのが、この街……住人たちなのですよ。アグロン王国はつまり、戦に勝つためにこの街を見捨てたのです」

「そんな話は聞いたことが……」

「そのくらい、他愛もない話ということですよ」

 アンソニーは唇の端を上げた。だが、その目は暗かった。

「私はその話を大学の同僚から聞きました。彼は以前、この花の咲き乱れる谷間の小さな街に住んでいたのです。ネイーダの戦いは両国熾烈な戦いに苦戦を強いられていました。この先にアーレンスという大都市がありますね。アグロン王国の第二の首都とも呼ばれる。敵軍がまずそこを堕とそうとしていることを知った戦隊は、二重スパイを利用して誤情報を流し、この谷でアグロン部隊が待ち伏せしていると思わせて相手をこの谷間に追い込み、閉じ込めて一騎打ちにしようとしました。だが、この街の人間が避難するよりも早く、まだ部隊の体制も整わないまま敵軍は到着してしまった。そして、どうなったか殿下はお分かりかと思います。住人たちは無抵抗でほぼ皆殺しにされたのです」

「そんな……」

 たちまちジュリアスの表情が曇る。ピアの目の前に炎に包まれた家や、敵の騎馬隊に追われて逃げ惑う村人たちが現れ、ピアは恐ろしさに身を竦ませた。アンソニーは悲しげにゆるりとかぶりを振り、続けた。

「その同僚はこの領地一帯を治める貴族でした。しかし、家族や、密かな好意を寄せていた幼馴染まで殺されたのです。彼らは教会に逃げ込みました。彼の幼馴染は足に矢を受け、そこで彼の腕の中で血を流しながら死んでいったそうです。その後、アグロンの援軍が来て敵軍を一網打尽にしましたが、生き残った住人はほんの一握りだったのです。全てを失い、身も心もズタズタに傷ついた彼は修道院に身を預けられ、その後は必死で勉強したようです。彼は機会さえあれば国に復讐をしたいと、今もそれだけを考えて生きています。そんな彼の人生はなんとも哀れではありませんか」

 アンソニーが一気に話すと、ざあっと風が吹き、葉ずれの音が、彼にささやかな拍手を送ったように聞こえた。

 ピアは思わずアンソニーに駆け寄り、彼の手を握った。アンソニーはピアに感謝の笑みを向け、その手を自分の胸の上へ導いた。

「ですから、この国には真の国王が必要なのです。今後国が繁栄するには、国民を犠牲にしてはいけない。統治する国王がもっと頭を使い、相手国を利用し、おだて、争いのない方法でうまく手綱を操るのです」

「それはもちろんだ。私もそうであらねばならないと、日々寝る間も惜しんで勉強している」

 ジュリアスは語気を強めた。アンソニーは頷く。 

「そうでしょうな。ジュリアス様が聡明であられるという事実を知るものは、この国だけにとどまりません。しかし、それには、さらに理屈ではない、勉強以外の努力をしなければいけない。例えば……」

 アンソニーはピアの肩を抱いて引き寄せると、ジュリアスをまっすぐに見据えた。

「より力ある国の王女の心を奪い、ご自分のものにすれば、もう相手国は手も足も出ない。まあ、古典的な人質という手ですが、あなたの魅力でならそれはいともたやすいはず。それに、その効果は抜群だ。違いますか、次期国王……ジュリアス・ベルウォード殿下」

 ジュリアスは顔を緊張に強張らせ、アンソニーに鋭い視線を向けた。

「君は何を言いたい」

「無礼を承知で進言しますが、あなたにピアはふさわしくありません。私の同僚に、いや、この土の下に眠っている人々に少しでも同情されるなら、今後、ご自分の身分と立場を、行動を十分にわきまえていただきたいのです」

 ピアはその言葉に身を凍りつかせた。まさか、アンソニーが殿下と初対面のこの場でいきなり決定打を放つとは思ってもみなかった。

 それに、ジュリアスは三日後に戻ってくる予定であり、まさにこれは運命のいたずらとも言える邂逅にもかかわらず、アンソニーがこのように堂々と諫言するということは、彼はそれをずっと以前から考えていたに違いなかった。

「君は私たちのことを、全てお見通しということか」

 ジュリアスが不敵に笑んだ。ピアが初めて見る、彼の大人の顔だった。ピアの胸は罪悪感でチクリと痛んだ。

「身分は……ピアの地位なら私の妻になるのに問題はない。それに……我が国には豊かな資源があり、それで他国と友好関係を築くことは可能だ。たとえそんな人質を取らずとも」

 ジュリアスの真摯な顔がピアへ向く。せつな、肩に置かれていたアンソニーの手に力がこもった。それが伝えてくることを、ピアは重々承知していた。

 ピアは身を切られるような思いで、口を開いた。

「あの……。私は、アンソニーの言うことが正しいと思います……国王様は生まれながらにして国王様です……。そのお勤めをジュリアス殿下にも全うしていただきたく思います。私たち、全国民の平和のために……」

 自分の放つ一言一言が毒のように体に回り、ピアは苦しくなっていった。

 ジュリアスの目が「まさか」というように見開かれ、すぐに彼の顔は悲しげに歪んだ。だが、それは一瞬のことだった。

「家庭教師の君が言うのなら、その通りなのかもしれない。わかった。君が彼の元に行くのなら、君の持ち物は全てそちらへ届けさせよう。では、お二方、これからも達者でいてくれ」

 ジュリアスは静かに言い、険しい横顔を見せて二人の脇を静かに通り過ぎていった。護衛の手から馬を引き取り、身軽に跨って腹を蹴る。

 その騎乗の広い背中が夕暮れの桃色に滲んでいき、やがて暗い林に吸い込まれていくのを、ピアはずっと見つめていた。

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