侵入者(後編)

  *

 エニアスが宮殿を去って数日後、キアラは部屋で本を読んでいた。ラシャードと一緒に読んだこともあるジュナイの民話だ。ラシャードがキアラを抱くように後ろに座り、彼の低い声で囁かれる異国の物語に耳を傾けるのが何よりも幸せだった。

 せめてその一時を取り戻そうと手にした本は、膝の上に開かれたまま、ページを繰られることはなかった。先日までラシャードのことでいっぱいだったキアラの胸内は、今は別の不安で乱されていた。

 自分がここに残り、エニアス一人を帰らせたのは正しかったのだろうか。エニアス。幼馴染みであり、兄であり、良き理解者だった。

 レクシオスの話が出て来た時には、エニアスが婚約者ならと一度とならず考えたこともあった。しかし、ラシャードと心を通じ合えた今は、彼以外を愛するなど考えられなかった。

 そう。自分の判断は間違っていない。エニアスは早くここを立ち去るべきだった。

 キアラはかつてアズーラから、宮殿の奴隷を目当てに忍び込んだ男たちが捕まった後にどんな処分を受けるか話は聞いていた。警備の者に見つかった男たちは、良くて街の広場で鞭打ちの刑。奴隷を傷つけたり、陵辱したりした者は即座に死刑執行人に手渡され、その家族も重い刑を課せられるのがこの国のしきたりだという。

 しかし、エニアスは誰にも見つかること無くエギュンが宮殿の外へ送り出したし、今頃は無事岐路に着いているに違いない。そう思うことでキアラの胸は一時軽くなった。

 今度こそ読書に集中しようと本を持ち直したキアラの耳に、部屋に近づく足音が聞こえて来た。

 アズーラが機嫌を伺いにまた菓子でも持って来たのだろうか。自室にいる間は、邪魔をしないように言ってあるのに。彼女は眉をしかめてドアの前に掛かっている美しい幕の方を見た。しかし、その足音が女の軽やかなものではなく、皮の靴底が立てる固い音だとわかると、その顔に恐怖が浮かんだ。

 まさか、エニアスが捕らえられてしまったのでは。役人が私を捕えに来たのか……。

 ドアが開く音に体を固くしたキアラの目の先で、幕が大きく翻った。入って来た人物と目が合うと、キアラは驚きに小さく息を飲んだ。

「ラシャード様!」

 次の瞬間、キアラは自分に近づいて来るラシャードを抱きしめ、体を刷り寄せた。

「ラシャード様……愛しいラシャード様。とうとうお戻りになったのですね……! ああ、神は私の願いを聞き入れてくださった……」

 喜びから興奮で頬を薔薇色に染めてキアラはラシャードを見上げるが、彼の瞳はそれに応えないどころか、恐ろしく冷たい光を帯びていた。そのうえ、彼の逞しい腕は恋人を抱こうともせず体の脇に下がったままだった。キアラの笑みが消え、訝しげにラシャードを覗き込む。 

「愛しい人……一体どうなさったのです? もしかして、負った傷が痛むのですか?」

「それはまだわからない」

 歯の間から言葉を押し出すように言ったラシャードの顔が、苦しげに歪む。

「私が傷つくかどうか、それは私にもまだわからない」

「それはどういう……?」

 まるで他人に対するように自分を見下ろす眼差しは、キアラを大きな不安に陥れた。

「昨日、エギュンから隊は北を守っていると聞いたばかりです。なのに今、ラシャード様が目の前にいるなんて夢のようです……。さあ、お疲れでしょう。こちらに座って……」

 キアラはラシャードの手を引き、いかにも居心地の良さそうにクッションが置かれた部屋の中心に促したが、彼は動こうとしなかった。

「ラシャード様? お体を清められますか? それでしたら浴室でお手伝いいたします」

 ラシャードは疲れ切り、髪も肌も土埃でざらついていた。それは宮殿に馬が着くなり、キアラの元へ真っ先に訪れたことを表していた。鎧を脱いだだけの、長旅に汚れた衣の袖をそっと払ったキアラの手は震えていた。その手を彼は邪険に払う。

「まず、私の質問に答えてもらおう」

 全く予期していなかったその態度と、冷め切った声に怯えたキアラは、肩をすくめながら小さく頷いた。

「もちろんです。愛しいお方……」

 今まで無表情だったラシャードの目がすっと細まる。

「そう呼ぶのは、まずおまえの答えが私を満足させてからだ。レスアの娘よ」

 得体の知れない不安に駆られ、キアラの肌は水を頭から被ったように冷えきった。

「私がここを発つ時に、お前を信じて渡した鍵だが……あれをお前は使ったか?」

 驚きにキアラは一瞬息をするのを忘れた。王子は一体どこからその話を耳にしたのだろう。疑問が頭に渦巻いたが、恋人に嘘はつきたくはなかった。

「はい、使いました。ご主人様」

「その目的は?」

 ラシャードの声はその眼差しと同様、鋭かった。

「一人の男性を逃すためです」

 キアラは最後の力を振り絞って答えた。

「やはりそれは事実だったか」

 力なく息をついたラシャードの顔は、緊張で強ばり、青ざめていた。彼は体を翻して部屋を出ようとしたが、その腕をキアラは素早く掴んだ。

「お許しください! ラシャード様! 私がそうすべきでなかったのは、重々承知しております。しかし……、私は怖かったのです。彼が捕らわれて殺されてしまうと思うと、不安で胸が圧し潰されそうで……。もし、ラシャード様がここにおられたら、真っ先に彼の自由を乞うためにお足下に跪いておりました。しかし、ラシャード様はずっと遠くに……どうか、……どうかお許しを!」

「黙れ」

 ラシャードはキアラに向き直り、正面から鋭く言った。

「裏切り者め! 私はあの鍵を亡き妻にも渡したことは無かった。たとえ渡していてもイドルネは私を欺くようなことは決してなかっただろう。決して!」

「私は欺いてなどおりません」

「その男とは誰だ? すぐに知る所だろうが、おまえの口から聞きたい」

 容赦ない声音だ。

「幼馴染みです」

「おまえがいつか話した婚約者ではないのか?」

「まさか! 違います! 誓って彼は私の幼馴染みです。血の繫がりはありませんが兄として慕っていました。そして彼も兄弟愛に突き動かされ、私を救うために危険を冒したのです」

 キアラは口早に、哀願を込めて言った。そんな彼女をラシャードはせせら笑った。

「おまえの純潔を汚す異教の悪魔から救うため、か」

「お許しください……私はラシャード様を裏切るようなことはしておりません」

 ラシャードの他人を見るような視線に耐えきれず、キアラは項垂れた。

「だから、あやつと一緒に行かなかったのか」

「どうしてラシャード様から離れることが出来ましょう。私が一度でもここから逃げ出そうと考えたと、お思いですか」

「おまえは、逃亡する現場を抑えられるのを恐れたのだ。あるいは男と一緒に捕まるのを避けるためにここに残った。違うか?」

 キアラの顔は一瞬にして血の気を失った。

「エニアスが……捕まった?」

「青ざめるほど男を案じているのだな。不貞なレスア人よ」

 声には怒りがあったが、同時に苦痛を必死で抑えているようにも聞こえた。

「絞首刑かどうかはまだ決めかねているが……」

「絞首刑!?」

 キアラは顔を上げ、思わず叫んでいた。

「しかし……、彼は何もしていません! 彼は妹を助ける思いで私を追って来たのです。ご慈悲はないのですか? ラシャード様が彼の立場になられたら、同じようにされるのではありませんか?」

「私はおまえを見つけるためなら、地の果てでも、地獄の底へでも探しに行く」

 王子の顔に浮かんでいた疲れが深まり、急にやつれて見えた。

「だが私はおまえを無理にさらったわけではない。もしおまえを返してくれと申し出る者があれば、考慮の余地はあったのだ」

 キアラはラシャードの手を握った。

「私は逃げませんでした。私の意志でここにいるのです。ラシャード様を愛しているから……」

「愛だと?」

 ラシャードは高慢に口角を上げた。

「これが男の荷物の中にあった」

 キアラにはそれに見覚えがあった。手渡されたそれを震える指で広げる。自分の手紙だ。ラシャードに送ったいくつもの手紙の一つに違いなかった。そして返事は一度として来なかった。

「しかし……」

「ここに書かれているのは、私が以前おまえに詠んだ詩ではないか? それをおまえは他の男に使うのだな。これでもおまえは自分が書いたのではないと言い切るか。それともエニアスという男など知らぬと誓うか」

「いいえ、私はエニアスを存じています!」

 文面に目を走らせていたキアラは狼狽して言った。それというのも、手紙を最後まで読んでみれば、書き出しから途中までは確かに自分が書いた覚えがあるが、途中から急にレスアを懐かしむ言葉が多くなり、最後には『愛しのエニアス』と、書いた記憶の無い文句で締められていたからだ。

 初めて読む者は、この手紙はエニアスに宛てられた恋文と信じて疑わないだろう。だが、キアラからしてみれば、これは明らかに自分の筆跡を真似て捏造された『偽の手紙』だった。自分にラシャードの嫌疑をかける者がいる。このままでは本当に自分が裏切り者にされ、エニアスの命が奪われてしまう。エニアスが死刑にされると聞いて、すっかり取り乱したキアラは、ラシャードに許しを乞うこと以外何も思いつかない。

「確かにこれは私が書いた手紙です。しかし、それは途中までで、後半の言葉には全く心当たりがありません!」

 キアラの必死の訴えをあざ笑うかのようにラシャードはふん、と鼻を鳴らした。

「私が誤りを犯しているとでも?」

 彼が手を二回叩くと、エギュンが姿を現した。

 エギュンの顔もまたやつれ、ラシャードの一瞥を受けた目には怯えが浮かんでいた。それでも彼はラシャードの足下へ駆け寄ると、額を床に擦り付けた。

「ラシャード様! キアラ様をお許しください。私が……」

 それを聞いたキアラもまた、ラシャードの腕を掴んだ手に力を込めて言う。

「ラシャード様! お咎めは私に! 罰せられるのはエギュンではなく私です!」

 さすがのラシャードもその剣幕に動揺を見せた。二人から半歩退き、声を荒げた。

「黙らぬか! 戯言に耳を貸す気はない! エギュン、宮殿(ここ)で起こる全てを把握し、私に伝えるのがおまえの役目だ。昨日のことも知らぬで済まされると思うな。私は今すぐにでもおまえを殺すことも出来る。だが、この女はおまえさえも言葉巧みにたぶらかしたに違いない。長く私に忠実に仕えた功労に免じ、今回だけは許してやろう。だが、この女とは二度と会ってはならぬ。そして私の温情を決して忘れるではないぞ。わかったらこの奴隷を他の女たちのところへ連れて行け。これ以上裏切り者の顔など見たくない」

 エギュンは立ち上がると、キアラの腕を取った。彼女は縋る視線をラシャードに向けたが、逸らした彼の横顔は頑にキアラを拒んでいた。

 宮殿の長い廊下に敷かれた厚い絨毯が途切れると、そこから後宮へ続く回廊が伸びていた。薄い室内履きごしに、ひやりと石の冷気が伝わった。いつまでも続く大理石の床を二人は黙って歩いた。キアラの心には、ラシャードの言葉一つ一つが鋭利な刃となって刺さっていた。『奴隷』。彼はそう呼んだ。一度としてそんなふうに呼ばれたことは無かったのに。

 エギュンが立ち止まる気配にキアラは我に返る。

「ここが、私の部屋?」

 入口の薄い幕を分けたエギュンの後について入った部屋は、宮殿の部屋とは比べ物にならないほどの質素な作りだった。日中でも薄暗いのは、一つだけある窓が裏庭に面しているからだろう。四つの小さな寝台とその横に衣装箱が一つずつ。鏡台が一つ。書き物机が一つ。クッションが幾つか。

 宦官は頷いたまま顔を上げようとしなかった。キアラはそんな彼の腕にそっと触れた。

「親愛なるエギュン。どうか私を許してください」

 ゆっくりと顔を上げたエギュンの前に、弱々しい笑みがあった。

「キアラ様が私に許しを乞う必要は全くありません。私は、私が正しいと思うことをしたまでです。たとえそれがラシャード様に『裏切り者』ととられようとも」

 二人の頬には流れた涙の筋が光っていた。

「あなたは、エニアスがどうなったか知っているの?」

 エギュンは立ち上がると、肩をすくめた。

「私が護衛から聞いた話では、宮殿を出てすぐにサヒドの兵に捕らわれ、そのあと、カルファの手に渡されたと」

「サヒド!?」

 キアラは嫌悪と疑念で眉間に皺を寄せた。

「どうしたらあの男がエニアスを捕らえられるの!? サヒドの宮殿は河の向こうじゃない! エニアスがここにいたその日にどうしてサヒドの手の者がいたの?」

「私が知るのはそれだけです。しかし、キアラ様がラシャード様の宮殿から出た今、アズーラが再びカルファの元へ、奥様のダナニヤ様にお仕えすることになるでしょう。そうすれば私は彼女からキアラ様のご友人の話を詳しく聞けると思います」

「エニアスは……拷問も死も免れたの?」

 キアラは胸の前で重ねた手を握りしめた。

「それは決してラシャード様の流儀ではありませんから。今はカルファの牢へ入れられていますが、すぐに王子の命令でこちらに移されるでしょう。そして有罪が認められた上で罰せられます」

 エギュンは優しくキアラの頬を撫で、涙を拭った。

「心配ありません。イルディン神は私どもの味方です。必ず力を貸してくださいます」

 その時、女たちの話し声が近づいて来たと思うと、二人の奴隷女が部屋に入って来た。エギュンを見ると驚き、おしゃべりをやめて一礼すると、キアラに視線を流した。そしてお互い目配せをし、薄い笑いを浮かべた。

 エギュンはキアラの肘を掴むと、二人から遠ざかるように部屋の隅に連れて行った。今までの優しい表情は消え、険しい声音で囁く。

「どうぞ女たちの挑発や侮蔑に、ご自分を見失うことがありませんように」

「侮蔑?」

 キアラが女たちを見ると、彼女達は明らかに自分を見てこそこそとまたお喋りを始めていた。

「ここにいる奴隷たちは、キアラ様がラシャード様の宮殿を出たことを明日にでも知るでしょう。キアラ様が寵愛を受けたことを嫉妬している者もいます。お分かりですね、嫉妬に狂った女の浅ましさは……」

 宦官の口の端に嘲弄が刻まれた。キアラは強く頷く。

「わかったわ。ラシャード様が許してくださるまでお行儀よくしているわ」

「アズーラはきっとキアラ様に会いに来ます。彼女はキアラ様の悲運に打ち拉がれ、今は何も手に付かないほど落ち込んでおりますが」

「あなたは? エギュン」

「キアラ様もお聞きになった通り、私はキアラ様との面会を今後一切禁じられました。ですが、出来る限りお仕えするつもりです。ただ、ここの女たちが目を光らせているので、あまり目立つことは出来ませんが」

 キアラは感謝を込めてエギュンの手をしっかと握った。

「いいの。私は大丈夫。あなたも無理はしないでね」

  *

 ダナニヤは、ラシャードが部屋に入って来たのに気がつくと、花を活けていた奴隷に向かって手のひらを返しただけで下がらせた。

「レスアの娘とは話をしたのか?」

 息子と二人きりになったとたん、口早に尋ねた。

 ダナニヤはキアラがラシャードの宮殿に連れて込まれてからというもの、暇を見てはアズーラを呼び出し、息子を虜にしていると噂のレスアの娘の話を聞き出していたので、今回の騒動もいち早く耳に届いていた。

 ラシャードは頷き、そのまま母の前を通って庭に面した窓に腰掛けた。そして物憂げな様子で外を眺める。

 カルファ――ラシャードの父――が、彼を戦地から呼び戻し、捕らえたレスア人の相談をした。そして、その男が、彼女にとって特別な存在だと知ってから、彼の世界は闇に閉ざされた。

「彼女は、あれが竹馬の友で自分を助け出したかっただけだと……」

 ラシャードは母親の視線をまだ避けて続けていた。

 母親が自分を呼び出すのは珍しくはない。そうでなくても、母を満足させるためならどんなことでもするつもりだし、実際そうしてきた。しかし、今回だけは仮病を使ってでも断りの使者を送ろうかとふと頭によぎり、また、母の部屋に近づくにつれ、脚に鉛の重りが一つずつ増えて行くような気持を覚えた。

「そなたはそれを信じていないのか」

「男が持っていた手紙は、彼女の言うことと違うことを私に語っています。しかし、奇妙な手紙でした。冒頭は、男が自分の側にいないことへの怒り、嫉妬から来る逆恨み、胸の痛みを訴える言葉で埋め尽くされている。読む者の心もまたその痛みで息を詰まらせるほどに。しかし、それが一体どんな理由であの娘は同郷のものに異国の――我々の言葉で書いたのか。私には全く解せないのです。本当にあれは捏造されたのでしょうか? しかし、あの娘が私の留守中に男を匿い、私の鍵を使って逃がしたのは事実です。母上、男は本当に娘の友人でしょうか。兄のように慕っていただけでしょうか。こうして時間が経つ間にも、私は彼らの言葉に圧し潰されそうなのです。彼らは真実を語っているのではと。間違いを犯しているのは自分ではないかと。恋人が私を欺くなどあり得ないと思い始めてしまうのです」

 最後の方は、ラシャードの声が微かに震えていた。

「それなら男を拷問にかければ良い」

 ダナニヤは小さく鼻を鳴らした。

「もしや、そなたは男から、娘が本当にそなたの想像しているような罪を犯したと聞かされるのが怖いのか」

 彼は電光石火の素早さで、母親を振り返った。

「このラシャードがかような真実に耐えられぬと? 母上は私を臆病者呼ばわりされるのですか」

「いや、私はそなたが娘に心底惚れ込んでいる、ただの若い男に見えるだけよ。決して娘を失いたくないとな。しかし、真実は明らかにせねばならぬ。それは結局そなたのためなのじゃ」

 ダナニヤは立ち上がってラシャードに近づくと、そっと頬を撫でた。

「行くが良い。そして事実を見つめるのだ。私はそなたの幸せをイルディンに祈っていよう。次に会うときはきっと笑顔を見せておくれ」

  *

 牢に入ったラシャードは、まず目が薄暗がりに慣れるまで待たねばならなかった。陽が全く射さない地下通路の延長にある丸天井のそこで息を吸うと、湿った黴の匂いに胸がむかついた。

 ラシャードは慎重な足取りで進み、やがてエニアスの牢の前で立ち止まった。看守が後ろから掲げたランプの光に中の様子がぼんやりと浮かび上がる。

 エニアスは手枷足枷を付けられ、壁際の粗末な石の寝台に横になっていた。ラシャードは銅像のようにいつまでも自分の後ろに立っている看守に振り向いた。

「行け。私はこの囚人と二人きりで話したい」

 看守はやはり何も言わず、壁から出ている(かぎにランプの傘の輪を掛けて離れて行き、やがて闇に解けた。

「もしや、キアラを後宮に縛り付けているご本人の登場か」

 エニアスの声は掠れていた。

 捕らわれの彼は、ラシャードの牢へ移されるまで傷つけられるような手荒な扱いは受けなかったが、同じようにいたわりも無かった。枷によって手首の肌は傷つき、乾いた血がこびりついていた。長いこと水を与えられずに喉は焼け、舌が上あごに張り付くようだった。

「いかにも。おまえが侵入し、私の女を盗もうとした宮殿の主人だ」

 ラシャードの声は牢の空気と同じくらい冷え冷えとしていた。

「あなたの女奴隷。脅迫し、精神的に追いつめて自由を餌に奉仕を強要させられている、女奴隷」

 エニアスは顔だけラシャードに向け、暗闇から彼を見据えた。ラシャードはそれには応えず、しばし相手を観察していた。

「あの女はおまえと逃げなかったのか?」

「そうだ。キアラは僕をあっさり追い返した」

 そして、突然何かに思い当たったように身体を起こそうともがいた。

「彼女は!? キアラはどうしている? おまえは彼女に何かしたのか!? キアラはどこだ。キアラに会わせろ! 無事をこの目で確かめたい!」

「女は無事だ。ただ、これからどうなるかはおまえの答え次第だ」

 ラシャードは懐から手紙を取り出し、広げて牢に差し入れた。

「おまえの荷物から見つかったこの手紙だが、これはおまえに宛てられたものか」

 その手紙に連なる字が、異教の国の言葉だと分かるや否や、手紙から顔を上げ、挑戦的にラシャードを見上げた。

「手紙? こんなものは初めて見る」

「恐怖のあまり嘘をつくか」

「では、もしこれが僕のものなら? 一体何が変わるというんだ?」

「多くだ。これはあの女の不貞の証になるはずだ」

「ならば尚更、これを見る必要は無い。僕の物ではあり得ないのだから」

 掠れ声にはっきりと嘲弄が聞こえた。

「それに、僕にそれはほとんど解読出来ない。この国の言葉は少しは手習いしたが、読み書きは自信が無い。それは彼女も承知だ」

「ならばこれはどうだ」

 ラシャードは、表にレスア語で一語書かれている手紙を見せた。それはまだ封をしたままで、まず彼は囚人からその内容を聞くつもりだった。もし彼が内容について嘘を吐くようなことがあれば……。

 名前を読んだエニアスは顔をしかめた。

「それはあなたが持つべきものじゃない!」 

「それなら誰の元へ行くべきだと?」

「キアラの父親だ。だがそれがあなたの手にある以上、彼は娘の無事を知ることは無いだろう」

 エニアスの目は相手を軽蔑するように光った。

「だがそれも、彼にとっては良かったのかもしれないな。もしキアラの父親が真実――娘が後宮に奴隷として飼われ、一人の暴君の権力の下に怯えていることを知ったら、たちまち心が折れ、寝込んでしまうだろうから」

(この男は本当に幼馴染みなのか。名前などなんとでも誤摩化せる。もし、そうでなければ……)

 ラシャードはキアラが口にしたもう一人別の男の存在を記憶していた。将来の約束もない幼馴染みのために、わざわざ危険な旅に出る者などいるだろうか?

「おまえはキアラの婚約者か」

 エニアスは、乾いて裂けた唇を舐めた。 彼は、自分に残された道は、それが長くとも短くとも確実に死に繋がっていると悟っていた。そんな自分に失うものは何も無い。――キアラを除いて。 自分が死んだら、彼女を助けられる者は一人もいなくなる。少なくとも、彼女の運命を故郷(くに)に伝える者が。

彼はラシャードを今一度じっくり眺めた。

(この男は少なくとも知恵がありそうだ。ひょっとしたら……)

「そうだ」

 エニアスの乾きに荒れた声は、それでもはっきりラシャードに届いた。

「彼女は僕と結婚の約束をした。だから、もしあなたの身体に誉れなる魂が宿っているなら、僕の屍と引き換えに彼女に自由を与えてくれ」

「それはできん」

 ラシャードは鋭く言い放った。腰に下げた剣の柄に掛けられた彼の拳は白くなるまで握りしめられた。

 そうとも。キアラは始めから嘘をついていた。やはりこの男は幼馴染みではなく、私の――敵だ。

「女は私のものだ。永遠に、これからも」

「僕は彼女の夫になる権利がある!」

 熱り立ち、思わず身体を起こしたエニアスは、同じ勢いで手枷の鎖に再び寝台に引き戻された。

「僕は彼女を愛している。彼女を捜し出し、連れ帰って妻にする。それだけを思ってここまで来たのだ!」

 訴えた言葉の一部は必ずしも嘘ではなかった。ある部分は真実でもあった。ただ、ラシャードがどの部分をどう取るかは、エニアスに責任を負う義務は無かった。これはエニアスに取ってたったひとつの賭けだった。彼は手首の痛みも忘れ、再度身を起こした。

「もし、あなたに勇気と剣の腕があれば、彼女を賭けて僕と闘ったらどうだ! 僕が勝てばもちろん彼女を連れて帰る。もしあなたが勝てば……」

「おまえたち二人が死ぬと」

 ラシャードは言葉を継いだ。

「それがレスア人のやり方か」

「必ずしもそうではないが」

 剣には自信がある。これがキアラの無事を手に入れる一縷の望みだ……。エニアスは企みが見破られないよう慎重に続けた。

「あなたが勝てば、キアラはあなたのものだ。そして邪魔者はこの世から消える」

「そうまでして死期を早めたいのか。よし。受けて立とう」

 ラシャードの瞳が獰猛な光を帯びた。

「おまえの撥ね飛ばされた首は、国のしきたりどおり橋の欄干に乗せ、晒してやる」

 ラシャードは看守に手招きをした。

「部屋を与え、十分な休息と食事をとらせろ。死にかけたネズミが決闘の相手ではつまらんからな」

 同じ夜、ダナニヤはラシャードのいる部屋――以前、キアラが使っていた――に入ると、窓から庭を眺めている息子の横顔を見るなり言った。

「その打ち拉がれた姿がどれだけ母の心を痛めるのか、そなたにはわかるまい」

 彼は視線を母親に流した。

「打ち拉がれている? 私が? いいえ。疲れているだけです」

 ダナニヤは息子に近づき、我が子の黒髪を梳こうと手を伸ばしかけたが、彼はそれを払うと逃げるように庭へ続く扉の方へ行ってしまった。

 どんな慰みの愛撫も、キアラ以外の誰からも受けたくはなかった。そして、彼は昼間にエニアスから受けた打撃と、赤毛の奴隷への落胆を母にわざわざ知らせる気もなかった。

 ただ一人でいたかった。キアラの嘘とエニアスの真っ当な怒り、捏造された手紙、そしてその不実な奴隷を自分はこれからどうするか。それを全て一人で考え、決断しなければならない。

 ラシャードの奴隷が不貞を働いたという噂――彼の伯父がわざわざ知らせてくれた――は、すでに街の半分には伝わっていて、ラシャードの名誉と体面を修復するにはキアラを諦める以外、道はないだろうとカルファの一族は思っていたし、言葉にしなくてもラシャードにはそれが手に取るように分かっていた。

(今ここにキアラを呼べたなら)

 隣に座った彼女は、細い指で私の髪を梳くだろう。繰り返し、繰り返し愛の満ちた手つきで。その合間に私はあの愛らしい唇に口付けるのだ。

 その感触をより強く思い出そうとするかのごとく、無意識に瞼が下りる。しばらくしてからゆっくりと目が開き、まだ夢うつつのうちに帯の中から一条のリボンを出すと、その持ち主を愛撫するかのように指先で弄んだ。それは、ラシャードが旅立つ前にキアラから受け取った手紙に巻かれていたものだった。戦地でも肌身離さず持ち歩いていた。

「囚人とは話したのか?」

「はい」

 母の声に、キアラへの思慕を断ち切られたラシャードは短く答えた。

「それで、どうするつもりか」

「殺します」

 ふてぶてしくもキアラを要求した男。キアラが命を救おうとした男。あの男だけは生かしてはおけない。

「娘はどうする?」

 ラシャードは答えなかった。ダナニヤは思案するように彼を見、扉を抜けて噴水まで行くと水に手を浸した。

「私の息子をこんなにも苦しめているものを私が分からぬとでも思うか」

 母親は、近づいて来た息子を見据えた。

「それは、娘の裏切りだけではなく、そなたの名誉と誇りを傷つけた事実でもある。それが心を乱すのだろう? この場合、娘に慈悲など無用じゃ。さあ、あの娘をどうする」

「どうするとは?」

「まさか、そなたは娘を追い出し、ただ他の奴隷と一緒にしておくだけではあるまいな? それでは他の者への示しがつかぬだろう。そんなことではこれから主に不誠実な者がもっと出て来るぞ」

 興奮から裏返った母の声に、ラシャードは眉をひそめた。

「ならば母上はどうしろと?」

「鞭打ち百回は最低限だ。そなたが娘を生かしておくか、宮殿から追い出すかを決めるのはそれからでも遅くはない。それとも鼻を削ぐか。目を潰しても良い。今後一切他の男に色目を使いたくても出来まいて」

 ダナニヤは目を輝かせ、胸の前で濡れた手を合わせた。

「そうじゃ。それがよい」

 彼女は勢いよく噴水から離れてラシャードに駆け寄ると、遠くを見つめる彼の頬を撫でた。

「私の息子をこれほどまでに苦しめる者に、そんな罰ではまだ足りぬくらいだ」

 そう呟くと、息子の手に唇で触れ、去って行った。

 ラシャードは肩越しに母親の姿を見送ると、部屋に入り重い溜め息をついた。胸中で常に燻る怒りと嫉妬をそうやって抑える日常は、それを持ち込んだ男を殺すまで続くだろう。彼は問題の手紙を部屋の文机から取り上げた。

 読めば読むほど偽物だと思わずにいられない代物。書き出しは本人を彷彿される勢いがあり、また、彼女によくありがちな文法の間違えが何カ所か見つかった。だが、途中から文は淀みなく綴られ、結ばれている。そこに誤字や文法の誤りは一つとしてない。これはキアラの言うように捏造されたものに違いなかった。

(ならば誰が。どうして)

 この街の、ラシャード、いやカルファに敵対心を持つ者の名が幾つか頭に浮かんだ。自分の地位を、財産を羨む者たちだ。彼らが自分の名誉を傷つけ、恥をかかせるためにこの隠謀を企てたとして不思議は無かった。

 サヒドの名ももちろん、その名簿に載っていた。そして、偶然にも宮殿から逃げ出したレスア人を捕らえたのは彼の兵だった。

 頭の中に垂れ込めていた懊悩(おうのう)がすっと薄れていき、ラシャードの理性がその姿をくっきりと現し始めると、確信を映した瞳が煌めいた。

 ラシャードはギリッと奥歯を噛み締めた。

(あの薄汚い犬は、どうにかしてあのレスア人の情報を得た。全て偶然にしては都合が良過ぎる。……密偵か。この宮殿に密偵を忍ばせることくらい、あの男ならやりかねん)

 ラシャードは自分に仕える者の顔を思い浮かべた。――宦官、奴隷女、看守……。

 しかし、誰一人として自分を裏切っているようには見えなかったし、女たちに至ってはキアラが来てからほとんど顔を合わせておらず、数人でも思い出すことさえ困難だった。

 だが、逆にただ一人だけ、この宮殿で密偵でない者がいる。その者と話せばならない。彼は強く手を叩いた。女が現れ、不安げな眼差しで主人を見上げた。

「エギュンを呼べ! 今すぐに!」

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