策士 (前編)

 ラシャード王子と初めて話をしてから一週間が経っていた。その間、彼は時間があるとキアラの元に来て、隣に座らせた。

 噴水の水が風に散る、色彩豊かな花が萌える庭で、ある時は本を共に読み、また語り合った。王子はジュナイの伝統、神イルディンの存在と、そして神の使徒カルファ――ジュナイの指導者として国の頂点に君臨する――の役目を説くに始まり、星に影響される人間の運命の解釈、そしてレスアの文化への質問まで至った。

 キアラはラシャードの淀みなく湧き出る知識の泉の深さと、人一倍好奇心の強さに内心舌を巻いた。時間はあっという間に過ぎ、話は尽きることがなかった。

 ラシャードは何度かキアラの家族や生活のことを尋ねたが、その度に彼女は曖昧に答えた。家族のことを思い出せば、キアラの胸は後悔で痛む。キアラには父が、父にはキアラがたった一人の肉親だったからだ。

 十七まで手塩にかけた愛娘が突然いなくなり、哀しみのどん底に突き落とされた父は今、どんな思いで暮らしているのだろう。父は、キアラはすでに狼の餌食か、野盗に殺されたと信じているに違いない。

 しかし、自分は生きていて、カルファの息子の奴隷として金と絹で出来た鳥かごに捕われている。それを知らせる術がないのも彼女の哀しみをいっそう深くさせていた。

 ある晩、ラシャードはキアラの部屋を訪ねた。彼の背後に控えた二人の女奴隷は、繊細な彫り模様の木箱が載った、短い脚の小振りの台と、美しい布張りの小箱を手にしている。

 王子は座っているキアラの前に台を置かせると、自分はそれを挟んで反対側に陣取った。キアラが今までに見た中で最も美しいチェス台だった。

 興味津々で眺めていると、彼は木箱から出した駒を次々と配置していく。それらは見るからに高価な木で作られていて、磨かれ、濡れたような艶を放っている。

「チェスの心得はあるのだな」

 全ての駒を定位置に並べると、片膝を立てた王子が口の端を上げた。

「はい、父に習いました。父はいつも忙しく、あまり一緒に過ごす時間がなかったので、たまに父とチェスをするのは私にとって唯一の楽しみでした」

「ならばお手並み拝見といこう。おまえが先攻だ」

 促され、キアラが指を駒に伸ばした時、

「ああ、ちょっと待て。何か賭けようではないか。その方がより面白くなる」

「賭け……?」

 小首を傾げた彼女の前で王子が右手を軽く上げると、跪いた奴隷が小箱を差し出した。

「ここに宝石がある」

 蓋が開けられると、中の宝石の数々が部屋中のランプの明かりを受けて輝いた。

「私に勝ったら、どれでも好きな物をやろう」

「でも、私には賭けられるようなものがありません」

「それなら、服を賭ければよい」

 キアラは露骨に眉をひそめ、まとめ上げていた髪から真珠の髪飾りを外した。勝負を受けないという選択肢は無かった。

「これを賭けます」

「おまえがそうしたいのなら構わない。さあ、始めよう」

 勝負を申し込んだだけあり、彼の腕はなかなかのものだった。

 だが、キアラが幼少から父にその手ほどきを受けただけではなく、父の弟子や、非番の護衛を捕まえてはキングを何度も奪っていた事実を、ラシャードは残念ながら知らなかった。

 一局目が終わると、キアラは王子に差し出された宝石箱からエメラルドを一つつまみ出した。

 キアラはその大振りな宝石を、勝利の重みを楽しむように掌で転がす。

「まだ続けるおつもり?」

「もちろん。勝負はこれからだ、私の賢しきレスア人よ」

 彼は勝負に集中するためか、二人の奴隷を下がらせた。

「ふむ……。どうやら私は新しいチェスの師を得たようだな……。後宮の女たちともチェスはするが、これほどの腕の者はまだいない」 

「王子はまたその手で攻めるのかしら?」

 ラシャードが駒を進めると、キアラは胸内でほくそ笑んだ。

「この手以外にないだろう?」

「そう? なら、あとで他の女性とこの戦略で一戦交えるといいわ」

「そうだな……」

 思案し、盤に視線を落した相手の顔を、向かいのキアラは睫毛の下からそっと観察した。

 思えばラシャードをじっくり見るのはこれが初めてだった。

 憎むべき相手の神々しいまでの美しさに、一目見たときから惹かれるものはあったが、こうして改めて見ると、今まで会った異性で彼以上に端麗な容姿と均整の取れた剛健な体を持ち合わせた者はいないと、認めざるを得なかった。

 張りのある滑らかな浅黒い肌、肩まで伸びた真っすぐな黒髪。瞳と同じ色の濃く長い睫毛。高い鼻梁に、艶のある声を紡ぐやや薄めの唇。

 襟の開きがゆったりとした白麻のカンドーラに包まれた広い肩幅と、そこから続くしなやかな腕、長い指、手入れのされた爪……。

「勝ち目はなさそう……か?」

 ラシャードの声にキアラは我に返った。ちらりと注がれた相手の眼差しは、勝ち目がないといいながらもまだ余裕があるように見えた。

「だが、私はすぐに諦める類いの男ではないぞ……」

 やがて、ラシャードとキアラが駒の位置を順番に進めるうちに、優勢だったキアラがいつの間にか追いつめられていた。

「クィーンが危ないな? 相当な危機だぞ?」

 何手か交わした後、自分のキングが相手の長い指に取り去られるのをキアラは呆然と見ていた。

 その次も、その次の勝負もキングと一緒にキアラの身に着けている物が一つずつラシャードの手に渡っていく。絹の室内履きの最初は右、そして左。透かし編みの肩掛けに、腰に巻いた金の鎖。

「まさか、もっと脱げなんて言わないでしょうね!?」

 キングの消えた場所を見ていた深緑の瞳は、相手を鋭く睨みつけた。

「言わないと思うのか? 勝負は勝負だろう?」

「じゃあ、この宝石を返します」

「そのような条件ではなかったはず。そうだな、上着だ。私はおまえの上着が欲しい」

 上着というのは薄衣の膝までのドレスで、その下には足首で絞ったゆったりとしたズボンを合わせている。キアラは薄い笑みを浮かべるラシャードを睨みつつ、唇を噛んだ。

「さあ、早く」

「いやよ!」

「勝負前の協定を忘れたか? それともおまえたちレスアの民は簡単に協定を破るような低俗な人種か?」

 キアラは怒りに瞳を一層輝かせ、忙しい手つきで、上着ではなくズボンを脱いで投げつけた。これでまだ肌を晒すことは逃れた。

「降参か?」

 ラシャードは肩にまだ体温の残る軽い衣を笑いながら受け取り、尋ねた。

「まさか!」

「ほう。それでこそ私の勇敢な牝馬だ」

 しかし、その威勢も徐々に、駒と一緒にラシャードに持ち去られることになった。王子のルークがキアラのキングを完全に包囲した時、彼女は思わず「あっ」と声を上げた。

「私の勝ちだな」

 肩を落としたキアラは、王子がまだ何も言わないうちにすでにドレスの裾に両手を掛けていた。せめて敗者なら敗者なりの潔さを見せるつもりだった。

 ラシャードは、布が少しずつたくし上げられ、真っ白な膝が、腿が現れて行く様子を、眩しいものを見るかのように目を細めて眺めた。

 キアラは、とうとう頭からドレスを抜くと、波打つ髪を素早く前に流して乳房を隠し、脚をきつく閉じた。ドレスを持った右手を王子へぐいと突き出す。

「もう一局どうだ? この局でおまえが勝てば今まで私が受け取った戦利品と、全ての宝石をおまえにやろう」

「でも……服はもう無いわ。負けたら……」

「負けたら、そこに立って体を見せればよい」

「そんな……!」

 キアラは一糸まとわぬ体の前で腕を交差し、強く眉を寄せた。そして、次の瞬間、閃いたように目を見開いた。

「もしかして……、わざと負けたのね!? 最初の局はわざと私を勝たせて油断させたんだわ! あなたは一局目で自分の方が強いと確信した。それでも私に優勢になるように手加減しながら……」

「ご名答。さあ、おまえが先攻だ。投げ出せばおまえの負けだぞ」

 ならば一発逆転の勝利を。そう思うと、拒否していた気持はどこかへ消え、キアラは片手で脚の付け根を隠しながらもう一方で駒を動かしていた。

「卑怯だと思わないの? それが高潔な王子のすることかしら!?」

 ラシャードの一挙一動を見逃すまいと睨みつけたキアラに、相手は喉を微かに鳴らして笑ったが、その目は真剣だった。

「私の殊勝なレスア人よ、おまえは私を何だと思っている? 私は王子であり、また此の国の戦士だ。卑怯でも勝てばそれは戦略だ。そして妖麗な女を得ようとそれだけを考える一人の男でもある。とはいえ、おまえも、私もチャンスの数は同じだった。私の方が本気だっただけのこと」

 しばらく形勢は互角であったが、時間が経てばじわりとラシャードの陣が襲いかかってきた。

「私の負けみたいね。もうこれ以上続ける意味がないもの……でも、こんな勝負でレスア人の鼻をへし折ったと思ったら大間違いですからね!」

「まさか。しかし、レスアの名誉をそれほど大事にしたいのなら、さあ、そこに立ってみせろ」 

 ラシャードは手の上で、取ったばかりのキアラのキングを転がしながら、彼女の体を流れる髪、晒されている平らな腹、そして真っ白な太腿へと視線を移していった。

「さあ……立つのだ。燭台の近くへ。はっきりと見えるように……」

 キアラは仄かな明かりの中に立った。もう、手で体を隠す気力も無かった。体が震えるのを感じたが、それは寒さからではないのはわかっていた。

「ゆっくり回ってみろ」

 ラシャードの柔らかな声音に彼女の体の震えはやや治まった。

 そして、素直にゆっくりと回り始めた。一回……二回……。やがて立ち上がったラシャードが彼女の前に来たとき、キアラは恥ずかしさに顔を伏せた。彼が丁寧に彼女の髪を分けると、乳房が露になる。

 その瞬間、ラシャードが静かに吸った息をキアラは聞き逃さなかった。

「ただの美しさではない。おまえは非の打ち所の無い美、そのものだ……。隠さず全てを見せておくれ。そのエメラルドにも勝るとも劣らぬ碧の瞳も……」

 媚の含む声を跳ね返す勢いで顔を上げたキアラは、相手の眼差しに謎めいた炎が揺れるのを見た。静寂の中、二人の視線が交じわっていたのはどれくらいだろう。キアラはラシャードの瞳に吸い込まれるような錯覚を覚え、体をふらつかせた。それを腕に受け止めながら王子はふっと笑う。

「おまえの魔術に掛かってしまったようだ。だが、私に体を見せるのはそれほど嫌か?」

 相手のからかうような薄笑いを見ると、キアラは体を支えている腕を押し返し、踵を返して部屋の隅の暗がりへ逃げた。

「まあよい。明日から躾は始まるから心しておけ。私の美しいじゃじゃ馬よ……」

「いい加減にそんなふうに呼ぶのは止めて! 私にはキアラって名前があるの!」

 ラシャードはゆっくりと目を瞬かせた。

「ほう。キアラか……。その姿を表す美しい響きだ。そのうち私がその名を呼ぶ日が来るかもしれんな……。誇り高きじゃじゃ馬よ」

 キアラは怒りのあまり窓の方に体ごと向いた。それでも、背中で遠ざかって行く静かな足音を聞きながら、ラシャードがどんなふうに自分の名を呼ぶのかどうしても想像せずにはいられなかった。

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