策士(後編)

「ラシャード様がお部屋でお待ちです」

 アズーラの言葉にキアラの肩がびくんと跳ねた。

 その言葉を心密かに待ちわび、気持の準備もついていたと思っていたが、いざその時が来ると、今にも膝の力が抜けてしゃがみ込んでしまいそうだった。

 既に体を洗われ、すみずみまでマッサージを施されたうえ、仕上げに香水を吹かれて支度は完璧に整っていた。あとはただ、王子――キアラの主人、暴れ馬を手懐けるのに悦びを見いだしている――の元へ行けばいいだけだった。

「い、行かないわ!」

 突然、得体の知れない恐怖に駆られ、薄衣の衣装の胸をぐっと握りしめた。

「あなたに選択肢は無いというのがまだお分かりにならないのですか。王子のご命令であれば、無理にでも連れて行かねばなりません」

「殺してくれればいいんだわ」

「それは賢い方のお言葉には聞こえませんね。死を選ぶのはあなたの意志が通らないから? 死を持って何を証明するつもりですか? それが強さだと? 誰かが感動するとでも? 王子はあなたがまずそう言うだろうとお見通しです。一体あなたは王子に何の不満があるというのです? カルファの一番の愛息子であるラシャード様に。王子が酷いことをしましたか? 一度でも力づくであなたを思い通りにしようとしましたか? ないでしょう? さあ、言うことをお聞きなさい。あなたは恩を仇で返すような方ではないはず。私があなただったら、己の誇りと品位を保つために王子の元へ行きますけどね……」

 アズーラはキアラの波打つ赤い髪を撫で、諭すような口調から一変して優しく語りかけた。

「怖がらなくても大丈夫ですよ。王子は思いやりのあるお方。他の女性も口を揃えて言います。それは優しく、忍耐のある方だと。そして、必ず愛と快楽を与えてくださると」

 それを聞くと、キアラは赤くなった顔を慌ててクッションで隠さなければならなかった。アズーラはふっと微笑むとその後ろに回り、櫛で丁寧に髪を梳き始めた。

「何をするの?」

「ラシャード様のご命令です。あなたの髪を上げた姿がご覧になりたいと」

 キアラは、専属の奴隷が綺麗にまとめた髪に真珠をちりばめた網を被せるのを鏡に見ながら、もし王子が自分に手を出すつもりなら、こんな手間は無駄なのにと胸内で呟いた。

 アズーラに背中を押されるように部屋を出ると、幕の向こうでは宦官(かんがん)のエギュン――去勢された男の護衛――が待っていた。彼の後ろに付き、庭を横切る回廊を渡って行く。

 咲き溢れる花々が、宵の明星の下でしっとりと露に濡れていた。

 やがて王子の東の宮殿に着くと、エギュンが重い幕をよけてキアラを中へ促した。

 白大理石の部屋は広く、華美すぎない金や銀の装飾品が、あちこちに釣られたランプの光を反射し、煌めいていた。中央に厚い絨毯が敷き詰められ、その上に置かれた数あるクッションの一つに体を預けて王子は本を読んでいた。キアラが入って来たのに気がついたラシャードは顔を上げ、微笑んだ。本を閉じて傍らに置き、気丈に立つ娘をじっと見つめた。後ろで幕が下り、その拍子にキアラのガラベーヤドレスの裾が微かに揺れる。

 昼間の暑さが嘘のように、涼風が格子の間から部屋に流れ込んでいた。庭の噴水の水音が小さく聞こえるだけで、まるで世界に存在のは自分たちだけに思えた。

 その瞬間、キアラはなぜ自分がここに来たかを思い出し、高鳴り始めた鼓動を悟られないよう、努めて冷淡な声で尋ねた。

「どんな御用でしょうか」

 ラシャードは方眉をわずかに上げた。

「講義の時間だ。言わなかったか? さあ、隣へ来て跪くのだ」

「レスア人は神の御前でのみ跪くのです」

 その言葉にラシャードは失笑した。

「別に私を拝めと言っているのではない。ただ跪き、目を閉じればよい。野蛮人のように襲って純潔を奪うつもりはない。私には時間がある。おまえが自ら己を私に捧げるのを待つくらいはな」

 笑みを浮かべた琥珀の瞳がさらに輝く。

「しかし、その日はじきに来る。おまえにはまだ自覚がないだろうが……」

「そんな日は絶対に来ないわ。それに、信ずる神を無くしてレスア人は祈らないって覚えておいてください!」

「おまえはその頭でっかちな誇りをどこから得たのだ? 国からか? 権力を前に盲目になる皇帝の犬どもからか? 確かにおまえの国はまだ打ち破られたことが無いのは確かだが。しかし、現皇帝は未だに敵の頭蓋を杯に酒を飲んでいるそうだな」

 口調から、ラシャードがキアラをからかっているのは明白だった。

「私の国に随分お詳しいこと」

「敵を知って知り過ぎることは無い」

「敵って認めたわね」

「今のところは。ただ、それは相手次第でいつでも変わり得る」

 無表情でラシャードは継いだ。

「さあ、言われた通りにやってみろ。おまえはここへ口論をしに来たのではないだろう」

「もし従わなければ、その鞭で打たれるのね?」

 キアラの視線の先に、通常のものより握りがずっと太い黒革の鞭があった。その視線を追いかけ、体を捻ってそれを見たラシャードはおもむろに立ち上がり、壁に掛かった鞭に近づく。

「それが望みなら?」

 鞭を壁から取り上げると、その長い皮紐が長身のラシャードのくるぶしまで垂れた。それを見たキアラの身体が緊張で強張る。

「あなたが私をサヒドから買い取ったのは、自分の手で打とうという魂胆から?」

「なるほど。お前にそのような趣味はなかったのか。私はすっかり……」

 無意識に身をすくめているキアラを見ると、彼は柄に革ひもを巻き付け、元どおりに鞭を掛けた。

「私にも女を痛めつけて喜ぶ趣味は無い。この鞭は、私の師が……とても厳しい教育者が私と兄を躾けるときに使ったのと同じものだ。私は彼から、知識は自らやってこない、絶え間ない努力によってこそ得られると教わった。それには自分を律すること。自分を奮い起こすために多少の痛みも時には必要だと。それを常に思い出すために私は目につく場所に鞭を掛けているのだ」

 ラシャードはゆっくりキアラに向かってくる。

「恐るるな。講義にはこれではなく別の物を使うつもりだ。さあ、こっちへ来い」

 とうとう彼はキアラの腕をそっと掴み、さっきまで本を読んでいた場所に戻った。肩に手を置き、顔を寄せる。

「さあ、跪け。それともエギュンを呼んで、講義が終わるまで体を押さえつけてもらうか?」

 キアラは諦め、その場に跪いた。あの大男に体を拘束されるくらいなら、まだラシャードに触れられる方がましだ……。そう思いながらゆっくりとクッションに頭を置く。

 その動きと一緒にラシャードも、肩に手を置いたまま体を落した。薄い生地を通して、その手から心地よい温みがキアラの体に広がる。

「ただ、こうして触れるだけだ。……この肩と、腕を……」

 ラシャードは耳元で囁き、その言葉に倣って指が肌を滑る。

「そして首と……ああ、目を閉じろ」

 キアラは素直に目を閉じながら、アズーラが髪をまとめたのはこのためなのだと気がついた。

 ラシャードの右手が肩から腕へゆるりと下りていき、彼が触れた場所から徐々に肌が粟立ち始める。そして、もう片方の手が、ゆとりのある肩口から衣装の下へ滑り込んで来たとき、一瞬彼女の呼吸が止まった。それでも動きは反対側と同じで、肩から腕へ、手首へ――そして再び首筋までをゆっくりと往復する。くつろいだ広い襟ぐりから肩を抜かれて服が下ろされ、背中があらわになる。

 そのうち愛撫はうなじから顎、唇へと行き着くと、同じ道を再び下降した。その指が、うなじに掛かったおくれ毛をかすめると、キアラの鼓動は早鐘を打った。

 最初、キアラは男がこんなにも繊細に女の体を扱えることにただ驚いていたが、体はその動きに呼応するかのように、無意識に揺れていた。

 キアラのそんな反応に気を良くしたのか、ラシャードのだんだん力がこもっていった。動きも大胆になり、肩から背中、腕から掌、指先へとその範囲が広がっていく。密着した掌、その力強い愛撫にキアラは目眩を覚えた。体の奥で小さく疼くうねりが、背中を上る手を追うように上昇する。

「あ……」

 微かな衣擦れの音を聞いた後、うなじで、指ではない別の感触が動き出すと、キアラは細い溜息を漏らした。掌よりももっと柔らかい、ラシャードの唇だった。

「触れるのは手だけ、とは言わなかったぞ……」

 耳の下、首筋に掛かるラシャードの息は、肌を焦がすかのように熱い。彼の髪がキアラのうなじをくすぐる。降下した唇が、肩の丸みを旋回し始めると、キアラは相手の体にしがみつきたい欲求を覚えた。――もっと続けて。そんな言葉さえ脳裏によぎる。しかし、それも首筋にラシャードの湿ったキスが小さな音を立てると、理性と共に霧散した。

「んっ……」

 繰り返し首筋を吸われ、キアラは朦朧となりながら、乱れる息の苦しさにふと顔を横に向けた。キスは首から、裸の背中へと移っていく。

「は……ぁ……」

 濡れた舌先が背中でゆっくりと滑る。その焦らされるような、くすぐったくも甘美な刺激にキアラは小さく体を震わせ、溜め息をつくことしか出来ない。それでも、ぼうっとした意識の中で、自分の上に被さった王子が太腿を撫でているのに気がついた。そしてそれは緩やかな曲線をなぞるように下腹へ、胸へと徐々に這い上る。しかし、ラシャードの指が乳房の下をかすめたとおもうと、そこで動きを止めてしまった。乳房を包むように軽く手を添えたまま、舌で背骨の隆起を辿ったり、肩の上で円を描いたりしている。キアラは体の中で育って行く疼きを逃すように身を捩らせた。彼が少しでも手を動かしてくれれば、乳房に愛撫を与えられればこの狂おしい疼きから解放される……そんな気がしていた。

「まだ……今夜はまだだ、赤髪の処女よ。それは明日のお楽しみだ。次の講義でな……」

 ラシャードはキアラの腰に腕を回すと、強く自分の方へ引き寄せ、むき出しの肩にもう一度、柔らかな唇を押し付けた。

「明日……?」

 キアラの声は掠れていた。

「そうだ。それともおまえはこの講義が全てだと思ったか? 一回目の今夜は私の言葉を、おまえの肌が私の手を信用するのが目的だ。明日は、その胸だ……。つまり、胸に触れ、愛撫を与える」

 彼の腕は肌を滑って離れて行った。ゆっくりと時間をかけたそれはどこか躊躇《ためら》っているふうでもあった。それから、キアラの隣に肘で頭を支えて横たわると、楽しげな笑みを口の端に刻みながら、彼女の火照った顔とずれた衣装の開きからから見える、ほんのり色づいた胸元に露骨な視線を流した。

 体は解放されたというのにまだ鎮まる気配の無い動悸と、王子の熱っぽい眼差しに困惑し、キアラは視線を泳がせた。

「このお遊びを本当にまだ続けるつもり?」

「もちろん。おまえがそれに関して疑う余地は無い。私は自分の言ったことは必ず実行するし、公言を取り下げるような真似はしない。それに……」

 一瞬の沈黙に、キアラはラシャードを見上げた。

「これは遊びなどではない。確かに、愛の戯れかもしれんが、上辺だけの楽しみではない。愛の技巧は古くから伝わる。おまえの国では禁欲が美徳とされるかもしれない。だが情欲を満たすことも人生の悦びと、享受している国もある。そうでなければ一体我々は人生の何に楽しみを見いだすのか? 性的な快楽を得ることは美を保つ一番の薬と言われる。この国の女たちはそれを十分承知しているからこそ、この私の宮殿に入る日を心待ちにしているのだ」

「その、あなたが待ち望んでいるのは、手のかかる生娘でないのは確かね!」

 彼は声を出さずに笑った。

「女たちは呼ばれない限りこの宮殿には来ない。ましてや口論と異議を唱えるために入って来た女は、恐らく後にも先にもおまえだけだろう」

「そんなこと信じろって言うの?」

「それはおまえの自由だ」

 ラシャードは支えていた腕を下ろし、その上に頭を乗せると目を閉じた。

「もう行ってよい」

 体を起こしたキアラがなかなか立ち去らない気配に、王子はうっすらと瞼を上げた。

「まだなにかあるのか?」

「この宮殿ってどうなっているの? あなたが私の部屋へ来る時、窓から見ていたけど庭を通る回廊にあなたの姿は見なかったわ。隠し扉でもあるの?」

 彼が笑うと、一房の前髪が額を流れた。

「もちろん、まだ一つ秘密の抜け道がある。しかし、逃げられるなどと希望は持つな。その鍵は私だけが所有しているのだ」

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