4. 勝者

 夕食を済ませた後グレーテルはフロリアンを追い出すと、まだ火がくすぶる暖炉の前で刺繍の仕上げをしながら、夜が深く、闇が濃くなるのを待った。

 教会の鐘が微かに聞えた。八回鳴るのを息を潜めて数えると、出かける支度をした。マントを羽織り、フードを深く被った。

 馬に鞍を置いてその背に股がる。ふとフロリアンの”魔法の家”を見ると、真っ暗だった。どこかに行っているのかもしれないし、悪魔に灯りは必要がないのかもしれない。

 教会に向かう道すがら、グレーテルはあともう数日もすれば終えるだろうフロリアンとの生活を振り返っていた。

 思えば、一人の男と数週間も共に過ごしたのは初めてだった。

 大体、婚姻前に結婚の約束もしない男女が人目も憚らず、毎日顔を合わせるなんてあり得ないことだった。

 グレーテルは、この家を買う前に結婚を約束した男と付き合っていた。優しい男だった。だが結婚直前に、彼の目的は自分ではなく自分の財産だったことが分かり、別れた。ヘンゼルは”よくある話だろ”と鼻で笑ったが、やっぱり、自分を好きでいてくれる人と一緒になりたかった。

 これも、魔女の呪いかしら。あの財産は全て魔女のものだったものね……

 自嘲するように鼻で笑う。

 馬の鞍に付けたランタンの灯りが揺れると、影も揺れ、周りの木が大きくなったり小さくなったりするのだった。

 フロー……もう少し時間があったら、好きになっちゃったかもしれない。……私、変だ。悪魔なんかに……

 フロリアンは自分の秘密を全て知っていた。隠すことが無い分、自分でも驚く程素直に彼にいろいろなことが話せた。彼は自分の話にちゃんと耳を傾けてくれた。悪魔だからたまに彼なりのとんでもない理論で会話が進むことがあったが、それはそれで楽しかった。

 そして、悪魔特有の、人の心を惑わす誘惑だろうか。彼に抱きしめられた時……グレーテルの記憶に彼の体の熱が甦った。再び、心臓が早鐘を打った。

 つ、つい動揺しちゃったのよ。あんなこと、久しぶりだったから………

 それからニコライの顔が浮かんだ。

「私はあなたの力になりたいのです。明日の晩、教会に来て下さい。共に神に祈りましょう。きっと苦しみから開放されるでしょう」

 そうニコライに言われたのが、昨日の昼。街へ買い物へ行ったついでに、サクランボのコンポートを届けに教会へ寄った。その時に彼が低い声でグレーテルの耳元で囁いたのだった。

 その言葉を聞いたとき、グレーテルは自分が本当に罪を犯した人間の烙印を押されたような気がした。そこにはフロリアンという悪魔も付随して。

 馬を教会の裏庭に繋ぐと、正面の重いドアを押して中に入る。中は真っ暗だったが、目の前の祭壇だけはいくつかのロウソクが灯され、ぼうっと浮かび上がっていた。説教壇の脇に、普段ミサでしか身につけることの無い、白い衣装を着たニコライの姿を認めた。堂々として、立派だった。

 教会の、神々しい静寂に押し潰されそうで、心細くなっていたグレーテルは彼の姿を見つけるとほっとして近づいた。

「グレーテル……」

 ニコライも彼女に歩み寄り、両手でその手をそっと包んだ。薄暗がりの中、ニコライの顔は青白く浮かんでいた。

「ニコライ……」

 彼女は俯く。ニコライにそうされると、恥ずかしさで彼の顔を見れない。

「顔を見せください、グレーテル。何も心配することはないのですよ」

 手だけではなく、その声の響きにも体が包まれる気がした。グレーテルは顔を上げる。そして、彼の、慈しむような眼差しと出会った。頬が薔薇磯に染まる。それは頼りないロウソクの明かりにも十分わかった。体が、小さく震えた。

 グレーテルはゆっくりとニコライの前に跪いた。彼は祭壇の上の聖盂(せいう)、足の付いた円盤状の皿から薄いパンの欠片を取り、軽く開けたグレーテルの口の中に入れた。それから聖爵(せいしゃく)を彼女に与え、葡萄酒を、神の血を飲ませた。

「さあ、共に祈りましょう」

 ニコライはグレーテルの上に軽く手をかざし、祈り始めた。

 グレーテルも両手を胸の前でしっかりと組んで、瞼を閉じ、祈った。母を見殺しにした、卑しい自分をお許しください……

 そのうち、体から急に力が抜けていく感じを覚えた。思わず床に両手をついた。脂汗が額に浮かんだ。

 意識はしっかりとあるのに、手足が言うことを聞かない。

 ニコライも膝を折り、彼女の方を抱いて顔を覗き込む。

「どうしたことでしょう、グレーテル……あなたは、悪魔に取り憑かれています!」

 その言葉を聞いたグレーテルは目の前が真っ暗になった。

 悪魔って………

「大丈夫ですよ、グレーテル。私に全てを委ねなさい………私を信じることが出来ずに、どうして神を信じることができましょう」

 彼は自由の利かないグレーテルの体を抱き上げると、ニコライは地下室へ体の向きを変えた。グレーテルには見ることが出来なかったが、その瞳には聖職者に似つかわしくない光が浮かんでいた。

 何だこれ!!

 グレーテルの後を追って来たフロリアンは教会の敷地に降り立ったとたん、強い目眩を感じた。結界が、強い。これだけの強い結界の中に自分が入れたことが不思議なくらいだった。そんなこと考えている猶予はない。前回より手こずったが、彼は結界を破り呪文を唱えた。彼が瞼を開けると、そこはすでに地下礼拝堂だった。

 祭壇の上に、グレーテルが横たわっている。スカートははだけ、すっかり足がむき出しになっていた。聖職者はグレーテルの開いた胸元から顔を上げると、闖入者を見て微笑んだ。

「君の出る幕じゃないよ、さっさと地獄に戻った方が身のためだと思いますけど?」

 グレーテルはニコライが話しかけた相手の方へ顔を向けた。

「フロリアン!」

「グレーテル、そんなところで寝てるんじゃねーよ。こっちに来い」

 フロリアンは前に手を伸ばした。グレーテルはなんとか起き上がろうとしているようだったが、持ち上がるのは頭ばかりだった。

「てめぇ、グレーテルに何をした?!」

 ふふ、とニコライは口角に笑みを乗せる。

「神の血を飲みましたが……彼女は自分の罪によって縛り付けられているだけです。眠り薬ではありませんよ。眠ってしまうと私の楽しみが半減してしまいますからね」

 ニコライはグレーテルの胸の上にそっと手を添えた。

「グレーテル、しっかりと見なさい。あなたはあの悪魔に騙されているだけなのです。あなたの罪の意識が彼を呼び出したのです」

「戯れ言言ってるんじゃねーよ。堕天使。おまえウリエルだな? 堕天使の烙印を押された」

「ふふ、言ってくれるね。私は”天使”から人間になり”聖人”という立派な役目を貰ったまでだ。私はこの仕事を楽しんでいるし、誇りも持っているがね」

「夜な夜な女をとっかえひっかえ楽しめる特権をか。まぁ、おまえがどこで誰に何をしようが関係ない。関係あるのはグレーテルだけだ。そいつの前から今すぐ姿を消せ」

「彼女たちは私への思いに苦しんでいるんだ。苦しみから人びとを開放するのが私の役目だからね………それにどうやらグレーテルの中には追い払わなくてはいけない黒い影が巣食っているようだ。少し突いて毒を出すだけだ。随分、楽になると思うよ。そう……悪魔が人間に想いを寄せるのは珍しいことではないが、残念ながら他をあたるんだね」

 ニコライは少し唇を尖らせ、ふっと息を吹いた。

 その瞬間、フロリアンの体は後ろに飛び、壁に強く叩き付けられた。天井から土埃が落ちた。

「……ってえ、やってくれるじゃねえか」

 ゆらりと彼は身を起こすと、短い言葉を発して、手を前に払った。

 ニコライは素早くよけたが、彼の一房の髪が、グレーテルの乱れた服の胸元に落ちた。

「ニコライ……やめて………止めて下さい!」

 グレーテルは必死に懇願した。フロリアンが傷つくのを見るのを耐えられなかった。

「グレーテル、あなたはまだ惑わされているのです」

 彼女は自分の言葉を受け付けない、ニコライの氷のような冷たい視線に愕然として、今度はフロリアンに訴えの声を張った。

「フロリアン、行って頂戴! そしてもう二度と戻って来ないで!」

「ばーか、おまえとの勝負もついてないのに行けるわけないだろ。それに、売られた喧嘩を買わない礼儀は無いんだよ。ていうか、ただ目障りなだけだけどな。ウルサいからおまえ、消えてろ」

 そう言うとフロリアンは呪文を唱え、グレーテルに向かって手の平を向けた。その瞬間、グレーテルは祭壇の上から消えた。

 刹那、祭壇の方に伸ばしていたフロリアンの手が、スパンと手首からあっけなく離れた。鋭い刃物ですぱっと枝を飛ばしたように。

 その傷口から鮮血が吹き出ることはなく、濃い紫色の体液がしずくとなり何滴か流れただけだった。

「さっきから不意打ちばかり、卑怯なヤツだな、おまえも」

「悪魔を退治するのに卑怯も何も無いだろう」

 フロリアンは満足な方の手を突き出し、術を放った。腕を前でクロスして、ニコライは咄嗟に身を庇ったが、司祭服は裂け、裂けた部分から勢い良く血が吹き出た。ニコライも負けじと間髪を入れずに両手を振り上げる。

 竜巻がフロリアンを襲い、その渦は中心に向かって強く体を締め付けた。風は鋭く、悪魔の肌を斬りつけた。フロリアンがその風を散らした後には、二本の足で直立するラクダの体をした悪魔が姿を現した。体の所々から体液が流れていた。

「あー、君は確か………ウアル、って言ったっけ。ラクダのウアル」

「おまえに呼ばれたくねえよ。早いとこ、死ね。オレが地獄に付き添って………」

 言い終わらないうちに、悪魔の体がみしみしと音を立てる。

 ぐあぁぁぁあ

 今にも体がバラバラになりそうだった。

 ニコライは薄ら笑いを浮かべながら術を唱えていた。

 勝負は一瞬で決まる……次の一撃で決まる、決めないと………

 ウアルは最後の力を最大まで集め、解き放った。

 その渾身の一撃にニコライは反撃する間もなく、天井近くまで吹き飛ばされ、体は鈍い音を立てて床に叩き付けられた。天井は崩れ、その体の上に石の塊がバラバラと降り掛かった。ぴくりともせず、ニコライが立ち上がる気配はもはやなかった。

 フロリアンの体力も限界だった。

 グレーテルは無事だろうか………ただ彼女のことをひたすら思いながら、彼は口の中で呪文を唱え始めた。

  この呪文は無駄に長いんだよ……

 途中、立っていられなくなり膝が折れた。それでも最後まで呪文を唱えると、ぐらりと体が前にのめり、そのまま石の床の上に崩れた。

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