愛の手引き(後編)

  *

 その夜、キアラは夜着を着せるアズーラに話しかけた。

「アズーラってもうずっとここにいるのよね……。随分たくさんのものを見て、聞いて来たでしょうね……」

「ええ、それはもう。でも、この舌が災いを(いざな)うなどということは無いように、話す時

には常に気をつけているつもりです」

 すでに用心した、平淡な声音だ。

「アズーラはラシャード王子のことをよく知っているわよね?」

「ここに来てからですね。あなた様のお世話をするまでずっとダナニヤ様と、その前はラシャード様の正室にお勤めさせていただきました」

「王子の正室!? 他の後宮にいるの? どうして私は後宮へ連れて行かれないのかしら」

 今度はアズーラが肩をすくめた。

「それはキアラ様ご自身がお尋ねになってください。一つ心当たりがあるとすれば……キアラ様が他の奴隷たちの混乱を招くとお思いになっているのでは?」

 アズーラの、くすくすと柔らかい笑い声がキアラの耳をくすぐった。

 やはりアズーラもそう思っているのだ。まあ、始終この態度で王子に接していれば、それも

仕方ないとキアラは小さく溜め息をついた。だが、彼女が自分という人間をきちんと理解し、受け入れているのは嬉しかった。そして、もっとラシャードを知りたいという気持がキアラの口を動かした。

「そういえば、王子はいくつなの?」

「冬で二十七になられます」

「子供はいるの?」

「お嬢様がお一人」

 答えたアズーラの声は暗い。

「しかし三年前の春、お生まれになって半年も立たないうちに天に召されました。神イルディンの懐にお戻りになったのです。そしてその後に正室がお亡くなりに……」

 当時のことを思い出し、アズーラは深い溜め息をついた。

「ラシャード様は……それはもう、言葉に表せないほどに哀しみに打ち拉がれているご様子でした。王子はお二人を心から愛していましたから……」

「それは……、お気の毒に。でも、他の女性は? 彼の慰みになる人はいなかったの?」

「イドルネ様は特別でしたから。王子のただ一人の正室だったのです。イドルネ様がお亡くなりになった後、ラシャード様は誰一人として正室にお迎えしておりません」

  キアラは勢い良く侍女へ顔を向けた。

「え? 正室が一人? だって……この後宮の全ての女性が彼のものでしょう?」

「そうですよ。でも、誤解されては困ります。男性は彼らが養えるだけの奴隷と側室を持つことは許されていますが、正室は四人までです」

「同時に四人?」

「ええ」

「でも、大体、側室と正室の違いって何?」

 キアラは大きな瞳をくるりと回した。アズーラは編んだ髪をひと撫でして、正面のクッションに腰掛けた。

「正室は、側室に比べるとずっと多くの権利を得られます。主と別れるという権利さえも。暴力を振るわれたり、きちんと養われなかったり……。それは奴隷や側室には手に入らないものです」

「そうなの……。でも、それにしても男って同時に何人もの女性を愛せるものかしら」

 アズーラの、黒い睫毛に縁取られた目が見開かれた。

「愛せないことがありますか! キアラ様の国だってそうじゃありませんか? よろしいですか。全ての女性に違いがあります。男はその違いに魅力を感じ、それを愛するのです。ある女の髪輝きを、また別の女の手の美しさを、また別の女の声の響きを……」

「でもそれは……外見に過ぎないわ」

 キアラは撥ね付けるように言った。

「魂こそがその人を象るのよ」

「女性は男性に気に入られ、奉仕するべき存在なのです」

 アズーラの迫力に気圧されるように、キアラは口をつぐんでしまった。

 結局女はその運命からは逃れられないのだ。

 実際、そのキアラも故郷においては結婚を目前に迫られている身だった。

 結婚を申し込んだのはレクシオスという戦士で、国ではいくつもの軍隊の総長を勤めていた。戦場にて彼の剣に着いた血は乾くことなく、歯向かう部下の首も躊躇い無く刎ねると噂の男だった。レクシオスは宮殿を訪問した際に、キアラを一目で気に入り、翌日彼女の家の戸を叩いたのだった。

 日頃から男手一つで育てた一人娘の将来を案じていた父は、レクシオスの権力と財力が娘の憂い無き将来を保証すると疑わず、泣いて拒んだキアラを「結婚など、してしまえばすぐに相手に慣れるものだ」と宥め、説得した。

 しかし、初めて面会した求婚者の顎髭に動くシラミを見つけた時、キアラは背中に悪寒が走るのを感じながら、絶対にこの結婚から逃げ出そうと決心した。

 そして実行に移した末路が――後宮の奴隷だった。

 小さく頭を振り、レクシオスの記憶を追い払いった脳裏に次に浮かんだのは、父の助手であり幼馴染みの、文官のエニアスだった。三歳の差でも慎重な性格の彼は、勝ち気なキアラとよく議論をぶつけたが、それは遊びの延長のようなもので、わざとお互いに相手を挑発し、楽しんだものだった。彼は自分が急にいなくなってどう思っているのだろう。キアラはふっと小さく息をついた。

「それで、ここの奴隷は何人いるの?」

「三十人くらいでしょうか。サヒド様や他の貴族の奴隷は二百人ほどだと聞きますけれど。確かに、これだけの規模の宮殿にしては少ないですね。ラシャード様は彼らから何度か奴隷を贈られたようですよ。王子はご自身では積極的に買われませんから。最近はお母様からとても美しい奴隷を四人ほど贈られたようです」 

 アズーラは手を伸ばし、三つ編みの一房を撫でた。こうしておけば翌朝キアラの髪が踊る炎のように波打つし、何よりもラシャードがそれを気に入ってることは二人とも知っていた。

「で、みんなここにいて幸せなの?」

「他にどこに行けと? 彼女たちにとっては、ここが故郷なのです。それに私の目には、十分満足しているように見えますけれど。あなたを除いては。他の者は皆、ラシャード様に愛される日を待ちわびているのです。彼女たちの場所を得るために……」

――つまり正室の座。

 キアラの下女は敢えてそれを口にしなかったが、十分伝わっていた。

「どうして奥様は亡くなられたのかしら」

 キアラはイドルネのことが気になって仕方が無かった。ラシャードが愛して止まなかったと言うただ一人の女性……。

「大変な難産で、お医者様があらゆる限りの手を尽くしましたが、それでも結局……」

 声を絞り出すように言ったアズーラは大きく一息吸い、言葉を継いだ。

「ああ、イドルネ様はそれは美しいお方でした。まるでおとぎ話からこちらの世界に迷い込んだお姫様のようで……。大きな瞳と華奢なお姿。美しいのはそのお心も。つねに微笑みを絶やさず、また自分をしっかりお持ちになった聡明な方。イドルネ様はこの後宮だけでなく、国中の民にも愛されておりました」

 それからしばらくアズーラは、イドルネの死後にどれだけラシャードが哀しみに暮れたかをあらん限りの憐れみの言葉を連ねて語った。

「イドルネ様の最期のお望みは、美しい薔薇に囲まれて、とのことでしたから今も宮殿の庭でお休みになっておられます」

「それは、このお庭?」

 キアラは窓の外に視線を向けた。白や黄色、ピンクに赤……。幾重にも重なるビロードのような花びらを広げて濃厚な香りを漂わせる薔薇園は自分に与えられたものだと思っていただけに、キアラは軽いショックを受けた。

「いいえ。ここではありません。宮殿の別の場所です。もう長いことラシャード様はそちらに行かれていないご様子ですが。ここに入られたのはキアラ様が初めてですよ」

「ラシャード王子は本当に奥様を愛していたのね……」

 自然とキアラは呟いていた。そして、今まで感じたことの無い切なさが胸を満たしていくのに気がついた。

 もはやキアラにとってラシャードは、何を考えているかわからない、後宮の女たちに愛情を振りまく主人では無かった。彼は妻に愛される夫であり、その妻を、子供を愛する父親でもあったのだ。そして、愛する者を失い、心に深い傷を持つ一人の男。

 キアラは彼の過去を知ると、ラシャードが隣にいないのを初めて寂しく思った。

  *

  翌日、キアラを尋ねて来たラシャードは隣に座ると、彼女が手にしている本を見て驚いた。

「古い童話だな。おまえはもうこれが読めるのか」

 キアラは彼に一言も答えず、ほんの一瞬ラシャードに視線を流しただけだった。昨夜のアズーラの話は確かにキアラの心を動かしたが、それでもラシャードがエギュンをだしにして自分を追い詰めたことが、まだしこりとなって残っている。

 彼の存在を極力無視し、本の内容を理解しようと努力しているキアラの視界に、突然拳が入ってくる。ゆっくりと手首が返され、拳が開かれると、そこに金の台座に留められたルビーの指輪が現れた。大振りの、贅沢な宝石はラシャードの手の上で光を吸い込み、燃えているようだった。

「おまえのものだ。受け取れ」

「これで私の付加価値が上がるというわけ?」

 キアラは鋭い眼差しを向けた。

「私はすでにあなたの物なのに、これを頂く理由はありません。それとも、これはお餞別かしら。私をまた他の人に売り渡すおつもり?」

「ふむ……、おまえは私が思っているよりも随分物事に通じているらしい。そうだな、その粗野な性格が少しはましになり、まず唄や踊りを覚えてから、売ることを考えよう……」

 不思議と彼の声音は頼りない。キアラは全てを悟ったように小さな顎を上げた。

「つまり王子はあの特別な講義でもって、私の値段をつり上げようと?」

 ラシャードはその言葉に頭を反らせて笑った。

「本当に期待を裏切らないな。まったく、お前のような者は初めてだ。お前が来る以前の生活はなんて単調だったのだろうと思わずにおれん」

「期待させてるわけじゃないわ」

「私の講義を呪いたければ呪えばいい」

 王子は急に真顔になったが、キアラはそれを無視して再び本に目を落す。

「お話がそれだけなら、行っていただけますか。一人で本を読みたいので」

「お前は主人を追い払うつもりか?」

「ここにいらっしゃるよりも、もっとお利口なお猿さんでも探しに行けばよろしいかと」

「それはあまり気が乗らんな。正直、猿はお前ほど私を刺激しないし、口論出来るほど賢くもない。ただ……、恐らくおまえよりは従順だろうな」

 キアラが無視し続けていると、ラシャードが再び指輪を差し出した。

「これは純粋な贈り物だ。私の……奴隷への労いだと思えばいい」

 それでも彼女が何の反応を示さないのを見たラシャードは、やや強引にキアラの手を掴むと、その中指に指輪を滑らせた。

「思った通り、ぴったりだ」

 満足そうに呟くと、彼はキアラの頬にその息がかかるほど近くに身を傾けた。

「おまえの唇、口づけはこのルビーのように情熱的だ。私はその唇を常に渇望して止まないのだよ」

 ラシャードは指輪をはめた手を引き寄せ、指輪にそっと唇を押し付けたあと、身を起こしてキアラの方を一度も振り向かずに静かに部屋を出ていった。

 彼が去ってからもキアラはしばらく放心したように風に揺れる庭の薔薇を見ていたが、やがて指輪をしている方の手をゆっくり上げ、その燃えるように輝く石に口付けた。

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