侵入者(前編)

 キアラは部屋の窓から、庭の様子を見ることもなしに見ていた。アーチの向こうで、エギュンがラシャード自慢の鷹を青空に放しては呼び戻し、肉を与えている。

(あれだけ愛し合ったのに、愛し合えば愛し合うほど満たされないなんて)

 キアラは長いため息をついた。

 何度も埋められ、その度に奥までラシャードを受け入れたはずなのに、もっともっと欲しいと思う自分の欲望は底なしなのか。

 自分がこんなに淫らな娘だと知ればラシャードに嫌われてしまうだろうか。

 では、ラシャードは? 自分と同じ気持にならないのだろうか。まだまだ味わい尽くしたいと思わないのだろうか。

 本人に聞いてみたい。でも、彼はずっと北へ旅立ってしまった。いつ帰ってくるのだろう。明日? 明後日? 半月後?

 そうやって毎日毎日、彼女は空に向かって恋人に思いを馳せ、無事を祈る事で時を費やした。戦争に行ったのだ。怪我をすることはおろか、命を失うことも無いとは言えない。

 キアラはまだ見た事の無い戦地の様子を頭に描き、その恐ろしい想像に気を揉んだ。

 そんな彼女をアズーラは元気づけようと心を砕いてくれた。

 キアラの好きな、トウモロコシの澱粉にナッツを入れて練った砂糖菓子や、美しい声で鳴く小鳥を運んで来ては慰めの言葉をかけた。

「私の可愛いキアラ様。ご心配には及びません。ラシャード様は無傷でお戻りになられます。戦地に行かれるのも初めてじゃございません。毎回無事にお戻りになられました。安心なさいまし。この後宮の安全は保障されています。ならず者が入ることはおろか、王子の留守中に女たちが売られることもありません。もし、ラシャード様に万が一のことがあれば、ダナニヤ様が宮殿を管理されることを出発前にお約束されていました。それが後宮を持てる者の最低限の資格ですし、ラシャード様ほどに、私どもに心遣いをしてくださる方を私はまだ一人として知りません。さあ、お菓子をお上がりください。王子はきっともうこちらに向かっていますよ」

 一応、アズーラの言葉に耳を傾けるものの、キアラはそれで不安から解放されることは無かった。

 ラシャードが宮殿を離れてから二週間が経った。

 その間、キアラは恋人に手紙を出し続けていた。書いた手紙は宦官に渡し、そして宦官が使者に持たせたそれは戦地へ運ばれているはずだったが、途中で使者が殺されてしまうのか、それとも受け取ったラシャードは筆を取る間もないほど忙しいのかはわからなかったが、一通として返事は来なかった。

 ただ一度、夫の様子を見に戦地へ行ったダナニヤが『万事順調』と言っていたのを、アズーラから伝え聞いただけだった。

 今日もキアラは朝食のあと、すぐに机に向かってラシャードへの手紙を書いていた。

 書き出しは、返事をくれないことへの非難を。しかし、もしかして本当に手紙を書きたくても書けない状況なのではと思い直して、そのあとに、今ではキアラの宝となる愛の詩を綴った。

 キアラが時には筆を止め、ラシャードの思い出を反芻《はんすう》させながら愛の言葉を連ねていると、扉を開けてエギュンが顔を出した。

「キアラ様、お時間があれば私といらしてください。お見せしたいものがあります」

 ラシャードの一番信頼する宦官が何を見せたいというのだろう。もしかして、手紙が届いたのか。

 はやる気持に、書きかけの手紙もそのままで「行くわ」と答えて立ち上がった。

 エギュンについて庭に出ると、さまざまな種類の薔薇が、昼下がりの陽の下で誇らしげに咲き溢れている一角に連れて行かれた。

「この薔薇をご覧ください」

 大柄で強面な宦官がその体に似合わぬ穏やかな笑みを見せた。キアラは、彼の『見せたいもの』が自分の期待していた物ではなく内心がっかりしたが、それでも彼が手塩をかけて育てた薔薇の、純白の大輪に顔を寄せ甘い香りを吸い込んだ。

「そちらではなく、これです」

「それ……? まだ花が付いていないじゃない」

 エギュンの隣に立ち、キアラは青々とした葉の中の丸い蕾を指で突いた。

「この薔薇はとりわけ手がかかるのですよ。始めは元気がありませんでしたが、毎日世話をしながら言葉をかけ、やっと蕾を付けるまでになりました」

「庭の薔薇の世話は全部エギュンがしているの?」

「ラシャード様の宮殿の、キアラ様のこの中庭だけは、私が。しかし、この薔薇だけは共同で……」

 エギュンはなぜか楽しそうに唇を歪めた。キアラはそこに含まれているものがわからず、小首を傾げながら相づちを打った。

「この庭の薔薇だけでも相当だもの。庭師と一緒に手入れをしないと大変でしょうね」

「いえ、庭師とこの薔薇を育てているのではなく、ラシャード様と、なのです」

「え、ラシャード様が薔薇の世話を?」

 エギュンの明かした王子の意外な一面に素直に驚くキアラの前で、宦官はゆらりと頭を振った。

「この薔薇だけです。いつか私がラシャード様に植えたばかりのこの薔薇お見せした時――ちょうど、キアラ様がいらしてすぐだったと思います。ラシャード様はこの薔薇を『キアラ』と名付け、私にことのほか良く世話をするように言われました。『きっと、キアラの髪のようなまっ赤な薔薇が咲くだろう』と楽しみにしてらっしゃいます」

 その話を聞くと、キアラは胸の奥でほんのりと温かなものが息づくのを感じた。

「ラシャード様が何日かキアラ様を呼ばれなかったときがありますね。その間は、毎日のようにこの『キアラ』様に会いにいらして、何かを語りかけるようにしばらく見つめておられました。美しく咲いた花ならまだしも、この蕾を、ですよ」

 どくん、とキアラの鼓動が跳ねる。

「嘘……」

 エギュンは太い指で優しく蕾を撫でながら、黙って頷いた。

「あのように見えて、不器用なお方なのです……」

 キアラが、もっとラシャードの話を聞こうとエギュンを仰ぎ見た時、背後の茂みから耳慣れない音が聞こえた。

 振り向いた瞬間、刀を持った男が一人、二人の前に躍り込んで来た。エギュンは咄嗟にキアラの体を押し「安全な場所へ!」と短く言うと、腰の短剣を抜いて男と向き合った。キアラは素早く石造りのアーチの後ろに身を隠し、二人の様子を伺った。

「ここがラシャード様の庭と知って入ってきたか。不届き者め!」

「いかにも、そのラシャードとやらに用があるのだ!」

 キアラはその男の声にどこか聞き覚えがあることに気がついた。それも、かなり近しい……。はっと顔を上げると、エギュンに飛びかかった男が、刀を振り下ろしたのが見えた。

「待って!」

 キアラは声を上げると、剣を交えていた男が一瞬手を止めた。その隙にエギュンは男に足払いをし、その大柄な体からは想像出来ない素早さで、男の上に伸し掛かる。

「この場で首を落としては庭が汚れる。大人しくしろ。牢へ連れて行く」

 ぎりりと後ろ手に手首をまとめたエギュンに、キアラは恐る恐る近づいた。そして彼が男の顔に巻かれた布を取り去った時、「あっ」と小さな声を上げた。 

「エニアス!!」

 地面に顔を押し付けられているのは、まぎれも無くキアラの幼馴染みだった。

 *

 サヒドは、目の前で跪く若い女の裸の上半身を粘り着くような眼差しで眺めていた。

「確かなのだな? よそ者がラシャードの後宮へ入って行くのを見たというのは」

「イルディンに誓って。ご主人様」

 女が恭しく頷くと、白い肩から豊かな黒髪が滑り落ちた。その女の顔には薄くそばかすがあったが、彼女の美しさを持ってそれは無いも等しかった。

「侵入者は、王子の寵愛する娘の部屋へ忍び入りました。あの、赤毛の魔女めの所へ」

「それから?」

「エギュンが男を押さえ付けましたが、小娘が止めたために、侵入者が受けてしかるべきイルディン神の聖裁を逃れたのでございます。つまり、まだ首は付いております。私は娘が男の名を呼ぶのをしかと聞きました。『エニアス』と。あの間抜けな男は、娘を捜してレスアから来たに違いありません」

 女は嘲弄を口元に浮かべ、サヒドににじり寄った。彼女は相手の浅黒い胸へ手を滑らせ、縮れた毛を指に絡めた。もう片方は「歓喜の支柱」の上でゆっくりと上下させている。

「ご主人様の顔に泥を塗るような噂が街中に広がったのは、お耳に届いて……」

「黙れ!」

 突然のサヒドの剣幕に驚いた女は身を縮ませた。キアラがサヒドに与えた傷痕は頬にばかりにではなく、高過ぎる自尊心にも深く残っていた。そこへ塩を塗られ、サヒドは憤慨に拳を振るった。女は宥めるようにその腕に手を掛けながら媚びた眼差しを向け、愛撫を続けた。

「つまり……とにかく男は娘を見つけ、そして娘は王子の許しも無く宮殿に住まわせ、今も男の世話をしているのでございます」

「それは面白い」

 サヒドは厚い唇を歪め、女の豊かな乳房を鷲掴んだ。

「これより愉快なことはあるまい。おれはあの赤毛を殺すつもりだった。その楽しみを奪ったラシャードにも復讐が出来るというわけだ。あやつを痛めつけるには格好ではないか。自分の留守に寵愛の娘がその恩恵を踏みにじり、間男に寝返ったと知れば、あやつの名誉も誇りも粉々に砕けるだろう。さあ、どんな噂が流れるやら。『寝取られ男』はまず間違いない」

 ごろごろと喉で笑いながら、サヒドは饒舌だ。

「奴隷女の扱いも知らん男が。剣より蛾ペンを握って満足している臆病者が。そのうえ、あやつは好き勝手に税を上げられんようにも、個人の所有する兵の数を統一すると決めた。そのせいでおれは兵を手放し、罰金まで払わされた。どこまでも邪魔な奴よ。あやつがカルファの息子でなければ

とうの昔にあんな男の一人や二人、潰していたのだ。地に這う芋虫のごとくな」

「護衛を呼んで、不貞な娘を捕らえさせましょうか」

 女はこうしてサヒドの密偵として働いていても、表向きはラシャードの後宮に仕える奴隷の一人だった。彼女は、キアラが来る前は何度かラシャードと言葉を交わしていたし、教典を暗唱して王子を感心させたことさえった。しかし、異国の赤毛女が来たと噂を聞いてから、ぱったりお呼びが掛からなくなった。つまり、あの赤毛の娘さえいなければ王子は必ず自分に興味を持つ。もしかしたら、正室に選ばれるかもしれない。そう打算する女に取って、ラシャードの地位が下がるようなことがあっては都合が悪かった。

――あの娘さえいなければ。

 それを日頃願っていた自分にやっと運が巡って来た。後宮の奴隷仲間から、最近よく庭を伺う異国の男を見たと聞いたことも、神が自分に与えてくれた運なのだ。それからキアラの身辺に身を潜め、監視していた目の先に書き掛けの手紙が置き去りにされたことも。

「その必要は無い」

「え?」

 我に返った女の前に、何か思案するサヒドがいた。

「牢に入れられた所でうまく言い逃れるだろう。いや、他の手がよい」

「しかし、そうでもしなければ別に証拠になるようなものはありません。ラシャード様はことのほかあの娘を信頼しております。どうやら秘密の通路の鍵も渡したようですし。きっと王子は妙な術をかけられたに違いないのです。あの魔女に……。そうでなければ私が……私の方が……」

「おまえがあの娘に持つ感情など、どうでもよい! しかし、秘密の通路とはなんだ?」

 女は身を小さくしながら、また主人の機嫌を伺うようにおずおずとその場所を告げた。サヒドは満足そうに頷き、それを見て女はさらに取り入るように続けた。

「私が申したかったのは、たとえ誰かがラシャード様に密告した所で、王子はその者を信じないでしょう。それが真実だとしても。それどころか、賢しい王子のことです。私どもに疑いを向けるやもしれません。もっと別の方法が……」

 女は思わせぶりに言葉を区切り、サヒドに身を寄せた。

「例えば、侵入者が赤毛の手紙を持っていたとしたら。彼への愛の言葉を連ねた手紙を……」

「馬鹿も休み休み言え! そんな手紙がどこにある!」

「お目にかけても?」

 勿体ぶった手つきで、腰に巻いた帯から手紙を取り出した。

 引ったくるようにして奪ったそれに、サヒドは素早く目を通したが、すぐに興味を失ったように女に突き返した。

「だがこれはおまえが書いたのだろう? 直筆ではあるまい」

「もちろん、娘本人による手紙です。ただこれは終わりまで書かれておりません。ですから続きはどのようにも書けるのです。同じペンとインクを手に入れることも容易いこと」

 目を三日月のように細めて笑う女を、サヒドはまだ疑っていた。

「どうやってこれを手に入れた」

「ラシャード様の宦官の一人が、私の意のままになるのです。娘は手紙を書くと、常にその者に渡します。普通ならばそれが使者に渡されるのですが、それは全て私の手に……そして、ラシャード様から渡された手紙は同じ道を逆にたどるだけです……」

「つまり、あやつらの連絡は途絶えているということか」

 さすがのサヒドも先が読めたのか、不穏なものを目に光らせ先回りした。

「よい、なかなかよいぞ。うまくやりおったな、美しき悪しき女よ」

 彼はクッションの後ろから革の小袋を出して女の傍らに放った。ちゃり、と金の擦れる音が甘く女の鼓膜を打つ。

「おまえとはまた近々会うだろう。行け! おまえの不在を気づかれぬうちに戻るのだ!」

 女が行ってしまうと、サヒドは早速自分の兵士たちを呼んだ。

「ラシャードの宮殿にレスア人が忍び込んだ。おまえたちは宮殿のあらゆる出口を見張れ。それから、宮殿の脇を流れるティレ河の河口近くに出る扉がある。そこを探し、そこから出てくる者は必ず捕らえて連れて来い!」

 部屋に一人になると、イブラヒムは脂肪付いた重い体を再びクッションに沈ませた。

「あの娘からの恋文を侵入者が持っていたと、ラシャードに思わせるのはそう難儀でもあるまい。何しろあやつはあの赤毛に狂って何も見えんようだからな……」

 丸い腹を震わせて笑っていたサヒドは、気だるそうに手を叩いた。

「女を二人、連れて来い」

  *

 キアラは、部屋で幼馴染みのエニアスと肩を並べて座り、彼を落ち着かせるように骨張った手を撫でていた。しかし、それは自身の胸騒ぎを鎮めるようにも見えた。

 庭でエニアスを捕らえたエギュンをなんとか説得し、誰にも見られないように部屋まで連れて来たが、ラシャードの留守中に見知らぬ男を部屋へ連れ込もうとするキアラを止めたときのエギュンの非難と困惑の眼差しがまだ瞼の裏にちらついていた。

「本当に、君なんだね。キアラ」

 キアラははっとして、目の前の幼馴染みに焦点を合わせた。

 エニアスが自分を見つけ出したのは奇跡に近い。その努力と忍耐は並ならぬものだったろう。彼は自分を心配するあまり、また深い友情を糧に何日もかけて自分を捜したのだ。

 それを考えるだけで、彼に対する感謝以上の思いで胸が圧し潰されそうだった。

 しかし、この状況はいけない。ラシャードの宮殿で、仮にも彼の奴隷である自分が主人の留守中に男と会っている事実が知れれば、彼は決して自分を許さないだろう。

 やっと通じた思いが無惨に砕け散ることを想像しただけで、流れる血が凍るようだ。それでも、今は幼馴染みを安心させるために心を砕いた。

「あなたがここにいるなんて、まだ信じられないわ! 本当に私を見つけ出すなんて。私、あなたに……いえ、レスアの人に会うなんてとっくに諦めていたの。黙って家を出てしまって、どんなに後悔したか……」

 エニアスはキアラが本物かどうか確かめるように、ぎゅっとその手を握った。

「僕は決して諦めなかった。君が家を出たと知り、君の使用人たちに行方を聞いた。でも誰も君がどこへ行ったか知らなかった。君が一番信頼していた侍女も姿を消していたし……。僕は、彼女が君について行ったと信じていた。でも、もしやと思い、彼女の田舎に使いを送ると、彼女を連れて戻って来た。君は家に戻る気がなかったから、彼女に十分な金を渡して暇を出したんだ。とにかく彼女に話を聞いたよ。最初は『知らない』で通してたけどね、彼女も君を心配していたんだよ。結局君の目的地を教えてくれた」

 キアラは大きな溜め息をついた。

「それからすぐに馬を走らせ、通る街で、村で君に関するどんな小さな情報も集めて回った。そして、やっと小さな奴隷村の奴隷商人の所で、そこで売られていた女の子が、君を知ってると――赤毛のレスアの娘がサヒドに選ばれた――そう、教えてくれた。僕は街で数日、そのサヒドの噂を聞いたけど、あまりいい評判は聞かなかった。ああ、『サヒドの新しい赤毛の猫は、彼の頬を爪で抉り、髭をむしって怒りをかった。首を切られそうになった所をカルファの王子に救われた』とそんな話もあった。それ、君のことだろう? その数日後、奴隷商のところで君の情報をくれた娘を、王子の庭で見つけたときの喜びはとても言葉に表せない。神は僕の味方だ、きっと君をここから連れ出せると確信した。そして、例の彼女に事情を話すと、また僕を助けてくれた。今日、庭に入れるように門の鍵を開けておくと約束してくれたんだ」

「まあ、エニアス! 私を探すために命を危険に晒したのね!」

「妹とも言える君のためなら、なんでもない」

 彼のまなざしは真剣そのものだった。

「でも、君が本当に逃げ出したなんて信じられなかったよ。僕の小さなキアラ……」

「残念ながら本当よ。私は臆病にも逃げ出したの。あの男から……。愛するなんて永遠に不可能なあの男から……。それで父が恥をかき、それよりも私を失って苦しんでいることはよくわかっているつもりよ……」

 それを聞いたエニアスの瞳は哀しみに曇った。

「あいつと一緒になるのが君にとってそんなに嫌だったのか? それが君の人生をここまでの危険に追いつめるほど? 僕らを護ってくださる神のいない国で奴隷に身をやつしてしまうくらい堪え難いことだったのか?」

 ただ俯いているキアラに、エニアスは声を和らげた。

「でも僕は君を見つけた。必ずここから救い出すぞ。大丈夫、国に戻ってもあいつと結婚しなくていいんだ。僕は君を父の管轄領に連れて行く。父なら黙って全てを受け入れてくれるだろう。すぐに君のお父さんも呼ぼう。何も心配はいらない。たとえカルファの者が君を捜しに来ても、父の領地に一歩たりとも入れさせはしない。もし君が僕の妻になれば、そこで穏やかで憂いなき生活を手に入れられるんだ」

 ぱっと顔を上げたキアラの目元は、ほんのりと色づいていた。

「私の親愛なるエニアス、あなたの慈悲と思いやりには心から感謝するわ。でも正直に言うと、私はここから離れたくないの」

 エニアスはすぐに何かに思い当たったように目を見張った。

「君は……恥じているのか? 人に軽蔑されることを恐れているの? この異教の地で奴隷にさせられ、彼らの言うなりに身を預けたことを気にしているのか? 大丈夫だよ、キアラ。僕が君を守る。誰にも君のことを悪く言わせない。君の立場であれば誰だって鞭を片手に強要されれば、命のために従わずにはいられまい。それに、妻を誹謗するやつは僕が許しておかないよ」

「いいえ、誰も強要なんてしなかったわ」

 キアラの頬はさらに火照りが増していた。

「全く逆なの。ラシャード王子は私を死の淵から拾い上げてくれたわ。それに夜伽を強要されることも無かった。私は自ら王子に身を捧げたの。彼を愛してるから……」

 凍り付いたように微動だにせず、薄く口を開けて自分を見るエニアスにキアラはふわりと笑ってみせる。

「王子はまず、とても時間をかけて私を教育したわ。ジュナイの言葉や習慣、歴史や文化を。それは奴隷ではなく、まるでお姫様みたいな扱いだったの。ほら、見て」

 彼女は細い指に輝くルビーの指輪を幼馴染みの前にかざした。

「これは彼の愛の証よ」

「で……でも、君はここでは所詮囚われの身だ。そして奴隷で、見方を変えれば敵国の人質だ」

 エニアスはすっかり取り乱し、口早に言った。

「私は王子のものなの。そして、彼は私の敵ではないわ」

 顎を上げ、キアラはきっぱりと言い放った。

「彼は何者でもない。ラシャード王子、その人よ」

「キアラ……。君は妖しい薬かなにかを飲まされたんだ。そうに決まっている。時間をかけて騙されたんだ。僕は君をここから必ず連れ出す。そして目を覚まさせてみせる。そんな男のことなどすっかり忘れてしまうように」

 興奮気味に立ち上がったエニアスは、胸の前でぐっと拳を握りしめた。そんな彼を見上げるキアラは、至って冷静だ。

「エニアス……。王子無しで私は生きられないわ。忘れるなんて死んでも出来ない」

 そしてゆっくりと立ち上がり、幼馴染みを抱きしめた。

「これ以上ここにいては行けないわ。誰かに見つかってしまえば、あなたは殺されてしまう。ほら、エギュンが戻ってくるのが聞こえる。あなたを迎えに来たのよ」

 幕が揺れ、エギュンが部屋に入って来た。手にしていた黒いマントと布をエニアスに差し出す。

「これを着てください。黒はカルファの色です。布は頭に巻き、最後に顔を隠すのです」

 躊躇するエニアスに構うこと無くエギュンは上着を着せ、器用にターバンを巻き付けた。

「これを。水と数日分の食料です」

 目だけを除いて黒装束のエニアスは、一瞬ためらったが、革袋を受け取った。

「本来なら、侵入者のあなたは私に殺されて当然の身です。しかし、私はあなたを兄と呼んだキアラ様を信じます。キアラ様の家族であれば話は別ですから。しかし、この宮殿での滞在を、ラシャード様の許可無く見逃すわけにはいきません。あなたは一刻も早くこの土地から去るのです。馬を用意してあるので、そこまで私が共をします。キアラ様が秘密の通路の鍵を持っていますから、誰にも見つからずに外へ出られます」

「キアラ! 一緒に来るだろう?」

「静かに。いいえ。私は行けないの。親愛なるエニアス。あなたの愛に感謝しています。苦労して私を探しに来てくれたこと、私のためを思って結婚を申し込んでくれたこと。そして私の無事を父に伝えてくれること……。お父様に伝えて。私は幸せだと。それが一番の知らせだわ。そうだわ。すぐに手紙を書いてしまうから。その方がお父様も信じてくださるでしょう」

 机に駆け寄り、キアラがペンを走らせる束の間、エニアスは悔しさに揺らいだ瞳で彼女を見下ろしていたが、エギュンにそっと肩を押されると重い足取りで歩き出した。

 キアラはすぐに二人の男に追いつき、幼馴染みに手紙を渡すと秘密の通路の扉を開けた。そしてエニアスをもう一度固く抱きしめた。もう二人に交わす言葉は無かった。

 彼らが出て行くと、キアラは元通りに扉を施錠した。涙で視界が歪み、鍵穴に差し込むのにやや手間取ってしまった。

< 前へ    次へ >    目次