1. 始まりは、再会

 昔々、まだ王様が国を統治して、葦毛や、ぴかぴかに光る黒鹿毛の立派な馬に乗った騎士団が腰にすらりとした剣をぶら下げて街を闊歩していた頃のお話。

 町外れの小高い台地にこざっぱりとした一軒家がありました。家の裏にはバラ園があり、色とりどりの薔薇がふくよかな蕾を付けて、いつがお披露目どきだろうかとその頭を風に揺らしていました。日当りが良く、土地は肥沃で水はけもいい。家の周りは小さい区画ながらも畑が広がり、青々とした葉やたくさんの種類のハーブが土を覆い隠し、家の脇には何羽もの鶏が地面からミミズをほじくり、砂を散らして体を清潔にしていました。小柄ながっしりとした馬が一頭だけ、鼻を地面に擦り付けて、口を仕切りに動かしている、そんな風景がその家の日常でした。

 その家には一人の女の子が、否、先月19になったばかりの栗毛の女性が住んでいました。

 名前はグレーテル。

 この名前に聞き覚えがおありでしょうか。

 彼女の四つ年上の兄の名前はヘンゼル。

 彼らはまだ小さい時、口減らしのために森の中に捨てられました。魔女に食べられてしまいそうになったのを、二人力を合わせて魔女を退治し、宝を持って無事に森から出て来ました。そうです、あのヘンゼルとグレーテル兄妹なのです。

 彼らの両親はすでに他界しましたが、兄妹で全ての財産を分け合った後、賢いヘンゼルは街で商売を始め、財を増やし、家庭も持ちました。グレーテルはこの良質の土地と家を買い、残りの財産を減らさないようにバラ園で大好きな薔薇を作り、畑や農場で取れた野菜や卵を街に卸して慎ましく暮らしていました。

 グレーテルは栗毛の艶やかで豊かな髪を三つ編にしてゆったりと背に垂らしていました。畑仕事で一日中動き回る体には無駄な肉がついておらず、それでも女性らしい丸い線は肩と胸、ふわりとスカートを包むエプロンの結び目あたりに目立つのでした。

 * *

「ブルーノ、あんたの寝床に乾燥した藁を敷き詰めておいたわ。今夜は随分良く眠れるわよ」

 グレーテルは馬の背中をぽんぽんと叩き、話しかけた。そろそろ、昼食の支度をしようと、ハーブ畑に足を向けた時、「ちょっとお尋ねしたいのですが……」不意に後ろから声をかけられた。

 びっくりして振り返ると、真っ黒なマントに身を包んだ、長身の青年が立っている。

 い、いつの間に後ろに立っていたの? 人が来るのなんかまったく見えなかった…… 巡礼の方かしら。真っ黒な服を着ているし。教会の方に多いから……

 見通しのよい草地に、いきなり生えて来たように現れた男。それだけでもグレーテルは驚いたが、また、彼の端正な容姿にも視線が釘付けになった。この街の人ではない。

「お尋ねしたい事があるのですが」

 彼は良く通る声で繰り返した。

「は、はい」

 グレーテルはエプロンをきゅっと握った。

「あなたが、グレーテルさん、ですか」

 え?

 彼女は訝しげに目の前に立つ男を見つめた。警戒心で身が固くなる。何故この男は自分の名前を知っているのだろう。

 彼に見覚えは無かった。きっと、一目見たら忘れない顔だ。彼はグレーテルを見下ろしたまま、じっと彼女の言葉を待っている。

 グレーテルは我に返り、やっと答える。

「は、はい。私がグレーテルですが……」どちらさま、と口を開きかけたが、彼の方が一足早かった。

「あぁ、よかった。おまえ、オレの子供を産め」

 にやり、と口角に冷ややかな笑みを乗せている。それがあまりにも妖艶だ。不気味でもあり、彼女は一歩後ろに退いた。どうしよう。変な人だ。それでも隙を見せたら何をされるか分からない。

「はい?」

「おまえ、アレだろ、ヘンゼルとグレーテルの、グレーテルだろ。オレの母親は、お前たちに殺されたんだよ。覚えてないなんて言わせないから」

 サーッと血のひく音がはっきりと聞こえた。一瞬で空が雲に覆われたかのように、目の前が暗くなった。

「そのうえ、宝石や金貨までごっそり全部持ち出しやがって。それってさぁ、強盗殺人とかっていうんじゃないの? 罪、重いよねえ。子供とはいえ」

 もう一歩、退く。すると彼もまた一歩近づく。

「あ、あの人は魔女だったわ。ヘンゼルを、食べようとしていたのよ。ヘンゼルを食べた後は、一生私をこき使うつもりだったのよ。私たちが殺さなかったら、もっとたくさんの子供達が犠牲になったわ」

 グレーテルは何か身を守るものは無いかと、素早く周囲に目を走らせた。が、先の尖った小枝さえ落ちていなかった。

「仕方ないだろ。そうでもしなきゃ、オレたちの種は絶えるんだからさ。おふくろはまだまだ種を作らなきゃいけなかったんだ」

「た、種を作るって……子供を作るってこと? あのよぼよぼの魔女が?」

「だから、子供を喰わなきゃ体力がつかなかったんだよ。あの頃おふくろはもう200を越えていたからな。オレは96番目の息子で長男だ。覚えてない? オレのこと。いつもおふくろの肩に止まっていてさぁ………」

 肩に、止まっていた?

 グレーテルは、あの恐ろしい灰色の森の、崩れかけた一軒家での記憶をたぐり寄せた。

 決して思いだしたくはなかったが、全て忘れる程長い時間は経っていなかった。

 あぁ……。

「あの……カラス?」

「なんだ、覚えていてくれたんだ。嬉しいな」

 彼は目を細めた。

「あなた、そう言えば魔女が釜に落ちた時、鳥かごの中でぎゃあぎゃあ騒いでいたわね。息子だなんて知らなかったわ」

「ああ、お前らの目を突いてえぐり出してやりたかったけど、過保護なおふくろに篭に入れられてたからな。あそこから出るのに何日かかかったんだぜ」

 平静を装って男に答えていたグレーテルだが、彼女のエプロンを握った拳は紙のように白くなっていた。

「じゃあ、あんたは悪魔、ってわけ」

「まあ、そうだな」

「復讐しに来たの? 私と兄を殺しに来たの?」

 悪魔は大きな溜め息をついた。

「……あのさあ、おまえ、オレの話、聞いてた? もしかしておふくろが何も食べさせなかったから頭の発育が悪くなったのか? もう一度だけ言う。おまえは、オレの子供を産めばいい。おまえの成人病の塊の兄貴は、どうせ先が長くないんだ。オレが手を下すまでもない」

 悪魔の言う通りだった。ヘンゼルは魔女の家で散々贅沢なごちそうを毎日食べていたせいで、醜く太った。無事に家に戻ってからも胃はちっとも小さくならずに、反って持ち帰った宝石で食卓はいつも溢れんばかりの食べ物で賑わい、最初から最後まで席に着いて何かを口にしているのは、ヘンゼルであった。

 彼はそのおかげでまだ23だというのに糖尿病と高血圧、さらに最近は痛風まで患っていた。商売は全て使用人に任せきりの生活だった。

 それにしても、子供を産めとは。訳が分からない。

「ど、どうして私があんたなんかの、悪魔の子供なんか産まなきゃいけないのよ。悪魔なら魔女と子供を作ればいいでしょ」

「だって、おまえらのせいだもん。オレたちの種族の魔女が少なくなったのだって。オレの母親は、貴重な”女種”を産める数少ない魔女だったんだよ。ちなみに息子はオレ一人、後は全部女。おふくろはまだまだ女種を産まなきゃいけなかったんだ。それに、ただでさえオレたちの種族は上手く成人できないものが多い。だから、数が必要になる。そして、男の方が圧倒的に多いのもこの種族なんだ。それなのにおふくろをお前らが殺した。だからおまえが代わりになれ。それが第一の理由。第二は、オレのおふくろがおまえに魔法をかけておいたんだよね。女種しか作れない体に。自分に万が一何かあった時におまえを使おうと思ったんだな。魔女だからな。自分の身になにかありそうだ、って分かってたんだろう。だから、おまえが誰と何人子供を作ろうが、魔法を解かない限り男は産まれて来ない」

 グレーテルの頭の中は真っ白になった。いつの間にそんな魔法をかけられていたんだろう。全く覚えがなかった。

「えええええええ! 何それ! ちょっと、ひどい! 男が産まれなかったら家を継いでもらえないじゃない!! 解いてよ、魔法!」

 グレーテルは頬を紅潮して悪魔に突っかかった。

「ひどい、って、悪魔の母親殺したヤツの言うことかよ。それに、言っておくけどその魔法は一度悪魔と契りを結んで、子供を産まないと解けない。その子供が、おまえの”女種”を受け継ぐことで魔法が解ける」

 それでは男を産むことを諦める以外に、どうしても悪魔と交わらなくてはいけないと言うことだ。

「サイテー!!」

「それはどうも。最高の褒め言葉だ」

 悪魔は密かにグレーテルとのやり取りを楽しんでいた。面白い女だ。見栄えも悪くない。声もいい。さりげなく彼女の体に上から下まで視線を走らせた。うん、やっぱり良い。

 悪魔は小さなグレーテルが母親に捕われてからずっと、彼女を観察していた。自分が家に居る時は大抵鳥かごに入れられていたが、グレーテルは魔女の目を盗んでは、自分の具のほとんど入っていないスープ皿から小さな肉片を取り出し、カラスである自分の篭に押し込んでいた。そして小声で必ずこう言った。「あんたも掴まったの? 可哀想だから少しだけど肉をあげるわ。魔女には内緒よ」オレの方が彼女よりもずっといいモノを喰っているとも知らずに。

 そんな記憶に思いを馳せていると、グレーテルの声が割って入った。

「悪いけど、私、悪魔の子供を産むなんてまっぴら。だいたい、私、好きな人としか子供作りたくないもの。男の子は諦めてもいいわ。よく考えたら、養子を貰えばいい話だもの」

 悪魔はいきなり楽しそうに声を上げて笑った。

「あははは! 養子ときたか! 確かにな! おまえ、面白い。うん、ますます気に入った。じゃあ、おまえがオレを好きになったら、オレの子供を作るんだな?」

「あり得ません。さよなら」

 グレーテルは踵を返して、家の方へ歩き出した。悪魔は慌ててその揺れる三つ編みの後を追う。

「おい、待てよ。じゃあ、オレがおまえの魔法を解いてやる、って言ったら?」

 グレーテルは歩みを止め、勢い良く振り向いた。

「解いてくれるの?!」

 悪魔を見上げる灰色がかった緑の瞳は、期待に光を帯びていた。悪魔はその勢いにたじろぎ、視線を泳がせた。

「う……さすがに他の魔女の魔法を完全に解くことは出来ないが、弱めることは、可能だ。」

「何それ。普通でさえ二分の一の確率なのに、それが男の産まれる確率が四分の一くらいになる、とかそう言う感じ? なんか意味無いっぽい」

「でも、確率ゼロよりマシだろ。でも、タダではやらない、おまえがオレとの勝負に勝てばいい」

「あんたの言い分はわかったわ。で、私は何すればいいの?」

「三週間だ。オレに三週間くれればいい。それだけあればおまえはオレに惚れる」

「つまり、三週間経っても私があんたに『好き』って言わなきゃあんたの負けで、私に掛かった魔法弱めて、シッポ巻いて帰るってことね。間違ってでも私があんたに『好きだ』って言ったら、私はあんたの子供を作らなきゃいけないわけね? なんかあんたに随分不利みたいだけど、いいの?」

「あのさぁ、『作らなきゃいけない』じゃなくて、作りたくなるんだよ。おまえが負ければ。まぁ、おまえ、絶対にオレのこと好きになるから」

「すごい自信ね。魔法とか使っちゃうわけ? セルフ処方の惚れグスリとか?」

「おまえ、オレを見くびるなよ。オレ、最強だぜ?」

 グレーテルは胸を張る黒髪の男を呆れ顔で見ていた。

「悪いけど、一緒に住まないわよ? 今日初めて会った悪魔なんかと」

「え! それ、かなり不利!」

 今までの強気な態度は一変して、急に悪魔は慌てる。

「一緒に住めると思ってたの?! 悪魔のくせに考え甘いわね。最強なんでしょ? なんとか自分でいい方法考えてね」

「あー、じゃあ、おまえの敷地内に家出してもいい?」

「邪魔にならないようなのなら、いいわよ。そうね、馬小屋の後ろ辺り。表からは目立たないけど日当りは悪くないから、あれ? 日当りの悪い方がいいのかな?………」あ! グレーテルは急に顔を輝かせた。

「お菓子の家、建てるの?!」

「は? やだよ、アレ、面倒くさいんだぜ。それに、おまえ、それこそトラウマじゃないの?」

 グレーテルは腕を胸の前で組み、”うーん”と考えている。への字になったピンク色の口元が、彼女を幼く見せる。

「いや、お菓子はやっぱり好きよ。お菓子をあのときいっぱい食べられたのは、悪い思い出ではないわ」

「あぁ、だからおまえの兄貴はあんなにデブになるんだよな」

「あんた、悪魔だからって調子に乗らないでね。お昼ご飯食べさせてあげないわよ。あんたとくだらない話してたらもう日がこんなに高くなっちゃったじゃない。後で仕事手伝ってよ」

 一気に彼女はそう言うと、先に立って歩き出した。

 ………なんか、もう少し大人しい女だと思っていたんだけど。思い出って当てにならないよな………。

 悪魔はちょっと肩をすくめて、それでもまた急かされないうちに、彼女の後に付いて行った。

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