3. 胸騒ぎ

「あんたって、結構働き者なのね。契約もしないで人間のために働いていいの?」

 グレーテルは自分の脇に置いてある篭の中の、山になったサクランボを一つつまんで口に入れた。弾力のある果肉から甘酸っぱい果汁が口に広がる。

 今日は森の中でフロリアンとグレーテルは二人だけのサクランボ狩りを楽しんだ後だった。彼らの持って来たかご一杯の収穫に、グレーテルは上機嫌だった。これならコンポートもたくさん作れるし、パイも作れる。サクランボのコンポート、司祭様はお好きかしら………

 ニコライの腕の中でひとしきり涙を流すと、その涙で幼い頃の罪悪感が少し洗われた気がした。

 その後、散歩の途中だと言ってニコライがグレーテルを尋ねることが増えた。

 特に何をするでも無く、二人はバラ園の入り口で座って静かに語らい、ある時には小川まで足を伸ばし、煌めく水面をただ眺めた。

 その時間はグレーテルにとって至福でしかなかった。

 この恋心が蝶になって私の中から飛び、舞って、ニコライの肩に止まってくれたらいいのに……そして蝶の散らす甘い鱗粉を吸った彼も私を好きになってくれたら……

 そこまで考えて、また自分はなんて欲張りなのだろう、卑しいのだろうと、きつく瞼を閉じた。

「ま、オレたち勝負してる仲だから、いいだろ。こーいう地味な点数稼ぎが勝因につながるんだよ」

 グレーテルはフロリアンの声で現実に引き戻された。

「あ、悪魔なのに随分地味な手段ね。ねえ、フロー、ほんとに私があんたのこと好きって言うと思ってるの」

 ぷっ、とグレーテルは種を前に勢いよく飛ばす。

 そんな彼女をフロリアンは鼻で笑いながら、ちらと見る。

「オレ、無敵だから」

 ふうん。興味無さそうにグレーテルは彼の言葉を流した。悪魔でも、さすがにその態度にむっと来たフロリアンは自分もサクランボを口に入れ、その種を彼女に向かって飛ばした。

「ちょ! なにするのよ」

「おまえ、オレのこと甘く見てない? オレがどんなことが出来るか分かったら、おまえ今すぐにでもオレの足元にひれ伏すと思うんだけど」

 その言葉にぽかんとしていたグレーテルは、かたちの良い鼻を少し上に向けて高飛車に言う。

「へえ? 何が出来るの? 魔法を披露してくれるわけ?」

「そうだなぁ……あのさ、さっきから言おうと思ってたんだけど、おまえの背中に毛虫が付いているんだよ」

「えええ?!」

 グレーテルはそれを聞くと背筋をぴんと伸ばした。

「ど、どこ? と、とってよぉ!」

「おまえ、ペンダントしてる?」

「し、してるわよ! 早くしてよー」

 フロリアンに言われなければ全く気がつかなかったのに、言われたとたん、彼女はむずむずと体を動かし、すっかり落ち着きを失っている。

「ちょっと、ペンダントとって、篭にでも入れておいてくれない?」

 彼女はぶつぶついいながらも、頭を少し前に倒して手を首の後ろに回すと、その守護石を外した。

「あんだけ畑いじっているヤツが、毛虫怖いって変だな」

「毛虫だけなのよ、苦手なのは。クモとか青虫とかカエルとか全く平気なんだけど。ねえ、取れた?」

 フロリアンはうねうねと体をよじる毛虫をつまんで、放り投げた。それでも、この生意気なグレーテルをもう少し怖がらせようと服の上から背中に指を這わせた。

「うわ! ここにまだでかいのが付いてる」

 彼がわざとらしく大声を上げると、「きゃあ」とグレーテルは小さく跳ね、フロリアンの胸にしがみつく。

 予想外の彼女の反応に、フロリアンは一瞬戸惑った。グレーテルはいつまでもフロリアンが動く気配がないので、不思議に思い、顔を上げた。

「もー、ちゃんと取ってくれた………」

 彼女の言葉は、線の細いフロリアンの、それでも意外と逞しい胸に押し付けられ、消えた。気がつけば彼にしっかりと抱きしめられていた。

 どきどきと耳元で聞こえる心臓の鼓動は自分のものか、彼のものか。彼に心臓なんて無いはずだから、自分のものだろう……。ぼうっとした頭でそんなことを考えた。

 彼の熱を持った手が、グレーテルの背中をゆったりと上下に動いていた。

 その動きは決して不快ではなく、むしろ、眠気を誘うようなそれだった。グレーテルはしばらくフロリアンの胸の中に大人しく収まっていた。

 頬に当たっていた胸が大きく膨らんだ。

「もう、帰ろう」

 そう言ったのはフロリアンだった。

 立ち上がり、スカートをはたく。まともに彼の顔を見れず、下を向いたまま聞いた。

「い、今のも点数稼ぎ?」

「そんなとこかな……」

 彼は屈んでサクランボでいっぱいの二つの篭を取った。

 茜色に少し染まり始めた空の下を、家に向かう。夕食前の一仕事が待っている。

「そう言えば、あの司祭、最近よくウチに来るよな」

「ウチ、って私のウチでしょうが……一体どこで見てるの?」

 溜め息混じりにグレーテルは言った。

「うーん……地獄耳? 使いのヤツがなんかわざわざ教えてくれたり」

「手下がいるの? そんな人、見かけないけど」

「ヤモリとか、鼠とかだよ」

 いやぁ……と、グレーテルは顔をしかめた。

 そんな彼女を見下ろすフロリアンの顔に西日があたり、長い前髪の影を作る。それは彼の目に寂しさを落としたようにも見えた。

「まあ、おまえの気持ちが伝わるといいな」

「あれ、意外とやさしいのね、フローって」

 そうでもないよ、と悪魔は両手の篭を持ち直して大股で歩き出した。待って、とグレーテルは追いかける。

 だって、なあ。幸せいっぱいの二人が突然どちらかを失ったらグレーテルは、そして聖職者はどんな顔をするか。

 それを考えただけでも今から楽しくて仕方が無いもんな。

 幸せは大きければ大きい程、ぶち壊すオレにとっては好都合だ。

 日が沈めば簡単な夕食。

 大抵の献立は決まっていた。畑で取れたサラダとパン、近所から肉や魚が差し入れられれば、焼く。スープにパン、チーズ。ハーブ入りのオムレツ。そういうものが日がわりで食卓の上に並ぶ。

 フロリアンは人間のように食べる必要は無かったが、声をかけられれば一応、食事に付き合った。

「ねえ、普段悪魔って何してるの? 人間と契約して、腹黒い願を叶えるとかっていうのは定評だけど。あとは、死んだ人の魂狩り? サタンに献上するんでしょ」

「うわー、すごい偏った知識だな。まあ、外れては無いけど、オレはサタン様よりバアル・ゼブブ様のほうが近いな。おまえ、悪魔一般のこと聞きたいの? それともオレの個人的なこと?」

 悪魔にも個人的なものがあるのか、とグレーテルは宙に目を泳がせた。

「じゃあ、フローのこと」

「まあ、そうだな。おまえの言った通り、契約した上で人間のために働いていたし、あとはおまえが子供を産める体になるまで待ちながら、オレはオレでせっせと子種を他の女に植え付けてたし。おまえがオレの子孕んで魔法が解けたら、また他の母体を探しにいくけどな」

「えー! じゃあ、私がもし、万が一ね、もし、あんたの子供産んだら、女手一つで育てろってこと?! 無理よ!」

 グレーテルは向かいに座るフロリアンに噛み付かんばかりに身を乗り出した。

「いや? 子供産まれたら速攻取りにくるけど? 他の魔女、姉貴たちに育てさせるし」

「何それ?! 私の子供なのに?! そんなの嫌よ」

 その言葉にフロリアンは目を丸くする。

「なに? おまえこそ悪魔の子供なんて育てたいの? 普通、嫌がるけどな。捨てるヤツだって、殺すヤツだっているのに。自害する女もいるぜ」

「だって、悪魔と交わったら私だって魔女になるんでしょ?」

「あん? 何? そんなこと信じてるの? そんなの、教会が勝手に作った迷信迷信。一人歩きしてんのよ。あとは、まあ契約によるだろうな」

「そ、そうなの?」

 腑に落ちない顔でグレーテルはパンをちぎり、スープに浸した。

「悪魔が言ってんだから間違いねえよ。あ、でも三回以上悪魔とヤッたら魔女になるとかね」

「そんなのもあるの?!」

「嘘だよ」

 フロリアンは口の端を上げる。

「嘘つき」

「悪魔だから、いーんだよ」

 なにそれ、とグレーテルは笑った。

 なんっか、あいつ、怪しいんだよな。

 蝙蝠に姿を変えたフロリアンは、ぱたぱたと軽い羽音をたてながら街の教会を目指していた。

 司祭、ニコライがグレーテルを訪ねるごとにフロリアンが彼に抱く”嫌な感じ”は大きな”嫌悪”に育っていった。

 グレーテルに近づくのも気に喰わなかった。ニコライが近づけば近づく程、自分がこの勝負で不利になる。

 田舎司祭なんかに邪魔なんかさせるかよ。あいつはオレの子供を産むんだ。

 胸の中で呟きながら、街の屋根の中で一つ飛び出た教会の十字架を認めた。

 とんがり屋根に刺さっている仰々しい十字架。三日月の光を浴び、かろうじてその輪郭を浮き上がらせていた。

 フロリアンは、権力と言わんばかりに横に伸ばしている、ところどころ金の禿げた青銅の棒に逆さにぶら下がった。

 十字架など、彼にとってただのクロスされた棒だった。装飾品にもならない、役に立たない代物だった。

 下を見下ろすと、今まさに一人の村娘が教会に入って行くところだった。フロリアンは舞い降り、ロウソクを持った女の後ろをくるくると飛んだ。彼女は周りを伺いながら、怯えるように教会の裏口から入っていった。

 人間の姿に戻ったフロリアンはドアを通り抜けようと手を前に出した、とたん

「!!」

 また小さな痺れを感じ、手を引っ込めた。

 彼は顔をドアに近づけた。その黒い木のドアにはよく見ないとわからないくらいうっすらと、しかし完璧な魔法円が描かれていた。結界が張られていた。

 面倒くせえ……

 これくらいの結界なら解くのは何でも無いことだったが、張った相手に破ったことがバレる可能性もあった。それがどういう展開をもたらすかはフロリアンに予想し得なかった。

 ただ偵察に来ただけなんだけど。

 首を傾げて魔法円を見ていたフロリアンは、すっと手をその前に挙げると口の中で呪文を唱えた。

 ま、なんかあったら痛い目に遭うのは向こうだし。

 そんなことを思いながら、ドアを抜ける。

 教会の中はは真っ暗だった。祭壇の後ろにそびえているパイプオルガンもその忌々しい響きを奏でるでも無く、ステンドグラスを通して入り込む月明かりに冷たい輝きを反射していた。

 何かの合図のように地下室へ下りる階段の手すりの足元に、ロウソクの小さな炎が揺れていた。

 フロリアンは黒い霧となって地下室へ下りていった。

 地下室のドアを抜けると、小さな地下礼拝堂。左右二列に並んだ三人がけの椅子。洞窟を彷彿とさせる、岩肌のあらいドーム型の天井。嫌いではない、湿った空気。

 探す手間もなく、目的の人物は目の前にいた。

 祭壇の上に、いや、正確に言えば祭壇の上で何も身に付けていない女の上にいた。

 ロウソクの灯りに照らされ、絡み合う裸体は汗で光っていた。女の足はしっかりと聖職者の腰に巻き付いていた。

「全てを、私に委ねなさい………」

 切れ切れの息の間に落とされた声は、礼拝堂に低く響いた。

「あぁぁぁ………!! 司祭さま!」

 反り返った女の喉元から漏れた嬌声は、天井に跳ね返り、空気を妖しく震わせた。

「あなたは、全ての苦しみから……開放されます………」

 司祭は女の体を激しく貫きながら言った。

 こいつ、かなりヤバい………

 行為に没頭していたと思った司祭の視線が、ゆっくりと自分の方へ移った気がした。

 その刹那、霧であるフロリアンの目の前に炎が舞った。その激しい熱で目が焼かれるようだ。

 うわぁああ!

 不意を討たれたフロリアンは声にならない悲鳴を上げ、無我夢中で教会から飛び出した。

 グレーテルの家の前に枝を伸ばす樫の木の下。フロリアンは膝に頭を埋め、うずくまったまま動くことが出来なかった。

 夜露にマントが濡れるのも構わず、暫くそのままでいた。

 虫が羽を震わせる音が彼を慰めているかのように聞こえた。

 あいつは、オレが居たことを知っていた。

 あの時の不意打ちなら、もっと強い攻撃でオレを散らすことさえ出来たはずだ。

 宣戦布告。

 あぁ、そうか、あいつは………

 フロリアンは燃えるように痛む目を抑えながら、記憶の黒い霧の中から一人の聖人の名前をたぐり寄せた。かつては天使として呼ばれていたその名前を。

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