制裁

 キアラがラシャードの宮殿を追い出されてから二日しか経っていなかったが、宮殿での生活はすでに遠い昔のように思える。

 後宮では、ラシャードに見限られたキアラを同情の目で見る者もいれば、あけすけな嘲笑と蔑みを表情に浮かべる者もいた。

 ある日、キアラが午後の短い休みに広間の片隅で本を読んでいると、女の一人が静かに入って来、自分の隣で膝を折った。

「あなたなの?」

 娘はレスア語で囁いた。

 キアラはまだ哀しみの満ちた瞳を大きく開き、その金髪の娘をまじまじと見つめた。

 彼女は他の女たちと同じように翡翠の腕輪や金の耳飾りで美しく着飾っており、金色の、絹のような細く豊かな髪は黒真珠のちりばめられた網でまとめられていた。

「イーダ?」

 少しの間を置いて尋ねたキアラは、驚きを隠すことも忘れていた。

「あなたが赤毛の子鹿だったの……。後宮中の女たちが噂していたのは。王子の寵愛を独り占めにして、ラシャード様が二度と他の奴隷に好意を持たないのではと、不安がらせていたのは」

 キアラは黙って俯いた。それは、キアラがラシャードの宮殿にいる間中、常に胸を占めていた不安だった。ラシャードは彼の好きな時に、好きな女を愛することが出来る。そう思っては、嫉妬の炎をちらつかせていたのに。しかし、イーダから自分の思いと相反する事実を聞かされた今、彼を信じられず、素直になれなかったことを後悔したところで、今は全てが手遅れだった。

「あなたはどうしてここにいるの?」

「私は、ダナニヤ様から王子への贈り物なの」

 イーダはほくそ笑んだ。

「ダナニヤ様はラシャード様を元気づけようと、新たに四人の奴隷を買ったの。幸か不幸か、私はこの火傷のせいで売れ残っていたから……。そしてラシャード様の前で私は歌を披露したわ。でも、私たちの誰一人として――踊りも朗読も、楽器も――王子の興味を惹くことは出来なかった。王子は私たちの所にいらっしゃって、装飾品や高価な服を与え、私たちの髪を撫でて――子供にするようにね、それだけで、宮殿にお戻りになってしまったわ。それから一度も後宮には姿をお見せになってない……」

 そう言って、イーダは軽蔑の眼差しを後ろの女たちに投げた。

「あなたの後釜を狙って、あの人たち毎日張り合ってるわ。もし、うまくいったとして、その上ラシャード様の赤ちゃんを授かるようなことがあれば、それは彼女の薔薇色の人生を約束されるってことだもの。知ってた? 四人までは正妻になれるのよ」

 キアラは小さく肩をすくめた。今のキアラにはラシャードの一瞥でさえ、与えられれば至福を感じるだろう。

「あなたはすでに幸せそうに見えるけど? この後宮での奴隷の生活が合っているんじゃない?」

「でも、私は奴隷じゃないわ! ああ、キアラは知らないのね。ラシャード様は数日前にここの女たちに自由を与えてくださったの。私たち、どこにでも自分の意思で好きな所に行けるのよ。でも、一体どこへ? 私に言わせてみればここよりいい場所なんてないわ。少なくとも、お腹をすかせることは無いし。何より彼女たちはお金目当てに自分の父にまたいつ売られるかってビクビクする心配は無いもの」

「自由の身ですって!?」

 その問いにイーダは答えず、優越に瞳を光らせていた。

 キアラは顔を上げて広間をぐるりと見渡した。ここにいる女たちはもはや奴隷ではない。

 そしてラシャードは自分だけ自由になることを許さなかった。

 どうしてここにいる誰よりもそれを欲していた自分には与えられなかったのだろう。

『それは、自由になればきっと私がここを去るのを、王子は恐れたから』

 答えは自然に脳裏に浮かんでいた。一度は止んだ涙が再び頬を流れた。

 ラシャードは自分を愛しているからこそ、自由を与えない。私を失いたくないがために、私が望むものを与えてくれない。それは明らかに矛盾だった。でも彼という人をよく知れば、知るほどその思考に納得してしまう。

 ラシャードは自分を完全に所有したいのだ。

「どうして泣いているの? あなただけ自由になれないから?」

「ちがうわ」

 キアラはしゃくり上げた。悲しくはなかった。ただ、ここに来てから明らかになった自分の価値――ラシャードにとって自分はどれだけ掛け替えの無いものだったのか――と、故意ではないにしろ、自分の浅はかな行為が彼を深く傷つけてしまった事実に気がつくと、さまざまな感情が交じり合い、涙となって一気に込み上げて来たのだった。

 そして、彼と自分を救うただ一つの道は、無実を証明し、ラシャードの許しを得ること。彼が自分に許しを与えることが、誤解と傷心の板挟みから彼自身を介抱出来るに違いない。

 黙り込んでしまったキアラに興味を失ったのか、イーダは鼻白んだ顔を見せて部屋を出て行ったが、思案の淵に潜ったままの彼女はそれには気がつかなかった。

(あの捏造された手紙……)

 そもそも、もし自分の手紙を盗むとして……その機会を得られるのは、ここの女の他には考えられない。

 涙を拭い、しっかりと顔を上げると、もう一度広間にいる女たち一人一人を見回した。皆、すでに自分の仕事に勤しんでおり、誰一人としてキアラを見る者はなかった。視線は一巡したが、不自然な様子はなかった。もう少し注意した方がいいのかもしれない。

 ただ座っていても、ラシャードを思って辛くなるだけだし、自分も何か仕事をしようと体を起こしかけたその時、キアラの眼差しと、一人の女の眼差しがふと交じった。

 少し離れた所で小猿の毛を梳いていたその黒髪の美しい、ややそばかすの目立つ女奴隷はキアラと目が合ったとたん、視線を膝の上の猿に落した。それはほんの一瞬だったが、キアラは確かにそこに憎しみ――それも激しく揺れる――を見て取った。

(まさか彼女が?)

 偏見を持ってはいけないと、もう一人の自分が囁いていたが、本能は彼女が犯人だと確信していた。しかし、証拠が無ければ濡れ衣だと逆にやり込められてしまうのは目に見えている。キアラは素早く考えを巡らせた。

 証拠……。自分の部屋に忍び込み、手紙と、インクと鵞ペンを盗んだ証拠……。彼女の姿をラシャードの宮殿で見たことは無い。だが……。

 ふとキアラの瞼にエギュンとは別の一人の宦官の姿が浮かんだ。彼はエギュンとともにラシャードに仕える者で、また主にここの女たちの世話をしていた。彼が自分の不在に部屋に忍び込んだとしても誰も不信に思わないだろう。もし、彼とあの奴隷が手を組んでいたとしたら。

 騒動のあと、ラシャードは、自身が使う以外はかつてのキアラの部屋に鍵をかけるようになったとアズーラから聞いていたし、奴隷の誰一人として彼に呼ばれていないなら、盗まれたインクと鵞ペンは手紙を書いた女の部屋にまだあるはず。――それが見つかれば。

 その考えに辿り着くと、キアラは自分の部屋へ走った。部屋では一人奴隷が宝石を磨いていたが、彼女に構わず、ラシャードに手紙を書き始めた。

 謁見を申し込もう。そうだ。どうしてそれを思いつかなかったのだろう。

 全ての奴隷にはカルファへの、そして自分の主への謁見が許されていた。公式に要請さえすれば、待たされても必ず主人と顔を合わせ、自分の言葉で要望を伝える機会を得られることは後宮の奴隷としてのたった一つの権利だった。

 出だしの文を少し考え、キアラはインク壷からペンを取った。

 紙の上に文字を連ねることにあまりにも熱心になっていた彼女の耳に、広間の不穏なざわめきと女たちの悲鳴は耳に入らなかった。

 突然、数人の男が低い唸り声を上げながら部屋へ飛び込んで来た。

 キアラは飛び上がらんばかりに驚き、振り向いた。上から下まで黒装束の男たちは、皆手に刃の広い剣を持っている。その中でただ一人、黒装束でもなければ、布で顔を隠してもいない男がいた。

――サヒド。

 キアラが彼を認めたとたん、現実に引き戻された耳に、隣で叫ぶ奴隷の声が届いた。

「黙れ!」

 サヒドは鞘から抜いた剣を振り回した。

「おまえら売女に用はない! おれが欲しいのは……そこにいる赤毛の犬だ! 見つけたぞ。さあ、この女を捕まえろ!」

 男の一人がキアラに向かってくるのと同時に、彼女は飛び起き、インク壷をその顔に投げつけた。それは見事に命中したが、男が顔を拭っている間に二人目が素早くキアラの腕を掴み、捻り上げてしまった。キアラはもがきながら叫んだ。

「おれとおっぱじめたら、お前はもっと叫ぶだろうよ。だがそれもそのうち情けないすすり泣きになるだろう」

 サヒドはキアラの顎を掴んで上に向け、にやりと唇を歪めた。男たちに向き直り、声を張った。

「連れて行くのだ!」

「ラシャード様があなたたちを罰するわ!」

「おまえのラシャードはすでに死んでいる。この瞬間にもあいつはあの世で、かつての人生を懐かしんでいるだろう」

「彼に何をしたの!?」

 キアラは掴まれた手首が痛むのも忘れ、大きく肩を揺らした。

「やつの得るべき物を与えたまでだ」

 サヒドは部屋の出口に歩いて行く。

「急げ。見張りが目を覚まさないうちに抜け出すのだ!」

 どんなにキアラが足を地に踏ん張ろうとも、所詮無駄だった。男は軽々とキアラを肩に抱えると、後宮の広間を通って出口へ急いだ。その間、何体の死体を見ただろう。いや、実際キアラが見たのは、彼女も言葉を交わしたことのある女奴隷二人の変わり果てた姿だった。絹のチュニックドレスは血に染まり、血色の良かった頬は土色に変わって、彼女たちは天井を見たまま大理石の床に倒れていた。その惨事を凝視することが出来ず、キアラは固く瞼を閉じた。視覚を遮断すると、代わりに鋭くなった嗅覚に、広間に充満した血の匂いを知らされた。

 ラシャードが殺された。それを聞いたとたん、もうこれから自分に何が起ころうとどうでも良くなった。だが、サヒド――この卑劣な人殺し――だけは許しておけない。

 怒りと憎しみと哀しみで嗚咽を漏らしていたキアラは、男が急に立ち止まったのに気がついた。

「キアラ様を連れて行くことは許しません」

 肩越しに振り返ったキアラの目に、両手に刀を持ち、怒りを漲らせたエギュンの巨体があった。

「われわれに何か用か? 玉を抜かれたラシャードの犬よ」

 サヒドはそう言いながらも、半歩退いていた。

「彼がラシャード様を殺したと言ったのよ」

 キアラは声を振り絞った。

「彼らを逃がしては駄目よ! 私に構わないで!」

 エギュンが一歩進み出ると、サヒドを庇うように立っていた男たちが剣を構えた。ゆっくりとエギュンは彼らに近づき、飛びかかって来た男たちは数回彼と刀を打ち合っただけで、床に倒れた。

 サヒドはキアラを捕らえていた男をエギュンにけ仕掛け、自分は嫌がるキアラを別の方向へ無理矢理引っ張っていった。振り返ると、彼はまだ五人の男に囲まれていた。その男たちが一歩、また一歩と間を詰める。そして動きを止めた彼らの振り上げた剣がきらりと煌めいた瞬間、地鳴りのような重い音が響いた。それが、どんどん近づいて来たと思うと一頭の白馬が広間に躍り込んで来た。

 馬が完全に止まらないうちに飛び降りた乗り手が、エギュンに一番近い男の頭を剣の柄でしたたかに打ちのめした。それを合図に、男たちが入り乱れるように打ち合いが始まった。

 肌を切られたエギュンは、傷から血を流しながらも雄叫びを上げて果敢に男に挑み、新たに加わった二人の精悍な男たちもひとり、またひとりと確実に暗殺者を仕留めていく。

 男の一人は――エニアス。

 彼が生きていた。そして、もう一人。キアラにとって掛け替えの無い、たった一人の恋人……。

「ラシャード……」

 殺されたと思った恋人を目の前にし、安堵のあまり名を呼ぶ声は震えていた。

 突然、抑えられていた腕が強く後ろに引かれたと思うと、キアラの体はサヒドの盾になるように彼の正面でぴたりと抑えられていた。今やラシャード、エニアス、エギュンは自分たちが倒した男たちを跨いで、サヒドにゆっくりと向かってくる所だった。

「それ以上一歩でも近づいてみろ。この奴隷の命はないぞ」

 気がつけば、サヒドはキアラの胸に剣を突きつけていた。ラシャードはその場に立ち止まり、煮えたぎる怒りの眼差しでサヒドを睨みつけた。

「彼女を殺せば、おまえも同じように死ぬだけだ。彼女を放し、堂々と私と闘え!」

 それを聞くと、サヒドは頭を仰け反らして笑った。その隙をキアラは見逃さなかった。渾身の力で腕を振り払い、その勢いに任せサヒドの頬を思い切り引っ掻くと、彼は悲鳴を上げ、反射的に顔を両手で覆った。

 男の手が離れると、キアラはただ一つの場所を目がけて、よろめきながら進んだ。しかし、その体も数歩で逞しい腕に抱きとめられた。誰の腕か。それは顔を見なくても彼女にははっきりとわかっていた。しっかりと胸に抱き締められると、相手の熱い体温と強い鼓動を感じた。

「怪我は無いか」

 つい、と体を離したラシャードは素早くキアラの体を調べ、無事を確かめるとすぐに彼女を後ろにいたエニアスに預け、逃げ出したサヒドを追った。サヒドは、扉の前でもはや逃げられないとわかるとラシャードに剣を向けた。

「お前が彼女を恐喝したのは二度目だな」

「ハッ! 恐喝だけではない。お前を地獄に送ったら、たっぷり楽しんだ後、息の根を止めてやるつもりだ」

 サヒドは獣のようなうなり声を上げてラシャードに突き進んでいった。ラシャードがその一打を弾く。それから激しい打ち合いが続いた。両者とも、斬りつけられても一歩も引かない。サヒドの剣がラシャードの体をかすめる度に、キアラは自らの身を切られたように体を震わせた。そして衝動に突き動かされるようにエニアスの手を払い、ふらふらと数歩歩き出していた。それを目にしたラシャードは、攻撃の手を緩めず声を荒げた。

「お前はそこにいろ! そしてしかと見ているがよい!」

 恋人の、初めて聞く厳しい声音と剣幕にキアラはびくっと身を強ばらせ、その場に直立した。肩に後ろからエギュンが優しく手を置く。

「エギュン……。行って。早く行ってラシャードを助けて!」

「ご冗談を。私の出る幕ではありません。ラシャード様はあの犬めを何があってもご自分で仕留めたいのです」

「でも……! でも……!」

 剣の心得がないキアラから見れば、サヒドは互角に戦っているように見えた。ラシャードの振り下ろされる剣を寸での所で必ず受けている。

「よくご覧なさい。さっきから攻撃しているのはラシャード様です。サヒドは始めこそ勢いがあったものの、今は守るのに必死です。もう勝負はつきます」

 束の間、高く振り上げたラシャードの剣が空を切った直後、サヒドの剣が床に落ち、固い音が響いた。彼は仰け反るようにして二、三歩退いたかと思うと、そのままどさりと後ろへ倒れた。サヒドが事切れたとわかると、ラシャードは大きく肩で息をしながら剣を鞘にしまった。そしてキアラの方を向き、眩しい物を見るように目を細めた。

「あぁ……」

 キアラの限界まで張りつめていた緊張の糸がぷつりと切れた。意識を無くした彼女の体は床に叩き付けられる前に、駆け寄ったラシャードがしかと受け止めた。

 キアラは目覚めると、そこが寝台の上だと気がついた。視界はまだぼんやりとしていたが、誰かが自分の傍で扇いでいるのを肌で感じた。

「まだ起きてはいけませんよ、キアラ様」

 アズーラは、キアラが自分の方に顔を向けたのに気がつき、優しく言った。そして扇を脇の台に置くと、固く絞った布でキアラの額の汗を拭いた。

「もう大丈夫です。全て終わりました。サヒドはもうこの世にはおりません」

「……ラシャード」

 キアラは囁いた。

「ラシャード様は……?」

「ご無事ですよ。傷はかすり傷です。手当を受けられて、今はお父様の所へ報告に行っております」

 アズーラはキアラの不安を取り去るように再び扇子を動かした。

「エギュンは?」

「手当をされて、部屋で養生しております。傷はラシャード様よりひどかったようですから。それから、エニアス様は放免されました。ですが、キアラ様への面会は固く禁じられております。彼は宮殿の一室を与えられ、美しい奴隷たちに労われているはずですよ」

 くすくすと女たちの忍び笑いが聞こえ、そこで初めてキアラは自分が宮殿ではなく後宮の共同部屋にいるのだと知らされた。

 奴隷たちは見られているのがわかると、恥ずかしそうに頬を染め、微笑みを返した。

「でも……、サヒドはどうして後宮に入れたのかしら」

 キアラは重くなる瞼と健闘しながら聞いた。まだ頭は雲に覆われたようにぼんやりとし、身体中がだるく、とにかく疲れていた。

「密偵です。黒髪に、頬にほくろのある美しい奴隷を覚えていますか? 以前サヒドに仕えていた者で、その者が護衛に毒を盛り、サヒドに手引きしたのです。その奴隷はどさくさに紛れ、後宮の一室に隠れていましたが、捕えられて牢で咎めを待っています」

「彼女もサヒドのように殺されてしまうの?」 

「私はそうは思いません。ラシャード様は今まで一度たりと奴隷の命を奪ったことはありませんから。ご判断はダナニヤ様に委ねるのではないでしょうか。ダナニヤ様は規律に厳しい方ですから、女は罰せられたのち、身一つで宮殿から追い出されると思いますよ」

「手紙は……? 私の不実の証拠になった……」

 アズーラは扇子を動かしていた手を止め、考えるように小首を傾けた。

「ああ、手紙ですね。彼女はしらを切っているようですが、じきに全てが明らかになるでしょう。しかし、サヒドに襲われた時、エギュンがキアラ様のお側に控えていたのは本当に幸運でしたわ」

 そしてアズーラはキアラの耳元に屈み込み、他の女に聞かれないように囁いた。

「と言うのも、エギュンにキアラ様のお側についてお守りするよう密かに命じておられたのは王子ご自身ですけれど。ラシャード様は、この後宮の中がその美しい外観通りでは無いことをご存知でしたから」

 キアラはその言葉に目を見開いた。ラシャードがエギュンに自分との面会を禁じたのをはっきりと聞いていたからだ。アズーラはそんな彼女ににっこりと笑むと、後ろに控えている奴隷に手を上げた。すぐに、盆に載って粥が運ばれて来る。

「とてもじゃないけれど、食べられないわ……」

「いけません! すっかり痩せてしまって……」

 アズーラはキアラを抱き起こすと、温かい粥を匙でひと掬い、口へ運んだ。

「さあ、少しだけでも。その青いお顔が薔薇色に、目の下の隈がすっかり消えないうちは、たとえラシャード様のお声がかかってもこのアズーラがお断りしますよ」

「そんなことを言うなんてアズーラは意地悪ね……」

 キアラは目元を綻ばせ、小さく口を開けた。

  *

「して、そなたは少しは賢くなったのか?」

 ダナニヤは息子の目から何かを読もうと試みたが、そこは海の底のように暗かった。

「いいえ。母上のご期待に添えるほどには、まだ。ただ、サヒドのような下劣な者を地獄に送ったことには満足しています」

 冷ややかな満悦が口元に現れた。

「私の家臣に手を掛けただけで死刑を免れぬ運命でしたが、あの男は二度も私の……」

 ラシャードはそこで口をつぐみ、ダナニヤの自慢の庭へ続くアーチの下をくぐり、顔を上げると辺りを見渡す素振りをした。後ろから追って来た母親に憂いを載せた横顔を見せ、彼は続けた。

「もう少しで彼女を失う所だった……。エニアスと彼女は故郷に帰れば、やがて王族の男の妻になる運命だったのです。キアラは王族の血縁だというではないですか」

 キアラの容態をアズーラから聞いたラシャードに、彼女がここに来たいきさつも語られた。その時、目の前が闇に包まれるほどの絶望を受けた記憶が再び蘇り、彼は一瞬顔をしかめた。

「存じておる。それで、女をここに引き止れば女を巡って戦争になるやもしれぬと。おまはそれを恐れているのか」

「私が?」

 ラシャードはゆるりと頭を振った。

「もし彼女が私を選ぶなら私はそれを受け入れ、彼女の求婚者に公式に決闘を申し込むでしょう。誰の目にも明らかに、私が彼女を妻にする権利を得たいのです。ですが、今まで彼女はつねに私から去ろうとしていました。そして彼女の身分を知った私は、彼女が故郷で何をすべきか重々承知しています。ですから、キアラを帰らせようと思います」

「もし、キアラとやらがお前を愛し、側にいたいと申せば?」

「彼女は私を愛しています――いや、愛していました。それだけは自惚れではなく、はっきりしています。彼女が何者か知る前、私は彼女を幸せに出来ると確信していました。ですが……私にはまだ四人の兄がいます。彼らよりも先にカルファの地位は手に入らない私に、彼女が故郷で受ける以上の待遇を与えられるとお思いですか? その生活に彼女が満足すると?」

「そなたはまず娘と話すことだ」

「なぜです?」

 声に不快が顕だった。ラシャードは肩を落とした。

「今の私には、彼女に会ってその気持を取り戻す気力も勇気もありません。それに、私からこのような理不尽な仕打ちを受れば、彼女が去るのは明らかです」

 彼が心底打ちのめされているのは、その声から明白だった。

――美しく、気高いキアラ。

 彼女は愛を得た直後、自分の不当な嫉妬と軽率さにより、命を失いかけた。もちろん、キアラを一生自分の側から離したくはない。だが、愛を、誇りを傷つけられた彼女の心を、今更どうして繕うことが出来よう。そして、自分から彼女に許しを乞い、ずっと側にいてくれと頭を下げるには、カルファの一族として育まれた自尊心が邪魔をしていた。

「ならばこれを読むがいい」

 一枚の羊皮紙が差し出された。それはキアラがサヒドに襲われる直前に書いていたものだった。

 ラシャードは、愛の詩を引用した冒頭に目を走らせた。それから許しを乞うための謁見の申し込みが続いていたが、それは途中で途切れていた。

「どうだ。それが王子を愛さぬ女の書く手紙か?」

「これだけでは不十分です。私は……愛の……確証が欲しいのです」

 ダナニヤは呆れたように胸の前で腕を組んだ。

「私が腹を痛めて生んだ男はなんて強情なのだろう。不信信者が一塊になってもまだこれよりはましだろうよ。まあよい。私に案がある。娘を試すのじゃ」

 ラシャードは訝しげに、それでも興味を引かれたように首を傾げた。

「試すとは?」

「愚か者。ここへ来て座れ。そして母の助言を有り難く聞くのだ……」

 母親は噴水の反射した光に瞳を輝かせ、自分の隣を指した。

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