5. 解呪

 飛ばされたグレーテルは、咄嗟のことで一瞬自分がどこに居るのかわからなかった。

 薄暗い部屋の中をよく見てみると、自分が座っているのはヘンゼルの家の居間で、兄嫁自慢の、異国から取り寄せた絨毯の上だとわかった。グレーテルは乱れた胸元を直し階段を駆け上がり、兄夫婦の寝室へ飛び込んだ。深夜の突然の妹の訪問にびっくりして飛び起きたヘンゼルだったが、小さい頃勇敢な妹に命を助けてもらった恩はまだ健全に彼の中に存在していた。

 ヘンゼルは理由も聞かずに妹の頼み通り、使用人一人を貸した。

 教会に戻ったグレーテルは、体つきは立派なくせに怯えて尻込みする若い使用人を急き立て、地下へ下りて行った。

 祭壇の前に、二つの体がうつ伏せに倒れていた。

 一人はニコライだとすぐに分かった。しかし、少し離れて反対側に倒れている、人間よりやや大きめの生き物がフロリアンだと気がつくのに少し時間がかかった。体中がつぶれた桑の実の汁のような紫色に染まり、傷だらけの人型の名残のあるラクダ。背には一対の蝙蝠の羽が不自然なかたちで広がっていた。折れているのだろう。

 グレーテルはラクダに駆け寄ると、手をその鼻の下に持って行った。

 呼吸はしていない。………死んでる?

 グレーテルは一瞬頭の中が真っ白になった。

 取り返しのつかないことになった。

 ふらふらと力なく彼女は立ち上がり、ニコライの側に屈み込み脈をとった。弱かったが、指先に波を感じた。純白の司祭服はその面積のほとんどが赤黒く染まっていて、ぼろぼろだったが、彼はまだ生きていた。

「司祭様は、そこに倒れている悪魔と闘われたのよ」

 グレーテルは岩壁に張り付いている使用人に言った。

 礼拝堂のなかで嘘をついた。でも、罪悪感はまったく無かった。

 フロリアンは私を守るために闘ったのよ。

 本当はそう言いたかった。

「おまえ、その悪魔を担いで馬に乗せて頂戴。私が森に捨てに行くわ。事切れているからそんなに怖がらなくても大丈夫よ。おまえは残って、司祭様をお願いね。このことは口外しないで。もし、誰かに話したら、この悪魔の仲間がおまえを切り裂きに来るかもしれないわよ」

 これくらい脅かしておけば、この気の弱い男が誰かに話すことはあるまい。

 悪魔を乗せた馬を引き、闇の中を家まで歩いた。

 それから、その見たことも無い血だらけの動物の体を、苦労して家の中へ引きずって行った。

 寝室の床に寝かせたまま、濡らした布でこびりついた紫の体液を綺麗に拭いた。体中汚れていたのにも関わらず、傷は思ったよりも浅かった。

 フロリアンって、本当に悪魔だったんだ………

 額の真ん中に角を生やしたラクダ。左の手首から下が無い。綺麗にすっぱりと切られた切り口から骨が見え、表面が黒くなった肉が包んでいた。

 彼女はフロリアンだったラクダの体を床の上に横たえたまま、毛布をかけた。

 埋葬は、明日してあげよう。

「あなたのこと、好きだったの。あんたがこんな風になっちゃうまで、自分でも気がつかなかったけど……本当よ」

 グレーテルは冷たいラクダの顔をそっと撫でた。

 眠れると思わなかったが、取りあえず同じ部屋のベッドに横になった。ロウソクの明かりを落とし、月明かりにラクダの輪郭が浮くのを見る。暫くそれを見ていたが、瞼が重くなって行くのにまかせ、瞳を閉じた。

 次の日、目を覚ませば既に日は高かった。

 グレーテルが目を覚ますと最初に目に入ったのは、窓から射込む太陽の光に縁取られた目の前の死体だった。

 起きたばかりの目に眩しい。彼女はベッドで体を起こして目を凝らしてみた。

「?!」

 グレーテルは死体に近寄った。

「フロリアン………」

 死体は人間のかたちに、グレーテルの良く知っているフロリアンに姿を変えていた。

 そ……蘇生して……る?

 蘇生はしているけど、どうしたら覚醒するの?

 毛布から覗く肩に、ラクダのごわごわした堅い毛はもう生えていなかった。つるりとしたその肩をグレーテルは掴んで揺らした。

「フロー? フロー? 生きてるの? ねえ?!」

 頭はぐらぐら揺れ、彼の艶やかな黒髪は顔に降り掛かった。

「起きてよ、ねぇ、フロー。あんたのこと好きだって言ったら起きる? それなら何遍でも言うわ。ねえ、フロー、私、あんたのこと好きよ……だから……」

 もう一度………

 フロリアンは目を閉じたままだった。まつげの一本も動かさなかった。グレーテルは彼の体の上にうずくまり、涙を流した。自分に取って何が大切なのか、失って初めて分かった。

 覚醒、覚醒………

 手の甲で涙を拭いながら、取りあえずフロリアンの目を覚ますことを考えた。

「ヤモリを煎じて飲ませればいいのかしら……それとも千年杉の枝で体を叩くとか……」

 床に横たわる彼の隣でぶつぶつと独り言を言って見たが、やはり答えは帰って来なかった。

 グレーテルは悪魔の覚醒のヒントは何か無いかと家を飛び出し、庭を、畑を歩き回った。何をどうしていいか分からないから、歩き回っていたとも言えた。取りあえず、本当にヤモリを捕まえ、頭を潰して釜戸の火で炙ってみた。それを鉄鍋に煎じてコップに注いだ。なんとも言えぬ臭いが家中に漂った。こんなものを彼に飲ませていいものかどうか迷ったが、悪魔なら大丈夫だろうと、自分を納得させた。

 横たわっていた彼の体を仰向けにし、口をこじ開けると少し冷めたその液体を流し込む。それは彼の口の端から流れ、耳を濡らした。

 グレーテルの期待していたことは何も起こらなかった。彼女は途方に暮れて彼の脇にぺたんと座ったまま、彼の真っすぐな鼻筋のあたりにじっと視線を落としていた。

 眠っていても綺麗な顔をしているのね。

 もしかして、このままずっと寝かせておいた方がいいかもしれない。もし、ニコライが彼が覚醒したことを知ったらどうするだろうか。今度こそ息の根を止めに来るだろうか。

 いや、それよりも……きっと、フロリアンは覚醒したとたん、もともと彼の居るべき場所に戻っていくだろう。自分を庇ってくれたために、死にかけたのだ。

 思えば昨日で約束の三週間が過ぎていた。私は彼との勝負に勝ったし、負けた悪魔がここに留まる理由は無い。

 グレーテルに取って、今となってはそんなことはどうでも良かったのだが。

 でも、もし眠ったままでいればずっと一緒に居られる。そして、いつか何かのきっかけで起きるかもしれない。そしたら……いやだ、私、何考えているんだろう。悪魔相手にこんなに本気になってしまうなんて。

 グレーテルは彼をこんな目に遭わせた自分を責めても何もならないことは頭では分かっていた。しかし、彼女の、彼に対しての恋心はやるせない気持ちで張り裂けそうだった。グレーテルは彼の胸に手をつき、身を屈めると彼の唇に自分のそれを重ねた。

 ごめんね。

 すう、と暖かい風が自分の鼻の上をくすぐった。そして、いきなり唇が吸われた。

「うン?!!」

 びっくりして目を開けると、黒く濡れた瞳と出会った。

 グレーテルは思い切り身を起こすと、目を大きく見開いたまま固まってしまった。そして、仰向けに寝ながら自分に流し目を送っているフロリアンを言葉も無く眺めた。

「あぁ……おまえ、遅いよ。死人にキスしたら起きるっていうの、もう定番だろうが。なんで真っ先にしないかなー。不味いヤモリの湯なんて飲ませやがって。おまけに次は千年杉だろ?」

 フロリアンはむくりと上体を起こして、こきこきと首を回した。

「どどどどうして?!」

「体が本当に動かなくなる前に、仮死の呪文唱えた。体力が限界の時に、極力体のエネルギー消費をストップして治癒に集中させるのに一番いい呪文。目覚めのアイテムは”想い人のキス”ってことで。おまえ、スノーホワイトの噂、聞いたことが無い? オレの姉貴が彼女に術かけたんだけどさ。彼女も王子のキスで目覚めたんだぜ。まあ、他にも”手を三回叩く”とかあるけどね」

「し、知らない……」

「ま、どうでもいいけど。そんなこと」

 彼は両腕を伸ばしてグレーテルを抱き寄せる。

「そ、それよりも何か着てよ! 魔法でぱぱっと出して! あ、それか私のマントが……」

 何も着ていないフロリアンの上半身に、グレーテルは慌てた。

「なにそれ。裸体にマントなんて、変質者じゃねーんだから。固いこと言うな。今から子供作るのに」

「い、今からって……子供って……」

 ばたばたとグレーテルはフロリアンの腕の中で暴れた。彼は暴れるグレーテルをより強く抱きしめ、ゆっくりとその体を押し倒す。

「フロー……」

「もう一度言えよ」

「オレのこと好きだって、もう一度言え」

「ええ?!!」

 フロリアンは彼女の顔の上でにやりと笑う。上等な悪魔の微笑みだ。

「しっかり聞いてたから。ちなみにおまえの負けね」

「聞いていたならいいじゃない!」

「だめ」

 フロリアンはグレーテルの首に軽く歯を立てた。

「ふぁ……っ、す、好き。フローが好き……」

 それは震えていたが、しっとりと柔らかな声でグレーテルはフロリアンの欲する言葉を漏らした。フロリアンは満足げに彼女を正面から見つめた。その顔は火がついたように真っ赤だった。恥ずかしさで視線を泳がせながらも彼女は口を開く。

「あ……ねえ、ニコライはまだ生きてるから、仕返しに来るんじゃない?」

「え? あー、平気平気。力の差を見せつけてやったから。やっつければこっちの勝ち。そう言う決まりなの。だからもうオレの領域に、おまえには手を出して来ない」

「私には? じゃあ他の人たちには?」

「知らねーよ。随分楽しんでたようだから、当分止めないんじゃねえ?」

「何それ! どうにかしてよ!」

「あのさぁ、オレ、おまえ以外に興味ないもん。他のヤツのことなんか知るか。慈善事業しているわけじゃないんだぜ?」

「あ」

「まだ何かあるの?」

 自分の思うように先に進めないもどかしさで、思い切り嫌な顔をしてみせるフロリアン。

「私が……あんたの子供を孕んだら、また他の女の人のところに、行っちゃうの……?」

 心配そうな顔でグレーテルは彼を見上げている。その瞳はかすかに湿りを帯びていた。フロリアンは体の内がかっと熱くなるのを感じた。それでもそんな素振りは顔に出さずに、傲慢に振る舞う。

「ばーか。おまえが負けたんだから、おまえはオレのものなんだよ。オレはずっとおまえの側を離れない」

 悪魔に取り憑かれるなど、常識で考えれば不名誉この上ないことだったが、この時のグレーテルの心は悦びで打ち震えた。そしてフロリアンが自分の頬を優しく撫でる手つきにうっとりと酔う。

「あ! そ、そういえば、て、手が! 手が生えてる!!!」

 身を起こしそうになるグレーテルを再び床に張り付けて、フロリアンは彼女の首筋に顔を埋めた。

「だって、この体は作り物だからなぁ………朝飯前だぞ」

「やっぱり悪魔だー!」

「だから最初からそう言ってるじゃん」

 悪魔のオレを惑わすなんて、そっちもかなりのもんだけど。

「え? 何? なんて言ったの?」

「もう、ウルサいよ、おまえ……」

「んっ……」

 フロリアンは彼女の唇にそっと噛み付き、そして重ねる。

 グレーテル……

 彼は温かく湿ったグレーテルの口の中に、彼女の名前を滑り込ませた。

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