2. 秘密

 変な悪魔……。

 グレーテルはベッドの上で寝返りを打った。月も無く、悪魔の好みそうな漆黒の、夜だった。

 悪魔、は、フロリアン、と名乗った。

 人間の姿になる時はこの名前を使う、フローでいいよ。

 春の日差しのように柔らかく笑う彼は、どうしても悪魔に見えなかった。

 悪魔だと言うのに、なぜか恐怖はあまり湧いて来なかった。

 あの魔女が、あいつの母親だったなんて。

 いまでも魔女を釜の中に押し込んだ時の感触が手の平に残っている。黒くて固い魔女の服。所々白く埃にまみれ、そのざらついた布の下の、皮と骨ばかりのゴツゴツとした背中。

 突き落としたあとは、無我夢中でほとんど何も覚えていない。魔女が炎に飲み込まれてから、壁に掛かっていた鍵束を掴み、子豚のようになった兄を檻から引きずり出した。

 その間にも、空気を引き裂くような魔女の悲鳴が家の中から響いていた。少し走っただけで苦しそうに息を切らすヘンゼルの手を引きながら一目散に走っていた時も、ずっと、その悲鳴は後ろから付いて来た。

 両親の元に返ってからも、あの魔女の目が、力なくたるんだ瞼の下のザクロのような真っ赤な目がいつまでも自分を見ているようで怖かった。

 それでも、あの時はそうしなければ自分が、兄の命が危なかったのだ。

 神様……どうかお守りください……

 グレーテルは首から下げた首飾りの、青い石をぎゅっと握り、瞼を閉じた。

 ギシ………

 真っ暗な部屋に、床のきしむ音が響いた。

 彼に、足元を照らすロウソクの火など必要なかった。

 闇に混じり、フロリアンはゆらりとグレーテルの眠るベッドに近づく。

 横顔を見せて、彼女は規則正しい寝息を立てていた。三つ編みを解かれた髪が枕に広がっていた。

 悪いけど、オレ、おまえの都合に構ってられないから。

 好きとかキライとか。なんで人間はそんな一銭にもならない感情を大事にしたがるのか。

 それとも一銭にもならないからこそ、大事にしたがるのか。

 悪魔と人間との間には、”契約”しか成り立たないと言うのに。

 フロリアンはグレーテルを一目見た時から、強く欲していた。

 グレーテルを見つけた。それだけで気持ちが昂ったが、くるくると変わる彼女の表情や、飾り気の無いその体から漂う野生の女の匂いが、彼の中の何かを常に刺激していた。それが何かは彼にはよくわからなかったが。

 カラスの姿だった自分に餌を与え続けたガリガリの、大きな目をした少女がどんな女に成長したのか、ずっと彼は大いに興味を持っていた。

 自分の母親が彼女に魔法をかけたのも、本当だった。魔法をかけた者と血のつながりのある自分なら、魔法を解くなど簡単なことだった。それでも、なんとか口実をつけて彼女に関わりたかった。

 その時はそう思っていた。

 でも、三週間なんか待ってられるか。

 オレはこの女が今すぐ欲しい。

 そうだ。オレなら許される。オレしか許されない。

 この女が美味ければ、オレの奴隷にしてやろう。そしてオレの種を増やし続けるんだ。不味かったら、こいつの兄貴みたいな豚にでもしてやるか。

 フロリアンは手を伸ばして彼女の頬に触れた。

 バチッ

 彼の指先で小さな火が散った。

 フロリアンは思わず身を引いた。

 指先が火傷したようにちりちりと痛んだ。

 なんだ………これ………白魔術か?! 一体、誰が………

 彼女の寝顔を見下ろす彼の顔は歪み、固まっていた。しかし、それもやがて楽しみを含んだものに変わった。

 面白い。見てやろうじゃねえか。こんな悪戯を仕掛けるヤツの顔を。

 そして彼は再び闇の中に溶けていった。

「そこにある鉢を、全部日向に持っていってくれる? あ、棘に気をつけてね。手袋すればいいのに」

 日が昇るのとほとんど同時に起き、鶏を外に放す。藁の中に産み落とされた卵を集める。畑に水をまく。そんな朝の仕事を片付け、朝食の後にバラ園での仕事だった。

「おまえ、こんな重い鉢いつも一人で運んでるの?」

 鼻歌を歌いながら、剪定しているグレーテルの横顔に話しかける。

「そうね、大抵は自分でやってるけど。でも、大変な時は近所の男衆にいくらか渡して、手伝ってもらうわ。今日はフローがいて助かっちゃった」

 グレーテルはぱっと振り向いて、微笑んだ。

 タンポポに似てるな、フロリアンは思った。

「ごめんください」

 表の方から声がした。

 あ………

 グレーテルの周りの空気が一瞬、緊張したのにフロリアンはすぐ気がついた。

「ちょっと、待っててね。絶対に出て来ないでよ」

 グレーテルは人差し指を彼に突きつけて、小走りで家の表へ回った。

 絶対に来るな、と言われれば、それは悪魔にとって”絶対に来て”と言うのに等しい。

 フロリアンはカラスの姿になると、屋根の縁に止まった。

「司祭様! おはようございます」

「グレーテルさん。おはようございます」

 聖職に就いた者と一般人との違いをはっきりと分からせる、黒いスータンの裾を引きずりながら、「司祭」と呼ばれた若い男がグレーテルに近づく。聖職者独特の全てを分かったような微笑みを浮かべながら。

「日が昇る前に森へ薬草を積み行ったんですよ。たくさん取れたので、お裾分けしようと思いまして」

「あら、それだけのためにお寄りくださったんですか。嬉しい……」

 心無しか頬を染めて俯くグレーテル。

「少し横道に入るだけですよ。それに、グレーテルさんにもお会いしたかったし」

 その言葉に、グレーテルの頬はますます赤みを増した。

 なんだそれ。

 フロリアンはなんだか煮え切らない気持ちで、その若い男をもう一度良く観察した。

 陽の光で透き通るブロンドの髪は真っすぐに肩で揃えられている。グレーテルを見つめる色素の薄い青い瞳。

 もちろん、神に仕える者の特有の高貴な雰囲気は十分すぎる程漂っていた。ただ、それ以上に何か”嫌なもの”を感じた。ブルッとフロリアンは体を震わせた。”鳥肌”がたった。

 二人は仲睦まじそうに短い会話を交わした後、グレーテルは司祭から一束の薬草を持たされた。彼女は一旦家に入り、卵と、朝積んだ苺の入った器を彼に渡した。

「ところで、グレーテルさんはお体の調子はどうですか?」

 首を傾げながらグレーテルは「御陰さまで元気ですが……」と答える。

「それなら、いいのです。ちょっとこの辺に濃い影を感じましたから。朝晩のお祈りを。グレーテルさんに神のご加護がありますように」

 司祭はそっとグレーテルの手をとり、それを軽く握った。

 グレーテルは固まったまま、去ってゆく司祭の後ろ姿がずっと小さくなるまで見送っていた。

 夕方まではグレーテルは好きなように過ごしていた。

 街に買い物に行くこともあれば、近所の、近くても徒歩で15分はかかる、エルダ伯母さんの家へケーキを食べに行くこともあった。森に行くこともあった。

 今日は家の前の青草の上に座って、エプロンの刺繍の続きに取り組んでいた。始めのうちは忙しく動いていた指も、だんだん休みがちになちになっていた。その手元から彼女の心ここに有らず、というのが一目でわかった。

「おまえさ、あの男のこと好きなの」

 フロリアンは隣に座り、グレーテルの顔を覗き込んだ。

 彼女はびっくりしたように手元から顔を上げ、ぽかんと口を開けたまま隣の悪魔の顔を見つめるのもつかの間、すぐに針を持つ手を動かす。その横顔は耳まで真っ赤だ。

「ばばばばばっかじゃないの。なんでそう思うの?!」

 ………ものすっごくわかり易いんだけど。

 と、口には出さず、楽しいからもう少しいじってみようとフロリアンは続ける。

「ていうかさ、あいつもおまえに気があるんじゃないの? 手なんか握っちゃってさ」

 グレーテルは一瞬体を固くした。もう、フロリアンの顔を見上げることもしない。ただ下を向き、一心に指を動かし続けている。

「なななんで、見てるのよ。 来ないでって言ったのに……そ、それに司祭様は心が広い方。誰にでもお優しいのよ!」

「でも、おまえ、好きなんだろ」

 質問ではなく念を押すように言う。

「そ、そんなことない! 神様にお仕えする方だもの。私なんか………った!!」

 かなり動揺しているのか手元が狂い、細い銀の針がグレーテルの指を突いた。赤い玉がぷくりと指先に現れ、膨らみ、筋になって指を伝った。

 フロリアンは咄嗟にその手を取り、指を口に含んだ。

 エプロンがグレーテルの膝から滑り落ちる。

「あ……」

 指に、彼の柔らかな舌の感触が伝わった。

 彼は丁寧に指を吸い上げひと舐めすると、彼女の膝に手を戻す。彼女の顔を横目でちらりとみると、グレーテルは顔を真っ赤にし、瞳は震え、今にも涙が流れそうに湿っていた。

 やっばーーーーー! 喰えるんですけど。今すぐ!!

 フロリアンは微動だにしないグレーテルの頬に指を滑らせかけ、ふと違和感を覚えた。

 反発しない? ……じゃあ昨日のアレは何だったんだ?

「おまえさ、いつも身に付けてるものってなんかある?」

「え? あ……うん。ペンダントを……」

 我に返ったグレーテルは胸元を抑えた。

「あれ? ……今日は忘れちゃったみたい。おかしいな。いつも忘れることなんか無いのに」

「それって、……もしかしてあの男から貰ったヤツ?」

「そうよ。お守りにって。ただでさえ女性の一人暮らしは危ないからお守りにって。ご利益あるのよ。ここに住んでまだ一度も変な目に遭ってないもの」

「じゃあ、オレが初めてだな」

 ほんとだ……妙に納得したようにグレーテルは瞬きをする。

「……フロー、あの、誰にも言わないでね。司祭様のこと。それと、あんたに謝らなきゃ。私、やっぱりあんたのこと、好きにならないわ。私、司祭様を見ているだけで幸せだもん」

「実らない恋なのに? 『私なんか』って言いかけたの、そう言う意味だろ」

 グレーテルの瞳が強張った。

「おまえ、オレのおふくろ殺しちゃったもんな」

「で、でも魔女だもの。神様だって許して下さるわ」

 神なんか、と言いフロリアンはグレーテルを冷ややかな流し目で見た。

「じゃあ、おまえの母親はどうなの? やっぱり、殺したじゃん」

 ひゅう、とグレーテルの喉が鳴った。眉根が寄り、フロリアンを見るその目つきが険しいものになった。

「どうしてそれを………」

「見てたからな……悪魔は酷いことをするって言われるけど、契約があって始めて動く。それに比べておまえら人間は容易(たやす)く感情に狂わされる」よっぽどそっちの方が恐ろしいよ、とフロリアンは青い空に浮かぶ、まだ薄い三日月を見上げて言った。

 ヘンゼルとグレーテルの両親はそもそも愛し合い、結婚に至ったわけではなかった。

 適齢期を過ぎても貰い手の無かった同じ村の母が、父のところに押し掛けて来たようなものだった。

 グレーテルの父親は美しい顔をしていて、誰にでも優しかった。そういえば聞こえは良いのだが、気が弱い男で、常に母の言いなりか、誰かの言いなりだった。

 森から出て来た子供たちが持ち帰った財宝のお陰で生活ががらりと変わった。

 ヘンゼルとグレーテルは学校に行けるようになったが、家族はほとんどばらばらになってしまった。

 母はまず街に家を買い(今はヘンゼルが住んでいるが)、金を湯水のように使った。昼間から酒を飲むようになり、酒場の男たちを家にまで連れ込んだ。グレーテルが家事の一切をし、もともと人付き合いのヘタな父親は、やはりきこりとしてほとんどを森の中で過ごしていた。

 ヘンゼルはよく、酔っぱらった男たちに殴られ、グレーテルも何かにつけて機嫌の悪くなった母親に殴られた。

 そんなグレーテルが十三になり、ヘンゼルが十七歳のとき。

 ある夜、妙な物音でグレーテルは目を覚ました。ドアの隙間から覗くと、ロウソクの頼りない灯りの中、ヘンゼルが見えた。父親が顔を寄せて何か低い声で話している。兄の、ぼんやりと薄暗がりに浮かぶ横顔は、やっぱりパパに似ているな、と彼女は思った。

 やがて父親とヘンゼルは家を出て行った。父は母をまるで小麦粉の入った麻袋のように肩に担いで。

 グレーテルにはなんとなく、彼らが母親を森に連れて行くのではないかと思った。

 そう、自分たちも森に連れて行かれたのと同じように。

 グレーテルはそれでもどうしてか随分落ち着いていた。

 少し経ってから上着を来て、そっと家を出た。月が道を白く浮き上がらせていた。

 森への道は街から一つしか出ていなかったので、彼らを追うのは簡単だった。森に入ると彼らは道を外れてどんどん奥へ入って行きーー時々父とヘンゼルは交代して母を担いだ。

 そして一本の木の下に来ると、幹に母親を縄でぐるぐると縛り付けた。

 母親は全く起きる気配がなかった。薬でも盛られたのかもしれない。

 この辺りの森は、オオカミや熊が、悪魔や魔女が出ることで知られていて、夜は人が近寄らなかった。

 ママ、食べられちゃうのかな……。

 彼らが去った後、グレーテルは茂みの影でそっと様子をうかがっていた。

 今思えば不思議だが、全く恐怖は感じられなかった。目の前に母親の姿があったからなのか。遠くでフクロウが鳴いていた。

 母親が起きたようだ。

 彼女の、自分の置かれている状況がわかるまで大して時間はかからなかった。母親は家族の裏切りを知ると、暴れ、騒ぎ出した。

 その声は誰にも届かないと、ママは知っているのだろうか。

 私たちだって、そうやってパパとママを呼んだのに。

 声をからした母親は、やがてがくりと頭を垂れた。

 いけない。

 グレーテルは茂みから飛び出していた。

「誰だい? ああ、おまえかい、グレーテル」

 母親は顔を上げて側まできたグレーテルの名を呼んだ。酒臭い息がグレーテルの鼻腔に入り込んだ。体からも酒の匂いが滲み出て来ているようだった。

「おお、おまえなら助けに来てくれると思ったよ。早く、早く縄を解いておくれ」

 グレーテルは急いで木の後ろに回り、縄を解いた。

 私は、あのとき何かを期待していたのだろうか。

 グレーテルは、思いを巡らせる。

 こんな酔っぱらいの母でも、やっぱり自分を愛していて、抱きしめてくれることを夢見ていたのだろうか。

 やっぱり、自分は子供だった。

 自由になった母はすぐにグレーテルの頬を張った。

「バカ娘!! どうしてあたしをすぐに起こさないんだよ! 男たちが運び出すのを黙って見ていたんだね?! あたしが死ねばいいとでも思ったのか!」

 そして、私はママの振り上げる拳から逃れたい一心で走り出した。ひたすら、足を動かした。まるであの時のように。

 次の日、森で獣に手足を喰いちぎられたママの死体が発見された。体はずたずただったのにも関わらず、顔にはかすり傷一つ付いていなかったという。ただ、くり抜かれた両の目を除いては。

 私がママを見殺しにした。あのとき、どんなに殴られてもいいから彼女を引っ張ってでも連れて帰るべきだった。

 自分可愛さに………

 そう、私は司祭様に恋心を寄せることすら許されない。

 汚れた心の持ち主だ………

 シロツメクサが一面に咲きこぼれる空き地を目的もなしにただ、苦い思い出とともに歩いていた。

 蝶は舞い、蜂は羽音をたてて忙しく飛び回っている美しい午後なのに。

「おや、誰かと思ったらグレーテルさん……」

「司祭様……」

 白い馬が近づいて来るな、と思ったら、それはたった今思いを馳せていた相手であった。

 考えていた矢先の出会いに、グレーテルは驚きを隠し得なかった。

「遠乗りには最高の天気だと思いませんか?」

 彼は鞍から軽やかに地面に下りた。全てを包み込むような微笑みでグレーテルを見下ろす。しかしそれもすぐに消え、その整った顔を曇らせた。

「あなたは………泣いているのですか?」

 言われて気がつけば、グレーテルの頬に涙の筋が光っていた。

「え……あ‥‥‥‥」

 グレーテルはケープの裾で慌てて目尻を抑えた。司祭は心配そうに彼女を覗き込む。

「苦しんでいるのですね……」

 司祭は後一歩グレーテルに近寄ると、その体を胸に抱いた。グレーテルは体を固くし、はっと小さく息を飲んだ。

「い、いけません……司祭様‥‥‥私は、大丈夫です……」

「ニコライと。せめて二人きりの時にはニコライと呼んで下さい………」

 彼の、グレーテルを抱く腕にさらに力がこもった。

「……ニコライ」

 グレーテルは、彼の名前を呼んだ自分の声に、罪の響きを聞いた。

目次  次ページ