和解(前編)

 ラシャードと母親が面会したその夜、呼び出したキアラが庭にある小さな宮殿の一室に入ってくるのがわかったが、彼は絨毯の上のクッションに身体を預けながら、手にした羊皮紙を読むふりを続けた。

 キアラが足早に駆け寄ってくる気配に、ラシャードが顔を上げ、感情を押し殺した目で見上げると、彼女は凍りついたようにその場に立ちすくんでしまった。

 そんな彼女を尻目に、ラシャードはおもむろに傍にあった手紙を取り、書かれた一句を読み上げた。

「おまえはこの詩で私の心を取り戻せると、気持を変えられると企んだのか?」

「私はただ、あなたのお側にいたかっただけです」

 キアラは弱々しく微笑んだ。彼に呼ばれればすぐにその腕に抱かれると期待していたのか、思わぬラシャードの冷淡な態度に戸惑っているようだった。

「おまえはこの国の法を破った。そんな女を私が簡単に許すと思っているのか」

「故意にやったのではありません! 私は……」

「これは謁見のための手紙だな? それでは今ここでおまえの望みを話してみよ。聞いてやろう」

「ラシャード様のお許しを。そして、エニアスをレスアに帰してください。お願いです……」

 王子はすぐにでも彼女を抱き寄せたい感情を力ずくで押し込め、高慢に顎を上げた。頑ななラシャードの前にキアラは、挫けそうになる心を勇気づけるように胸の前で拳を握る。

 ラシャードは思案するように視線を落した。

「あの者は許すつもりだ。あの男は愛のために果敢に闘い、また宮殿を荒らした凶漢らを仕留めた。彼は命と自由を再び手に入れた。そして、おまえは男とここを出て行くのだ」

 ラシャードはキアラを行かせるつもりは全くなかったが、これは彼が妻にしたい女を確実に手に入れるかどうかの勝負の一つだった。もちろん、母ダナニヤの提案だ。

「エニアスと一緒に? 私はそれを望んではいません!」

 キアラの顔は蒼白になった。

「おまえが今まで私に話さなかったことがあるだろう? 全て知っているぞ。おまえの母は王族の直系と言うではないか。そしてエニアスが言うには、おまえもそのうちどこかの王族の誰かと縁を結ぶと」

「それでも私はあなたのお側にいたいのです!」

 キアラがラシャードの元へ走り寄り、跪くとその手を取った。

「おまえはレスアに帰れるのだぞ? それを退けるのか?」

 彼は努めて静かに言い、自分を覗き込む瞳から慌てて目を反らした。その揺れるエメラルドに見つめられれば、彼女を試そうと言う自分の決心が挫けるのは確実だったからだ。

「父親に会いたくはないか」

 奴隷は力なく俯いた。

「父のことを考えると胸が張り裂けそうです。でも、もしエニアスが私の無事を伝えてくれれば、父も安心すると思います」

 ラシャードは無言で顎を撫でた。

「ふむ……。では残して来た婚約者とやらは」

「私は決して……、決してあの人の妻にはなりません! 結婚式の数日前、私はレスアを逃げ出したのです。その男の妻になりたくないという、ただそれだけで。海を渡り、西の都の修道院へ行こうと思ったのです……」

「だが途中で襲われ、奴隷商の手に渡った」

 言葉を継いだ彼は、自分の中で再び膨らみ始めたキアラへの恋情が刻一刻うねり出すのをはっきりと感じていた。もはや彼女の手を振り払うなど、到底無理だった。既に自分はキアラに堕ちていた。だからこそ彼女が自分を愛している証が必要だった。

「そうか。それなら国に帰りたくないというのも合点が行く。ならば、おまえの望む他の国へ無事に着くまで私の護衛を貸そう。どこへでも行くが良い」

「ここではない、ラシャード様のいない国で私はどうすれば良いのです?」

 キアラは、自分の気持が相手に全く通じないことに気を揉んでいるようだ。こんなにも相手の気持ちが手に取るようにわかるのが不思議だった。いや、それは自分が今まで彼女をどれだけよく見て来たかという証だった。

「ならば逆に聞くが、おまえはここでどうしたいのだ。この野蛮人の国で。おまえたちの神を信仰しない国で。大体私の記憶しているところでは、おまえは常にここから出たがっていたではないか」

 ラシャードは頭を振った。

「蓋を開けてみたら全くのお笑いぐさだ。おまえが王族の者とは……。だめだ。敵国の者をここにおくわけにはいかん。国が乱れる根元となる。出て行け」

「王子はそう簡単に私を追い出せません」

「だが、もしおまえがここに残ると言うなら罰を受けねばならぬのは承知だな? よいか。与えられた選択は……ここを出るか、罰を受けるか。その二択だ」

 この決定的な言葉を吐き出すのに、彼は今一度自分を奮い立たせねばならなかった。キアラに包まれている指が、氷のように冷たくなっている。

「罰……ですか? でも、私は何もしていないのですよ?」

 キアラはとうとう熱り立った。

「おまえは主人を欺いた。それで十分だ」

「それは決してないと、何度言ったらわかってくださるのです!?」

 キアラの声が高くなる。 

 ラシャードが全く自分を理解しないことに憤ったのだろう。感情的なキアラがとって当然の態度だ。

 しかし、彼は肩をすくめてみせただけだった。

「どちらか決めるのはおまえだ」

「私がここに残るなら……、身に覚えの無い罪で罰せられるというわけですね」

「主人への裏切りを見逃せば、私の面目も後宮の秩序も無くなる」

 しかし、彼はそれ以上理不尽な理由でキアラを詰ることに耐えられず、床の手紙に目を落した。突き放すような態度に徹していたが、心中はキアラの答えを恐れていた。

 もし、キアラが今譲歩すればラシャードの勝ちだ。彼女が罰を受け入れると言えば、彼女は今度こそ本当に、ラシャードを恋人として手に入れられる。

 ラシャードはもはや亡き妻イドルネの記憶が霞むほど、キアラを深く愛していた。彼の魂も体もキアラという紅い薔薇の甘い芳香にすっかり魅了されていた。

 もし、頭のいいキアラがこの自分の弱みに気づいてしまったら、きっと彼女はそれを手玉にとるだろう。その瞬間、この宮殿の主人の名はラシャードではなく――キアラ――になる。そこにラシャードの自尊心が立ちはだかり、キアラを抱きしめる手が伸ばされるのを阻んでいた。

 諦めたように、自分の指に絡んでいたキアラの指がゆっくり離れていく。

「すっかりお変わりになられましたね……」

 キアラの声は震えていた。

「昨日や今日のことではない、レスアの娘よ。おまえはただ、私の別の一面――この国の一人であり、法に従う男――を知らなかっただけだ」

「それなら、その法で私をお裁きください!」

 ラシャードがその剣幕に驚き、思わず合わせた緑の瞳は怒りできらきらと輝いていた。

「お忘れでしょうか。私の心はすでにあなたの物です。どうされようとご自由に」

 ラシャードは相手の冷静で真剣な態度に却って動揺した。そして、それ以上彼女の傍にいるのが耐えられなくなり、立ち上がった。

「本当に罰を受け、ここに残る気なのか? 受ける罰を聞く前にもう一度考えてもよいのだぞ」

「私の髪を剃るおつもりですか? それとも鼻を切り取り、後宮に戻して女たちのさらし者に? それとも私を打たれますか?」

 その言葉にラシャードは、彼女が自分の手に堕ちつつある喜びで、笑みが浮かんでくるのを抑えきれず、急いで窓の外へ顔を向けた。キアラに気がつかれないよう、浮き立つ心を鎮めて今一度彼女に向き直った。

「背に百の鞭打ちだ」

「鞭打ち! 百回……!」

 キアラは目を見開き、声を震わせた。

「その罰を受けた後は……?」

「後宮に残ってよい」

「それは、他の奴隷たちと同じ場所に?」

 ラシャードは頷く。

「あなたに会うことは?」

「もちろん。それどころか望めば話し相手にもなれる」

「それから?」

「それから……?」

 ラシャードは、キアラの意図を汲むと、ますます湧き上がる悦びを隠すために小さく咳払いをした。

「ああ……。後宮には三十人の女がいる。おまえに私を楽しませる役目がそのうち回って来るやもしれん」

「ひどい人! 冷酷で無慈悲で……。私はそんな人を愛して止まない自分を憎むわ!」

 そう言うと、キアラは決意したように顎を上げてラシャードを睨み、壁へ走って行く。そしてかつて彼が手にした鞭を取り、引き返して来た。

「受け取りなさいよ!」

 彼女は屈んでラシャードの手にそれを押し付けると、くるりと背を向けて、ドレスから肩を抜いて背中を露にした。

「打つがいいわ! 本当の私を信じずに、あなたの名誉と妄想が作り上げた『不貞な女』のほうを信じるのなら!」

 一瞬が永遠とも感じられた沈黙のあとに、ラシャードはキアラの後ろに立った。

「私は己の言葉を取り消すつもりは無い」

 キアラの心の準備はできたつもりだったが、不当な罰を受けなくてはならない屈辱に煽られた怒りはまだ治まってはいなかった。固く目を閉じ、キアラは床の上で肩を震わせ、拳が白くなるまで握りしめた。

(一打だけ。でも、それ以上打つなら、サヒドにしたように頬を引っ掻いてやる。それで生き埋めにされるとしても、どうせ死ぬのは同じこと)

 ぶん、とキアラの頭上で鞭が唸る。その直後、肌の裂ける音の代わりに、何かが割れる派手な音が上がった。ぱっと音のした方を振り返ると、部屋に飾られていた高価な花瓶が見るも粉々に無惨に砕け散っていた。そして、鞭はラシャードの足下に落ちていた。

 ラシャードはキアラの後ろに佇み、静かに彼女を見下ろしていた。

「おまえの肌を傷つけるという想像さえ、私には堪え難い苦痛なのだ」

 自分を見つめる眼差しに、さっきまでの冷酷や威圧はすっかり消えていた。

「何を躊躇っているの?」

 キアラは最期の時とばかりに高飛車に言った。

「ご自分の手を汚したくないのなら、誰かお呼びになります? エギュンなら満足にこの仕事をやり遂げるでしょう」

「おまえを打てと命じれば、あいつは自分を打つだろう。いや、私を打つかもしれん」

 ラシャードは手を差し伸べてキアラを起こし、握った手をそのまま唇へ持って行った。

「許してくれ、私の愛しい人。この茶番劇を許してくれ。おまえの真実の愛と忠心を知るために、こうして試す他なかったのだ」

「つまり……私の……言葉だけでは信じられなかったのね」

 キアラは一瞬で全身の血が冷たくなるのを感じた。さっと手を引くと、ラシャードから一歩退いた。そして素早くもとのように服を着て、肩も胸も隠してしまった。

(全てが仕組まれたこと。彼は私を試していた。すっかり騙されている私の逐一を見て彼は胸の内で笑っていた!)

 今までに無い強い怒りにキアラの頭は真っ白になった。

「私はおまえを愛するあまり、すっかり病んでいた。疑心暗鬼になっていたのだ……」 

 ラシャードの切なげな視線がキアラの肌を撫でる。

「そう?」

 その声は凛と冷たく響いた。そしてラシャードがキアラに手を伸ばすと、彼女はさらに半歩引いた。その時には、怒りがキアラの理性を呼び戻していた。

「お待ちになって。ラシャード王子」

 その度を超した慇懃な声音に、ラシャードは訝しげに目を細めた。

「ちょっと考え直しましたの」

 その言葉に、やっと彼女の手を取ったラシャードの、それを引き寄せる動きが止まる。

「考え直した?」

 彼女は頷いた。

「私は、王子様の寛大な申し出をお受けします。考えれば、断るなんて失礼極まりない行為ですわ。私はエニアスと共にレスアへ戻ります」

 ラシャードの瞳が翳《かげ》った。

「おまえはレクシオスの結婚から逃げ出して来たのではないのか?」

「それでもやはり、老いた父が心配ですし、エニアスが私のために彼のお父様の領地で暮らせるように取りはからってくれるそうです。なにより、そこで私は自由なのです。奴隷などではなく」

「女の決意など、風に舞う紙とは昔からよく言ったものだ」

 彼は動揺を隠しきれず声を荒げた。

「おまえは私に許し乞いをし、無実の罪に罰を受けるため、身も誇りも私に捧げたばかりではないか。それなのに、なぜ急に気が変わったと!?」

「それは、私が王子を愛していると思っていたからです。でも、どうやらそれは誤りでした。今、それがはっきりしたのです。そして、私の目を覚まさせてくださったラシャード王子には深く感謝致します」

 キアラはにっこり微笑むと、出口の方へ体を向けた。

「どうそ新しい奴隷をお探しください。私には王子をご満足させる才能が欠けておりますゆえ……」

「待て!」

 キアラは声を無視してどんどん歩いて行った。

「キアラ!」

 ラシャードが慌てて追いつくと、キアラはまるで他人のように一瞥した。

「私は、たとえそれが同一人物だとしても王子の”別の顔”を愛することが出来ません。それに、ラシャード様は興味おありではないかもしれませんが、レスアの国の男ならば、あのように愛する女性を試すような卑怯な手口は決して使いません。たとえ傷つくのを承知でも、真っ向から自分の気持をぶつけてくるのです。自分が臆病者であることを自分で認めるような行為を恥じるのが私の国の男たちです」

 キアラは突き放すように言った。

「どうぞ、あなたの後宮の、美しい素直な奴隷たちと末永くお幸せに。私は故郷で、私が人生を共に出来る男性を探します」

「おまえは、最初に私の申し出を退けた。それは取り消さん」

「男の決意は風に舞う紙のよう……裏に、表に翻る……」

 キアラは薄く笑いながら、ラシャードの言葉をそのまま返した。

「王子のお申し出に期限がついているとは思いもよりませんでした。しかし、それでしたら王子が私を追い出そうとしたお言葉も取り消せぬのでは? 私はそれに従うまで。どうぞ末永くお達者で」

 キアラはラシャードの横を過ぎる。

「この国の法を破ったおまえを、私は許してやったのだ」

 キアラが幕に手を掛けた時、この瞬間にラシャードが自分を振り向かせる言葉を見つけてくれることを強く祈った。

 自尊心を傷つけられた怒りはまだ胸に燻っていたが、こんな駆け引きはもう嫌だった。ラシャードの元を去るなんて自分には出来ないのに。しかし、もし自分がここに残るとしたら、それは決して奴隷ではなく、彼の正室としてだ。

 風にランプの火が揺れ、幕の上のキアラの影も退出を促すように揺れた。

「……おまえを引き止めるために、私に何が出来る?」

 彼は苦しげに声を押し出した。

 正直、彼は急な状況の変化に相当の打撃を受けていた。もちろん、力づくでキアラをここに縛り付けておくことは可能だろう。だがそれで本当に自分の欲しい物が手に入るのか。キアラと言う女は、ラシャードの予想を遥かに上回って強情というのが、この時になってやっと判明した。しかし、愛してしまった。その本心は揺るがなかった。

「私に許しを請うならば」 

 キアラはゆっくりと振り向いた。

「まず、それが最低限だわ。……あなたが私を試した? いいえ! 私があなたを試したのよ」

 キアラは得意げに顎を上げた。それでも、ラシャードは穏やかに言葉を紡いだ。

「私の側にいてくれ。愚かな私を……許してくれ。キアラ」

「後宮の女性から、今は私がここでただ一人の奴隷だって聞いたわ。他の奴隷たちはラシャード様が自由の身にしたって。どうして私は例外なの?」

「自由にすればたちまち空に飛び立つ鳥の籠を、誰が喜んで開けよう? お前を自由にしたら、すぐにでも私を見放してレスアへ帰るだろう?」

 ラシャードの声は哀れなほどに弱々しい。キアラは膝が震えるのを感じた。

「他の者が去っても私は全く構わない。だが、お前を失った人生は意味を成さない」 

 ゆっくりと近づいて来たラシャードは、そっとキアラの肩に手を置いた。

「何千もの女を揃えたとしても、私がお前に見出した魅力を持っている者はいないだろう。私の愛しいレスアの娘よ。ここに留まると言ってくれ。私はお前を一生後悔させないと誓う」

 背けた顔を、ラシャードは頬に優しく掌を添えて自分へ向けさせた。

「今すぐに、お前への愛と誠実を証明させてくれ」

 キアラは振りだけでも反抗を続けたかったが、自分を偽るにはラシャードへの思いがあまりにも強過ぎた。キアラが小さく身じろぎをするのを、逃亡の兆しと取ったラシャードは素早くもう一方の手で彼女の背を引き寄せると、驚きに顔を上げたキアラに口付けた。

(私がこの人の手に堕ち、許してしまうのは時間の問題だったのに)

 優しく入り込んで来たラシャードの濡れた舌が自分を捜し、それを受け入れながらキアラはぼんやりと思い、男の胸に身を委ねた。

 長いキスの後、息を乱しながらラシャードはやっとキアラを離した。

「こうすることを私はずっと待ち望んでいた」

 鼻の先が触れ合う距離で、珍しくラシャードがはにかんだ。

「お前と別れた後、戦地で毎晩おまえの夢を見た。起きればおまえの声を聞き、木の陰におまえの姿を見た。その度に私は早く戻ってお前をこの腕に抱くことだけを考えた。愛撫し、愛の言葉をその耳に囁くことだけを」

「しかし、囁かれたのは愛の言葉ではありませんでしたわ」

「私は生涯で、おまえの不実を聞かされたときほど深く傷ついたことはなかった」

 ラシャードがキアラのドレスを開こうとしたが、彼女はそれを払った。

「愛しい人よ。もしお前にまだ温情があるなら、この美しい体を隠さないでくれ。おまえの全てを見せてくれ。別れてからずっとこの時を、おまえの体に焦がれていたのだ」

 キアラが渋々と承諾するような素振りを見せた刹那、ラシャードは忙しい手つきで軽い布を肩から落していた。その急くような動きにも、キアラはラシャードの手が震えているのに気がついた。

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