亀裂(前編)

 翌日の夕方、キアラがエギュンを共に東の宮殿の庭まで来ると、そこにラシャードを見つけた。

 普段は噴水の近くの大理石のベンチに座り、キアラを待っているラシャードだったが、今日はなにやら落ち着き無くそわそわと歩き回っている。そしてキアラが近づくと、キアラの指にルビーの指輪を見つけるや否や、緊張は一瞬で彼の顔から消え去った。

「指輪を受け取ってくれたのか。そしてお前は自分の意思で私のところへ来た。エギュンはお前が何をするか不安で無理矢理付いて来たのだろう?」

「自分の意思……。奴隷が自分の主人を捜すことをそうおっしゃるの」

 目を細めて答えを待つキアラの手を、ラシャードは黙って取り、親指の腹で甲を優しく撫でると穏やかに微笑んだ。

「ここでは女が自分の意思で出来ることが限られているのだ、私の気高いレスアの姫よ。そして、強いて言えば、そろそろお前が自分の意思で私に優しく微笑んでくれても良さそうなものだが。その敵意の眼差しではなく、ほら、この薔薇のような可憐な笑みを与えてはくれまいか」

「下がってもよろしいでしょうか? そうすれば私の失礼な態度が、王子をこれ以上不快にすることはないでしょう」

「どうしても自由になることしか頭にないようだな。それほどまでにここが、私のものであることが不満か」

「自由を奪われて満足する人がこの世にいるのかしら!? 本当の神を知らない野蛮人の奴隷なんてなおさら!」

「それを言うなら野蛮人とは、お前たちのほうではないか」

 静かな口調だが、ラシャードの瞳に蔑みが浮かぶと、キアラは一瞬身をすくめた。だが、自分を奮い立たせるように拳を振り下ろし、胸を張った。

「あなたたちは、私の故郷から子供や女性たちを略奪しては奴隷にしているじゃない! 何年続いているのか知らないけれど、きっとその数は相当なものだわ! そしてあなたたちの淫らな欲望を満たすためだけに、こんなところに閉じ込めて……!」

「そのおまえの故郷の皇帝は、すでに何度も私たちに奴隷を贈呈しているのだが? 我々の機嫌を取ろうと胃いう魂胆は見え透いているが……」

 目を見張ったキアラを見下ろす彼の嘲笑が濃くなる。

「そして、その奴隷たちは少なくともここでは、自分たちが来た所よりも良い暮らしをしているという確信はある」

「そ、それは現皇帝ではないわ! 現皇帝は無敵だもの。あなたたちの機嫌取りなんてしない! 皇帝がこの国を滅ぼすのも時間の問題よ。そしたら、私は自由の身だわ!」

「おや、皇帝は随分と信頼されているものだな。それともお前がそこまで賛美をする理由は他にもあるのか? 例えば皇帝の隣、妃の玉座を狙っているとか……」

 ラシャードの低い声音には、かすかに怒気が聞こえた。

「玉座に興味なんてこれっぽっちもありません!」

「真理。皇帝にお前のような者の手が届くはずも無い。一体『自由』に何を求めているのだ。自由が何を与えてくれるのだ? 故郷で何かが待っているのか? 貧しい生活が再び始まるだけだろう。仕立て屋の妻にでもなるのか? 一日中埃のなかで鋏や針を動かす夫に、毎晩肉無しのスープを作るのがお前の望みか。それがお前の望む『自由』か? お前は私がここに置いてやっているだけでも感謝すべきことを全く理解してないな!?」

「仕立て屋も技術を高い求められる、大事な商いだわ。毎日身体を動かして働くことの何がいけないの? お客さんに感謝して、喜んでもらえるように常に努力する正直な仕立て屋は、豪華な宮殿の真ん中でただ胡座をかいて、用があれば手を叩き、何か気に入らなくても手を叩いて人を動かすだけで、自分では何もしないどこかの誰かさんよりもずっと高尚よ!」

「黙れ! もう、うんざりだ。お前のその口が災いし、いつか身を滅ぼすだろう。下がれ! そして二度と今日のような態度を見せるな! 私の恩情にも限界があるということを肝に銘じておけ!」

 ラシャードの激しい語気にキアラは一歩後ずさりをしたが、頭を高く上げるとさっと身を翻し、薔薇のアーチの方へ大股で歩いていった。

(私は負けなかった。レスア人として堂々と振る舞ったわ)

 そう思いながらも、回廊を歩く足取りは次第に重くなった。

(でも……。どうして私はいつも反抗してしまうんだろう。王子を怒らせても全然楽しくないのに……) 

 やがて彼女は立ち止まると、深い後悔の溜め息をついた。

  * 

 それから数日後、キアラはやっとラシャードに呼ばれた。

 認めたくはなかったが、エギュンが部屋に入ってくるのを見たとたん、淡い期待に胸が膨らみ、彼がラシャードの命で迎えに来たことを告げると、手にしていた鞠を放り出し、部屋から駆け出していた。

 キアラがラシャードの部屋に飛び込むと、ちょうど彼が近づいてくる所だった。

「ご機嫌いかがかな? 私の高潔なじゃじゃ馬殿。少しは落ち着いたか? それともまた私を怒らせるような言葉を用意して来たのか?」

 いつものように、それに対する無遠慮な返答がキアラの喉まで出かかったが、それをぐっと飲み込み、王子を見上げた。

 自分の前に立つラシャードは、少し疲れて見え、目の下には隈さえ浮かんでいる。

 キアラは、ラシャードが数日間、宮殿を離れて友人たちと馬で遠乗りに行っていたのをアズーラから聞いていた。そしてイドルネを失った直後も、王子は何度かそうやって遠乗りに出掛けていたとも。『あなたを追い出した後、ラシャード様は誰一人として奴隷を呼び出したりしませんでしたわ。傷ついた王子を慰めたがっている女性を全て拒否したのですよ。キアラ様には王子のこのお気持ちがお分かりになりますか』アズールはそう言って、キアラが主人に対する思いやりを全く見せないどころか、侮辱の言葉まで浴びせたことを非難した。そんな言葉を思い出し、また自分の態度を後悔しながら、ラシャードが新しい講義をいつ始めるのかと密かに心待ちにしていた。

 しかし、自ら呼びつけたのにもかかわらず、ラシャードはただキアラの肩に手を置き、その胸中を探るかのようにじっと彼女を見つめていた。

「答えるがいい。もし、お前が不幸にもさらわれるようなことが無ければ、レスアでは何をしていた?」

「一人の男の妻になっていたでしょう」

 王子の唐突な質問に驚きながらも、キアラははっきりと答えていた。

「結婚していたと?」

 ラシャードの金色の瞳に影が差した。

「お前には愛する男がいて、結婚を約束していたと? それがお前の求めるものか。自由が欲しいというのは口だけだったか。誰かの妻になるのは、自由を奪われることではないのか。誰かに支配されるのは嫌いだとばかり思っていたが、そうではなかったか」

 キアラは、ラシャードが誤解しているのを指摘せず、そのまま、彼にはその幸せを砕いた罪悪感を持たせようかと一瞬考えたが、小さく頭を振ってその考えを追い出した。

「私は一人の男の妻になる予定でした。その男は私の父に選ばれた……私が一生愛することのない相手です」

(愛する人を妻に選べるあなたとは全く違う……)

 自分の声を耳の後ろで聞いた気がし、慌ててキアラは瞼を伏せた。

(きっと私はあなたを愛せたでしょう……。奴隷でなければ。あなたに買われた奴隷でなければ……)

 そう、自分は彼の馬と同じように、躾けられるためだけにこうして呼ばれている。主人に服従しない奴隷だから……。

 二人の間にしばし沈黙が落ちた。それを先に破ったのはラシャードだった。

「さあ、来い。講義の時間だ」

 珍しく荒い声音にキアラは急に心中が冷えていくのを感じながら、大人しく部屋の中へ進んだ。

 絨毯の上で寛いだラシャードの隣に座る。

「あなたは全ての奴隷にもこんな講義をするの?」

 ラシャードは意外だと言うように眉をぴくりと上げた。

「そうだな……。例えば、木に熟れた果実がたわわに実っていたとして、それをもぎ取って食わずに、その下を素通りするような間抜けでなければな」

 そんな例えでも、キアラには答えとして十分だった。

「それなら、あなたが満足するために何人の女性が必要なの?」

 ラシャードは、質問を畳み掛けるキアラに目を細めた。

「おまえがそんなことに興味があるとはな。それとも、質問攻めはレスアの習慣か?」

 キアラはそれには答えず、言葉を継いだ。

「サヒドは後宮中の女性を手当り次第に相手にしていたみたい。あなたもそうなの? 同時に何人もの女性を愛せるの? 一度に三人の女性に身体を触れさせるの?」

「確かにそれは、そそるな……」

 ラシャードは声を殺して笑った。

「私も若いときは情慾のままにそんな遊びをしたこともある。だが、それもすぐに飽き、気がつくものだ。自分が愛する者の愛撫だけが極上の快楽を生み出すとな」

 彼は少し身を引き、キアラと距離を取って興味深そうに彼女を見据えた。

「そんなことを知りたかったのか? 私が女たちに囲まれていれば、おまえの気持を(あお)ったのか?」

「そ、そんなこと! 私はただ……、そういうのが普通なのかと……だから、あなたも……」

 ばつの悪そうに目をそらすキアラに、ラシャードは穏やかに言った。

「まだ質問はあるか? それとも、講義を始めるか?」

 密かな期待にキアラの心が震える。ラシャードはキアラに身を寄せ、両手でそっと頬を包むと、顔を自分の方へ向けさせた。

「今日は指輪に口付けるだけでは満たされないからな……。さあ、目を閉じろ」

 キアラの唇に触れたラシャードの親指に微かに力が加わり、唇を軽く開かせた。その上を、親指は優しく往復する。片方の手が後頭部にゆっくりと移動すると、キアラはその動きに倣い、うっとりと主人の大きな掌に頭を委ねた。

「唇は魂の門だ……。お前の唇より私の魂を受け取れ……」

 待ち焦がれていたラシャードの愛撫に、キアラは全身の肌を粟立たせた。それはまだ微かなもので、さっきまで愛撫していた指が唇に代わっただけのものだったが。

 温かく柔らかいラシャードの唇が湿った吐息とともにキアラのそれを撫でる。

 口角に、顎に、頬に、瞼にそれはまんべんなく押し付けられ、再び唇に戻っていった。そうしている間にキアラの身体からは力が抜けて、いつの間にか自分を抱きすくめていたしなやかな腕にただ身を預けていた。穏やかで甘い刺激に、身体の奥から熱が広がっていく。

 こんなに繊細に愛撫する男が、レスアの国境に兵を張り巡らせている。そして、彼の声一つに故郷の運命が掛かっている。

 そして私の運命も……。今はこうして私を抱いているけれど、それは彼に屈しないからであって、もし彼の前に膝を折るようになれば……。彼はきっと、私への興味を失ってしまう……。そうしたら、私は……?

 まだ完全に失われていない理性はキアラにそんな考えを呼び起こさせたが、ラシャードの新たな指の感触で、それは一瞬で消えてしまった。彼は頬に添えていた手の親指をわずかにキアラの口に差し入れ、歯茎をなぞって唇をそっと吸い上げた。

「っ……ぁ……」

 下唇に軽く歯が食い込む感触に、思わず声が漏れる。

 それでもラシャードは口づけを止めること無くさらに相手の舌を探し、絡ませながらキアラの小さな身体を絨毯の上に横たえていく。彼が覆い被さり、キスがさらに深まった。吐息ごと飲み込まれる勢いで舌を吸われると、キアラは目眩を覚えた。

 今や夜風が揺らす葉擦れの音も、噴水の水が弾ける音も聞こえては来なかった。ただ、自分の唇が、舌がねぶられる小さなぴちゃぴちゃという水音が鼓膜に響いていた。

「んっ……ふ……ンッ……」

 執拗な、貪るような激しいキスにキアラが身じろぎをすると、ふと離れた相手の唇から微かに笑いが溢れた気がした。

 しかしキアラがそれを不快だと思う間もなく、すぐに頬に、目尻に湿った唇が触れてくる。顔にキスをまぶされたあと、再び口を塞がれる。軽く啄むようなキスが続き、舌先が何度か唇をかすめた。彼女は再びそれが自分の中に入ってくるのを微かに期待しながら薄く口を開いていたが、一向にその様子が無い。

 もともと気の短いキアラは、不思議に思いながらももどかしさに欲望を募らせ、おずおずと相手を探して舌を出していた。

 もちろん、それをラシャードが見逃すはずが無く、その小さく濡れた花びらのような舌に自分のをそっと触れさせた。しかし、一度だけ触れたそれはすぐに退いてしまう。キアラは思わず相手のカンドーラの胸を掴み、もう一度同じことを繰り返した。さっきよりももう少しだけ、舌を伸ばしてみる。今度も相手はすぐに応えた。しかも前より一層大胆に、舌全体を擦り付けるように強く舐め上げた。その瞬間、キアラのうなじの辺りにぴりっと痺れが走り、思わず肩をすくめる。それでも、与えられた甘美な刺激を再び味わいたい欲求に抗えず、キアラはカンドーラを掴んでいた手に力を込め、まるでねだるように、舌を伸ばした。相手がねっとりと自分を捕らえると、キアラもそれに自ら巻き付け、擦り合わせていた。

「……ンっ……」

 刹那、後頭部の掌がぴくりと動いたと思うと、さらに引き寄せられ、より深く舌が差し入れられた。くちゅくちゅと音を立てながら絡み付いた肉厚のそれは、キアラをざらりと擦り、何度も根元を扱き上げる。

「……っ、うン、っ……ふ……」

 息苦しさと、身体中を駆け巡る快楽に声を漏らしても、ラシャードに身を引く気配はない。自分の中に注がれる熱と唾液を何度も飲み込みながら、キアラは必死で相手にしがみついていた。

 もう片方の手は、ゆっくりと身体を撫でている。胸を、腰を、下腹を何度も行き来し、時折腿の内側にやんわりと指を食い込ませた。その度に、少し先の敏感な場所が脈を打つ。その手の下で身体が溶けて行くような感覚を覚えながら、彼の舌を、そのぬめりと熱を味わっていた。

 キアラの中で激しかったラシャードの動きが穏やかになり、最後に軽く唇を食んで身を離すと、彼は息を乱し、涙を滲ませたキアラの瞳を覗き込んだ。

「さあ、今度はお前が愛を表し私の身体に触れる番だ、高潔なレスアの娘よ」

「い……、嫌です!」

 その声は掠れていたが、きっぱりと言った。まだ意識は朦朧としていても、ラシャードの要求を飲めば自分は彼に負ける、彼を愛撫をすることは、屈服を意味すると即座に察した。

「言う通りにしろ」

 言葉は主人の奴隷に対するそれだったが、声には明らかに切望が滲んでいた。

「嫌です」

「するのだ」

「たとえ鞭打たれるとしても、絶対に嫌です!」

 甘美な魔法は一瞬で解けた。

「それでも、私はそうさせると言ったらさせる。しかし、こうも反抗的なお前に私の寛容が値するかどうか、そろそろ考えものだな……」

 その言葉にキアラの心は激しく痛んだ。きっと、鞭で打たれたほうがまだましな、引き裂かれるような痛みだった。

「ならば、ここから解放してください!」

「そうはいかない」

 低く、唸るようにラシャードは言った。

「まだ講義は終わっていないし、私はお前がそのような態度を改める姿を必ずや目にするつもりなのだからな」 

 それに対して答えようとしたキアラは、いきなり肩を押さえ込まれて息を飲んだ。同時に顎を掴まれ、逃げ道を塞がれた唇を激しいキスが襲った。その勢いに歯が当たり、乱暴に舌が押入り、キアラの中で暴れた。

 キアラは、ラシャードを打つために両の拳を振り上げたが、それも彼に触れることだと思うと、腕は力なく絨毯の上に落ちた。

 ラシャードが顔を離しても、キアラの唇はじんじんと痺れ、激しい口づけの余韻を残していた。彼女は大きく胸を波打たせながらも、上から覗き込む琥珀の瞳から目を逸らそうとはしなかった。

(私は最後まで負けなかったわ)

 じっとキアラを見つめていたラシャードは、その気持を読んだのか、突然身を起こすとぐいっと乱暴に彼女の腕を引き、同じように起き上がらせた。 

「下がれ! お前を無感情の獣だと錯覚した私に、襲われぬうちに行ってしまえ」

 ラシャードの怒りに燃える視線を避けるようにキアラは顔を背けると、足早に幕の向こうへ姿を消した。

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