ラシャード王子

「具合はいかがです?」

 キアラが目を覚ますと、ぼんやりとした視界に人らしき影が入り込んできた。同時に、背中から頭に掛けてズキズキと疼くような痛みが襲う。

「ここは……どこ?」

 痛みに顔を歪めながら、キアラは輪郭のはっきりしてきた女性に聞いた。

「あなたがサヒドのところで鞭打たれていた時、ラシャード王子が自らお越しになり、拷問を止めさせたのです。それからあなたをここに連れて来ることを命じられたのです。あなたは大臣のご子息から、カルファの王子に買われたのですよ」

「それは……つまり、」

 女はキアラの言葉を遮り、手にしていた杯を差し出す。

「今はお話もいけません。さあ、これを飲んで。痛みが和らいでゆっくり休めます」

 素直に薬を飲み干したキアラが、そのまま寝台から出ようとするのを、その年配の奴隷が厳しく制した。

「横になって! 急に起きるのはだめです。もとのように綺麗で柔らかな肌になるまで、時間をかけて傷は癒さなくてはいけませんからね……」

「そのラシャード王子様とやらが、綺麗な体の女をはべらせておくのがご所望というわけね?」

「あなたは、ここにいるのを恥じることはありません」

 近くにいた別の若い女がキアラに微笑んだ。さらに、その隣の女が頷く。

「そうよ、傷が治るのはあなたにとって不都合なの? その傷は見るに耐えないわ。でも、ここにいたらそれもすっかり良くなるのよ」

「サヒドは拳で殴ったのですか?」

 訊ねられ、キアラは指先で腫れた唇に触れた。わずかだが、そこがぴりっと痛んだ。

「これはヤギの乳です。飲めば力がつきます」

 年配の女奴隷がまた別に差し出した器から、優しい香りが湯気とともに立ち上っている。キアラは一口それを飲んでため息をついた。

(でも……本当に助かったのかしら。悪魔の手から落ちて、別の悪魔に拾われただけかもしれない。ええと……ああ、ラシャード。ラシャード王子……)

「ねえ、ここは何処? あなたは誰?」

「ジュナイの国、ラシャード王子の宮殿。私はアズーラ。王子のお世話をさせていただいている奴隷の一人です。正確にはダナニヤ様の、ですが。今はあなたに仕えるように仰せつかっております」

「あなたは私の国の言葉を話すのね」

「私はレスアの隣国の生まれですから、あなたの言葉も分かるのです。私は子供の頃に父によって奴隷商人に売られました。そして、カルファの宮殿にダナニヤ様の奴隷として買われました。カルファはご存知ですね? ジュナイの神、イルディンの使徒という天命を担ったジュナイ国の頂点に立つ指導者。私はその奥様、ラシャード王子のお母様の奴隷です。そして後宮で唯一レスア語を話す私をラシャード王子はお母様に、この宮殿に連れて行くことを望まれたのです。あなたのために。あなたがジュナイ語を話せるようになり、後宮で自立するお手伝いをするために」

「どうして王子はそんなことをするの?」

 アズーラは困ったように肩をすくめた。

「王子はここにいる全ての女性に良くしてくださいます。皆、王子を敬愛していますし、いつでも喜んで愛を差し出すのです。王子は今、近隣諸国の視察中ですが、あと満月を二度迎えればお戻りになります。その時にあなたは感謝を込めてあの方の足下に膝まずくことが許されるのですよ」

 それから数週間ののち、アズーラの甲斐甲斐しい看病のおかげですっかり快復したキアラは、彼女にジュナイの言葉を教わったり、美しく手入れをされた広い庭を散歩したり、艶やかな鸚鵡《おうむ》と戯れて過ごした。

 そんなある晩、キアラがランプの下で本を読んでいるとアズーラが入ってきた。

「王子がいらっしゃいます。すぐに着替えてください」

「王子が私に何の用?」 

 首を傾げたキアラに、アズーラが唖然として声を上げた。

「何の用、ですって? あなたに会うためと決まっているじゃありませんか! まさかあなたはラシャード様への忠誠も感謝の気持も示さないつもりですか?」

「感謝ですって? 彼があの暴君から私を買い取って『王子の奴隷』に昇進させたことに!?」

「もちろんです。第一、これからご自分の目で確かめられるでしょうが、ラシャード王子は、それはそれは壮麗な方です。そのうえ勤勉で、聡明でいらっしゃる。あの獣のようなサヒドや他の男性とは全く格が違いますよ」

「私はまだ彼のものになったわけじゃないわ」

「なんとおっしゃるのは勝手ですが、あなたに選択肢はないのです」

 アズーラが手を叩くと、すぐに数人の女奴隷たちが入ってきた。彼女たちはあれよあれよという間に衣装をキアラに着せ、化粧をすると、波が引くようにさあっと部屋から出て行ってしまった。

 部屋の扉に掛かっている幕が片方に寄せられ、今度は一人の男が入って来る。彼は数歩入って立ち止まり、そこからキアラを見据えた。その静かな振る舞いと穏やかな眼差しは、キアラを不安がらせないための配慮にも思えた。

「すっかり快復したようだな」

 流暢なレスア語だった。

「そうね。おかげさまで、ここからいつでも出ていけるわ」

「赤毛の女は珍しくはないが、そのどれもが染めていた。だが、おまえの髪は……」

 キアラには答えず、彼は陶酔したようにキアラの髪に視線を注いだままだ。キアラはその熱っぽい眼差しをなぜか直視できず、目を伏せた。

「自然の賜物……まさに炎そのものだ」

「あの……教えてくださらない? あなたは私をどうするつもり? アズーラは優しくて、良くしてくれたけど……。彼女が言っていたわ。あなたがサヒドから私を買ったって。でも、それを私のためにしてくれたのだとしたら、他に出来ることもあったはずよ。例えば、私を故郷のレスアに帰してくれるとか。もし私が無事に帰れば、あなたがサヒドに払ったお金にお礼を足して返すことも出来るわ」 

「金に興味はない」

 王子はキアラのはすっぱな態度を無視するように、言葉を継いだ。

「あの男からおまえを買ったのは、その美しい髪が気に入ったからだ。もしおまえを今手放したら私に何が残る? 金は十分過ぎるほどある。だが、これほど美しい髪を持つ、白い肌の女はそう簡単に何度も手に入るものではない」

「でも、私は無理矢理ここに閉じ込められているのよ。誘拐されて、こんな遠くまで連れ去られて。私、残りの人生を異国の後宮で過ごす気なんて、これっぽっちもないの」

「ほう? その気が無い? ここから去る? では聞こう。今日まで誰かから不当な扱いを受けたか?」

「いいえ……その反対」

 キアラは答えに窮した。上げ膳据え膳のうえ、毎日与えられる高価な衣装、湯浴みをすれば奴隷が身体を清め、香油を塗り付けてくれる。キアラはレスアでもそれなりの地位にいたが、それでもここまでの扱いではなかった。

「それでも不満というか」

「私は、望んでここにいるわけではありません」

「恐らくそうだろうな」

 相手はくすくすと忍び笑う。それは心底可笑しそうで、彼女の気持ちを一瞬にして逆撫でた。

「わかっているなら、なぜここから出してくれないの?」

「それは簡単だ。私がそうしたくないからだ。そして、ついでに言っておくが、私はこのような意味のない会話は不得手だ」

 彼は穏やかに続けた。

「それに、その話し方は主人に仕える奴隷のそれではないな。私はおまえに相当の金を支払った。すでにおまえは私の所有物なのだから、早く自分の立場を悟ることだ」

 彼は周りを見渡し、いくつかのクッションを石造りの水槽の傍に置いて座り心地をよくした。

「こっちへ来い。とにかく座って話をしよう」

 キアラはその場から動こうともせず、訝しげに彼を見た。

「言いたいことはもう全部話したわ」

「なんて愛想の無い……。他の女たちは皆こぞって私の気持を自分に向けようと躍起になるのだが。よいか、本当ならおまえはもっと酷い目にあっていたはずなのだ。それを考えたら、恩人に好意を見せる努力をしてもよいではないか。そもそもレスア人は友好的だと思ったが?」

 故郷の名が出ると、彼女はふっと顔を背けた。

「おまえにはここが退屈なのだろう。アズーラが言っていたが、おまえは絨毯の模様の意味や庭の花の名を盛んに聞いていたそうではないか。好奇心が旺盛なのだな? どうだ、私はおまえに教師をつけよう。我々の言葉が読み書き出来るように。そうすればここが気に入るのではないか?」

 キアラは耳に心地よい王子の低い声を聞きながら、唇を引き結び、部屋の中で小さな水音を立てる噴水にじっと視線を注いでいた。 

「私は奴隷の持つ技と能力に特に価値を見いだす。おまえは美しい。それは疑いようもない事実だ。だが私に与えてくれるのは、それだけではないと望んでいるのだが……」

 キアラは驚いたようにぱっとラシャードに顔を向け、無意識にショールを胸の前で合わせていた。彼は白い歯を見せ、穏やかに笑った。

「そのような意味ではない。おまえが服を脱いだり、今すぐ私の欲望を満たしたりする必要はない。時間は十分にあるしな。そうだ……、少し踊って見せてくれまいか」

「踊り……?」

「そうだ。サヒドはおまえの美しさだけに惹かれて手に入れたわけではあるまい? おまえにはもっと別の才があるのだろう?」

「私が踊るの? 何のために?」

「わかった……。つまり踊れないのだな。では、歌はどうか」

 彼女はゆっくり頭を振った。

「ならば、愛の技巧に長けた褥の女王と言ったところか」

 キアラはその意味を一瞬で悟り、まっ赤になった。

「……それもない、か。ふむ……」

 ラシャードは思案するように、形のいい顎を片手で扱いた。

「ならば私は無駄に金を使ったわけか。何も知らない、何も出来ない者に……」

 彼は長い溜め息を吐いた。

 そのため息を侮辱ととったキアラの胸に、突然、彼の関心を引きたいという強い感情が突き上げた。すかさずラシャードの側に座り、挑戦するように正面から見据えた。

「レスアでは天文学と、幾何学、算術を十分すぎるほど勉強しましたけれど」

「本当か?」

 彼の目に明らかに興味が浮かぶのを見て、キアラは失っていた自信を少し取り戻した。

「私にも長いこと家庭教師が付いていた。おまえの国から来た学者だ」

「私の父も偉大な天文学者です。研究の傍ら、皇帝の教師としても仕えていました」

 彼女は父を誇るように胸を張り、答えた。

「私はそれら全てを父から学びました。あの〝アレッソロ占術〟も説いてくれたのです」

「アレッソロ……古の星術で宇宙の詩、未来を読み解くといわれる、あれか……。莫大な情報量のうえに、解読するのも至難だと聞く」

「あなた方……ジュナイの方には理解出来ないと思います。多分……」

「試しにやってみるがいい」

 キアラの高慢な態度にもラシャードの声音は変わらず、親愛と恩情に溢れていた。キアラはその彼の態度に心を許し、詩の一部を暗唱した。 

「とても美しい……その一節はアレッソロの中でも私の気に入りの詩だが、誰かが口にするのを聞き、気分がこれほどにも高揚したのは始めてだ」

 暗誦が終わると、彼は心底感動したように、穏やかな眼差しでキアラを見つめた。

「おまえに対する見方が間違っていたようだ。おまえの詠む詩の一節だけでもサヒドに払った以上に価値がある。これからもアレッソロ占術やそれだけではなく他の事もしばしば語り合おうではないか」

「でも……触れられるのは、嫌です……」

 キアラは言葉を最後まで言うことは出来なかった。ふと見上げた琥珀の瞳に宿った光が、彼女をなぜか黙らせた。次の瞬間、膝の上の両手首を掴まれていた。

「選べる立場でないと承知か? 反抗期のレスア人。それにもし私がおまえを助け出さなかったなら、今頃その美しい体があの男に食い荒らされていたのだぞ? 凌辱され、用無しになれば、その強情な頭は撥ねられ、他の奴隷への見せ物になっていたのだぞ?」

「名誉を汚されたなら、死んだほうがましだわ」

 キアラは肩を揺らし、掴まれた手首を押し返したが、それはびくともしなかった。

「それは本心か? ならばおまえがこの宮殿に住まうのは大間違いだな。美しい衣装や宝石、美味な食事や菓子よりも死を選ぶとは」

「私は無理やり連れてこられただけよ!」

 さらに身体を揺らし、必死で拘束から逃れようとした。

「私はあなたのものになんかならないわ! 一生!」

「一生とは長い時間だが、まだ、その考えを変えることもできる。なおのこと、お前の心もものにしたいという欲が刺激されてしまったようだ」

 声を出さずに笑ったラシャードは、掴んでいた手首を彼女の背後に回すようにし、そのまま抱きしめた。

 頬に温かな息がかかると、キアラは反射的に顔を背け、体を反らした。ラシャードの、体を抱く腕に力が篭ったが、痛みを与えないよう加減しているようでもある。そして、しっかりと抱きしめられたキアラは、その温もりを感じて不思議と抵抗する気持が徐々に薄れて行くのを感じると同時に、そんな自分に密かに驚いてもいた。父親以外の男性でこれほど近く、体が触れ合ったのは初めてだ。

 キアラは彼のしなやかな上体が、薄い布越しに胸に押し付けられているのを意識すると、切ないような、何か物足りないような、今まで感じたことの無い未知の疼きが体の奥から急速に膨らむのにただ、戸惑っていた。

 耳元にラシャードが顔を寄せる。

「子供の頃、祖父がそれは立派な雌馬を贈ってくれたことがある。力強く美しい躯で、陽に輝く毛並み、そして彗星のように流れる尾を持っていた。賢く、もちろん十分に躾られていたはずだが、気性が荒く、祖父にしか懐かなかった。ある日、私はその馬に振り落とされ、噛まれ、蹴られた。私はそれが原因で熱を出し、寝込んだが、翌日起きるとその馬が部屋の前で私を待っていた。私はもちろん、彼女に股がっていつものように散歩に出掛けた」

「それじゃあ、馬を打ったのね? 言うことを聞くように」

「まさか。あのような賢い動物を打つものではない。その反対だ。私は何もなかったかのように彼女に挨拶をし、優しく接した。そう、彼女はただ怖かったのだ。私はそれから忍耐と愛情で結局彼女を慣らした。だから、ちょうどおまえも同じように手懐られると思っている……私の誇り高き牝馬(ひんば)よ」

「私は馬じゃないわ!」

「主人に献身し、愛情を示す馬はどんな危険からも免れられるのだぞ」

 彼の唇が耳たぶに触れ、息が首筋を撫でると、不思議とキアラの体から力が抜けた。

 深く根を張っていた反感は徐々に消えて行き、彼の重みを受け入れていた。触れ合っている肌に熱が集中する。

「必ずおまえを手懐けるつもりだ……自由を愛する私の野生馬よ。時間と忍耐と慎重さでな。おまえが私の手に慣れるように、私がどこにいても自ら近づき、寄り添うように。女は縛り付けるものではない。ただ、相手に対する憧れを呼び覚ましてやればいい」

 ラシャードは彼女の身体を離して起き上がると、突然解放され、困惑しているキアラをそのままに踵を返した。入り口の近くで立ち止まり、肩越しに振り返った。

「おまえはチェスが出来るか?」

「はい。子供の頃父に教えてもらいました」

「そうか。私はチェスが好きだ」

 それだけ言ったラシャードの姿が幕の後ろへ消えると、キアラは無意識にほっと息をついていた。同時に体から力が抜け、クッションの上に倒れ込んだ。

 翌日、再びラシャードがキアラを訪問した。

 二人の女奴隷が彼の後に続き、手には幾つかの本と羽ペン、インクの壷と筒状に巻いた紙を携えていた。部屋の中央に彼が座り、その隣のクッションを指したとき、キアラは思わず数歩後ずさった。彼の柔和な笑みがさらに広がる。

「おまえには触れない。今日はただ朗読をしようと思ってな。そうすればおまえも私のあとに言葉を繰り返せるだろう。音を聞き、文字を練習出来るように」

「朗読?」

 眉を寄せながら、キアラは数あるクッションの、彼から一番遠い一つにちょこんと座った。

「そうだ。昨日はおまえの詩で楽しませてもらった。今日は私がおまえを楽しませる番だ」

「それだけ?」

「それと、私の声に慣れるようにな。腕力に訴えて女に何かをさせるのは苦手だとすでに話したと思うが」

 笑みを絶やさず、彼は継いだ。

「私はおまえの誇りをへし折ったり、その強情さを征服したり、そんなつもりは全くない。だが、我々をもっと理解するように、言葉と読み書きは教えようと思う」

「どうしてそんなに私に構うの? それは、あなたの女性たちと同じ土俵で競わせるため?」

「おまえは本当に面白いことを考えるな。……なぜか? それはおまえがこの後宮で唯一、初めてアレッソロを読み、私が奴隷市場でおまえの姿を一目見たときから気に入っていたからだ。私は普段あのような場所には行かない。それどころか、なるべく避けている。だがあの日はなぜかたまたま足が向いた。そしておまえを見つけたのだ。あのような場所で、凛と顔を上げて立つ娘を。おまえはひと際目立っていた。正直に言おう。その瞬間私は思わず声を上げ、値をつけていた」

「それじゃあ、もしかして最初に値を付けたのはあなただったの?」

 鮮明にその時のことが思い出され、驚きに声が高くなる。

「ああ」

「それで……それでも結局他の人にあっさり譲ってしまったのね?」

 やるせない気持と落胆にキアラの瞳は震えた。ラシャードは肩をすくめた。

「声をかけてから、我に返った。私にはこの後宮がある。他の官僚や貴族のものよりずっと小さいが、ここはどの後宮よりも快適だと自負しているし、ここにいる美しい女たちの質や優しい気だてに私は十分満足している。それなのに、一瞬の迷いにどうしてまた女を一人増やす必要がある? この国の者ではない、この国の神を崇めることを知らぬおまえを迎え、女たちに、この後宮にわざわざ混乱を招く必要はあるまい?」

 キアラは黙ってラシャードから離れると窓際へ行き、やがて彼が後ろから身を屈めて彼女の手を取るまで外を眺めていた。

「それで私を憎むのは間違っている。私はこの後宮の主人だ。秩序を守る義務がある。少しでも責任感があり、叡智ある男なら冒険するよりも混乱を回避するだろう」

「あなたは叡智ある男とは違うわ。気まぐれな感情であの場を盛り上げただけじゃない!」

「おまえの故郷には奴隷市場が無いのか? 一度もあのような場を目にしたことがないと? お前自身が奴隷を買ったことはないと?」

 キアラが黙ったままでいると、王子は頷いた。

「ならば一つ学んだな」

「学んだ……!? 私は奴隷じゃない。巻き込まれただけって言ったはずよ!」

「ほら、もう主人に対してそのように声を荒げる。それが後宮の平和を乱すのだ。穏やかでいろと言ったのを忘れたか?」

「私にだけ宮殿の部屋を与えたのはそのためね!? あなたは私が女性たちに勇気と自尊心を思い出させ、彼女たちがあなたへの恩恵を忘れ、忠誠を破るのを恐れているんでしょ!?」

「私の従順な奴隷たちがそう簡単に忠誠を破るなど。そんなつまらん邪推は無用だ。 さあ、もう十分だろう。私は朗読をするために来たので、喧嘩をするためではない」

「あなたの後宮には大勢の女性がいる……」

 キアラはつぶやいたが、胸が詰まってその先を続けることが出来なかった。

「ああ。十分にな」

「それなら、ここの秩序を乱す元凶を、最初の考えを覆してまでわざわざ買い取るなんて、それこそ愚かだわ……」

「確かにおまえの言い分は正しいかもしれない。しかしあとあとずっとお前の姿が頭から離れなかった。だが、そこまで私が嫌われているなら……そうだな。あの男におまえを戻し、金を返してもらうことも出来る」

 キアラは息を呑んだ。鞭の音が鼓膜に蘇り、それだけで呼吸が乱れた。青ざめたキアラの顔色を伺っていたラシャードは静かに言った。

「それ以上言うことは無いならば、始めよう」

 彼が手にした本は、数週間前にキアラもアズーラから説いてもらった本だった。ラシャードは詩の一節一節ごとにレスア語で解釈をした。そうしてから自分が読んだ後に、キアラにも詩を朗読させた。始めは不慣れなジュナイ語の発音も、何度も繰り返し声に出していると、やがてゆっくりではあるが滑らかに読めるようになった。何よりもラシャードは忍耐強かった。そして、その低くも凛とした美しい声はキアラの心に染入った。

 ――恋人よ。

 あなたの愛が私とともにあるならば そこに綴るものはない

 ただ静かにその愛を感じていたい その温みを 香りを

 あなたと私の愛が一つになった今、心と魂はひときわ光輝きだす

 ——恋人よ。

 最後の一節を読み上げていると、キアラは頬が熱くなるのを感じた。今まで流暢に読めていたのに、二度程つかえてしまった。そのせいか、ラシャードはもう一度その節を繰り返させた。

 読み終わるとキアラは俯いた。ラシャードもキアラの声が生んだ世界にすっかり陶酔しているようだった。

「素晴らしいわ」

 その一言にラシャードははっと顔を上げた。

「この言葉の響き……、ただ恋人の愛を請う純粋な気持が溢れていて……。そして、重なった心には光が。これはきっと希望を表しているのね……」

 彼はキアラの横顔を珍しいものを見るように、それでも嬉しそうに目を細めた。

「なかなか筋がいい。明日、おまえを呼ぶまでにこの詩を書き写し、暗唱出来るように」

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